「ん」
しまった。ちょっと目が霞んでいるところを見ると、と言っても自分では見えないんだけど、まぁ、自分の目が霞んでいると言う事は、少し眠っていてしまっみたい。
両の拳で顔を洗うようにちゃんとする。胸元では、まぁ気持ちよさそーにレッケルが寝ちゃってるワケよ。
恐怖胸元で蛇を飼う女の子、なんて言うニュースを伝えられちