本当に、いい奴らだ。
しかし爆はその内心を、表情にまでは出さなかった。 彼としては、刹那のコンプレックスが消えたことを共に喜びたい。 だが、湖の中央に聳え立つ鬼神の驚異が消えない限り、気を緩めることは許されなかった。
第一、肝心の木乃香は未だ囚われの身なのだ。
と、橋の向こうの祭壇を覆う白煙を突き破り、現れる小さな人影。 白髪の少年、フェイトが、ゆっくりと歩み寄ってくる。
「……そこにいたのか」
冷え冷えとした声の中に、僅かな怒りが含まれているように聞こえたのは、はたして爆の勘違いか。 瞬時に魔力を高めたところを見るに、内情がどうあれ戦意の衰えはないようだった。
フェイトの接近を知った刹那が目元を拭う。 水晶のような雫が夜気の中に散って消えた。 刹那の目に、既に涙は無い。 ただ、木乃香救出の使命のみが炎のように燃えていた。
アスナが刹那の肩を叩く。
「さ、行って刹那さん。ほら爆さんも」
「だが、あのガキはどうするつもりだ。通してくれる気はなさそうだが」
「彼は、僕たちで止めます」
ネギが進み出る。 眼鏡の奥の双眸には決意。 肩のカモが悲鳴を上げたが、無視。
「……できるか?」
ただそれだけ、爆が問うと、ネギとアスナは頷いてみせた。 それで充分だった。
「なら、任せた」
爆は刹那の方を向く。
「お前は木乃香を。俺が援護する」
「はい」
「よし。……行くぞ」
爆と刹那が同時に地を蹴った。
刹那は背中の白翼で夜空に舞い上がり、爆はそのまま直進した。 疾風となった青年に、その進路上に立つフェイトは掌を向けた。 魔力が集中、しかし爆は我関せずとして走行を緩めない。
「……何のつもりかは知らないけど、そのまま消えてもらうよ」
フェイトの掌に光が収束、瞬時に光線となって放出された。 それは一直線に爆に向かうが、しかし彼の心を揺らすこともできない。
「はっ!」
光線を間近に、爆は跳躍した。 折り畳んだ足の爪先を光が掠めるが、直撃とは程遠い。 軽々とフェイトの頭上を飛び越え無事着地。 爆は再び走り出した。
「くっ……」
フェイトの初めて見せる苛立ちを帯びた顔が、伸ばした腕ごと旋回。 爆の背中を狙う。
だが追撃は成されなかった。 飛来した一筋の光の矢が、フェイトの魔法障壁の表面で弾ける。
「!」
彼が矢の軌跡を辿ると、そこには杖を握ったネギと、ハリセンを構えたアスナが並び立っていた。
「……どれくらい持つと思う?」
標的を自分たちに変えたフェイトを見据えたアスナが、隣のネギに尋ねた。 少し考えてから、彼は答えた。
「今の魔法の矢でほとんど魔力を使い果たしてしまいましたから、僕が戦ったら十秒。アスナさんでも、たぶん良くて五十秒くらいだと思います」
「そ。じゃあ、二人合わせたら一分ね。充分じゃない?」
「ええ、充分です」
二人とも笑っていた。
立っていられるのが不思議なほど、ネギもアスナも疲弊していたが、心の底から込み上げてくる熱さは止められない。 今空を支配しているのは月と夜闇だったが、まるで太陽の下で戦っているような気がしていた。
希望という名の、太陽の下で。
負ける心配など微塵も無かった。 むしろ即行で木乃香を助けた二人が、自分たちが戦っている間、暇を持て余すのではないか……という心配をしていた。
「……契約執行」
ネギの唱えた呪文により、アスナの肉体を魔力が鎧う。 術者の疲労に比例し微弱な光だったが、それが今出せる全力だった。
『来るぜ!』
カモの警告。
前方のフェイトの姿が掻き消え―――アスナが後ろに吹っ飛んだ。 空中で振り切られた、フェイトの足刀によって。 恐るべきことに、彼は十数メートルの距離を、杖も使わずに一瞬で縮めてみせたのだ。
「アスナさん!!」
体ごと振り返ったネギだったが、すぐに他人の心配をしている場合では無いと気づいた。 殆ど瞬間移動のように背後に現れたフェイトの拳が、背に突き刺さる。
「あぐっ!」
魔力で強化しているのか、信じられないほど重い拳打。 ダンプカーにでも撥ね飛ばされたかのようにネギは宙を舞った。 飛翔の終着点は、痛みを堪え立ち上がろうとしていたアスナ。 少女の顔には驚愕と焦燥。
「しまっ……」
お互いに身動きできず、ビリヤードの玉のようにネギがアスナに激突。 二人とも橋の上を跳ねて転がった。
すかさずフェイトが影のように追い縋る。 立ち上がったネギとアスナに、無数の拳打より生まれた壁が迫った。 実際に手が増えている訳では無いのに、連撃は四本の腕を楯にしての防御を容易く突き崩している。 反撃の暇など微塵も与えられない。
フェイトの上半身を捻りながらの肘打ちに、耐久の限界を超えたネギとアスナは揃って撲り倒された。
「わああ!!」
「きゃあああ!」
二人分の苦鳴が夜気を震わせる。
倒れ伏したネギの意識を侵食する激痛は、頬に密着する橋の冷たさすら認識させない。 霞がかったようにぼやける視界に、突如、白光が差し込んだ。 その下に、夜空に右腕を突き上げる白髪の少年の姿。
「……ッ!」
「ヴィ・シュタル・リィ・シュタル・ヴァンゲイト。 小さき王、八つ足の蜥蜴、邪眼の主よ!」
詠唱が虚空に刻まれるにつれ、フェイトの指先に宿る光が一層輝きを増してゆく。 逃げなければ、という思考は浮かんだが、疲労と痛みで足が動いてくれない。
「その光我が手に宿し、災いなる眼差しで射よ!!」
光が闇を縦に斬る。 魔力を宿した指先が銃口のようにネギに向けられた。 障壁を展開する魔力は無い。 回避する時間も無い。 死神が忍び寄る気配を、ネギは明確に感じ取った。
詠唱が終る。
「―――石化の邪眼!!」
炸裂する閃光。 突如それを遮る影。 顔を柔らかい感触が包んだ。
「ネギっ!」
影はアスナだった。 フェイトの指先から放出された光条が、彼女の背中を直撃する。 指先が右方に振られ、石化の邪眼は光の剣となって橋を両断。 材木が灰色の石に変質し、砕け落ちて暗い水面に大きな波紋を生んだ。
「アスナさん!!」
少女の胸に抱かれたネギが叫ぶ。 直撃を受けたアスナが無事である筈がない。 背中から、不気味な灰色が彼女のトレーナーを侵食している。 石像と化したのどか達の姿がネギの脳裏を掠めた。
灰色の小さな欠片が彼の顔に落ちてきた。 完全に石となった、アスナのトレーナーの一部だ。
「(……?)」
ネギは違和感を覚えた。 見れば、石化しているのはアスナの衣服のみで、肉体の部分には何も変化が無かった。 ―――石化の魔眼が、彼女には効いていない?
「やはり、魔力完全無効化能力か」
確信に満ちた声は前方上空から聞こえた。 アスナの肩越しに、ネギは拳を魔力で強化したフェイトが接近してくるのを見た。 まるで流星のように、白髪の少年が暗い空から降ってくる。
「まずは君からだ……カグラザカアスナ!!」
彼がアスナに肉迫するには二秒で充分だった。 引かれた右拳が、意識を奪うためか、もしくは命を奪うために彼女の後頭部に向けて放たれる。 風を切る鋭い音―――くぐもった衝突音に打ち消された。
横合いからのネギの手が、フェイトの手首を掴み一撃を止めている。 拳打を食らう筈だったアスナは既にネギから離れ、得物の「ハマノツルギ」を両手に構えていた。
「ア、スナさん……大丈夫、ですか?」
「うん、ネギ。大丈夫よ」
答えながら、アスナは「ハマノツルギ」を大きく振り被った。 トレーナーが全て砕け落ち、少女の白い肌が夜の中に晒される。 だが、アスナは止まらなかった。
「イタズラの過ぎるガキには―――おしおきよッ!!」
横薙ぎに、ハリセンが一閃。 防御のため掲げたフェイトの腕を叩く。 ガラスが割れるような甲高い破壊音は、無効化された障壁の断末魔だ。 フェイトの顔に焦燥が走る。
『兄貴今だ!!』
「うおおぉっ!!」
ネギは全身から魔力を掻き集め、握り固めた右手に集中させる。 これが正真正銘、最後の力だ。
掴んだフェイトの腕を引き寄せ、ネギは顔面に拳を叩き込んだ。
◇◆◇◆◇◆
下が何やら騒がしい。
千草は怪訝に思ったが、すぐに気にならなくなった。 そう、もはや何も気にする必要はないのだ。
「このリョウメンスクナがおるんや……怖いことなんかあらへん」
胸裏に刻みこむように、千草は独白した。 胸の前に横たわる木乃香が手綱の役割を果たしている間は、この大鬼神は自分の思うままだ。
かつての大戦の英雄ナギ・スプリングフィールド――唾棄すべき名だが――と現在の関西呪術協会の長である近衛詠春の二人がかりでやっと封印したという強さならば、凡百の魔法使いならば千人いようと蹴散らせるだろう。
途中で何かと邪魔が入ったが、作戦は成功した。 これから関東の西洋魔術協会に攻め入り、憎き西洋の魔法使い達を殲滅する。 両親の仇を討つのだ。
そうしたら―――千草は木乃香の寝顔に視線を落とした。
「……そしたら、解放するさかいに。お嬢様、もう少し……うちに付き合ってやってください」
呟いてから、千草は深く後悔した。 意識の無い彼女にこんなことを言ってなんになる? 今さら罪の意識を軽くしようとでもいうのか? 既に、自分は外道の道を歩んでしまっているのに? 反吐の出る偽善だ。
「くそっ……!」
無性に頭を掻き毟りたい気分になったが、今はリョウメンスクナのコントロールに集中しなければならなかった。 全てを燃やし尽くして余る復讐の念と、一欠けら残った情とが絡み合い、茨のように千草の心を苛む。
全てが消えてしまえば、こんなに苦しまずにすむのだろうか? 眼下に広がる景色も、魔法使いも、近衛木乃香も………そして自分も。
全て、消えてしまえばいい。
下方から白い影が、風を纏って千草の前に躍り出る。 夜闇に舞い散るは純白の羽。 野太刀を携え、背中に翼を背負った桜咲刹那が、そこにいた。
「天ヶ埼千草。お嬢様を返してもらうぞ」
凛とした宣言とともに、野太刀の切っ先が向けられる。 喧しい小娘め、と歯噛みした千草は、リョウメンスクナに叩き潰せと指令を送ろうとした。 しかし、それが無理なことに気づく。
近過ぎるのだ。
自分と彼女の相対距離は十メートルも無い。 刹那を撃ち落とすのは簡単だが、その力の余波はこちらにとっても危険だ。 思考の海に沈んでいた、ほんの僅かな時間が致命的な隙となっていた。
「猿鬼! 熊鬼!」
懐から二枚の札を放つ。 具現化した猿と熊の式神が、着ぐるみのような見た目にそぐわぬ鋭利な爪を構えて刹那に襲いかかった。
少女の体が前方に傾き、直後、こちらに向けて突進。 白い翼が大気を切り裂き、刹那を一陣の風にした。 速い。
猿鬼と熊鬼の間を擦り抜ける。 二体の胴が上下に分かれ、爆散。
「!」
焦り、千草は再び札を放とうとした。 しかし絶望的に時間も距離も戦力も何もかもが足りない。 何故、ここまで接近を許してしまった? いやそもそも、護衛の筈のフェイトは何をしているのだ?
思考が混乱に侵される。 刹那が肉迫する。 頭が―――痛い。
「……くっそぉおおおおおッ!!」
真横を通り抜けた風に、千草は血を吐くような絶叫を上げた。 目の前からは、近衛木乃香が消えていた。 |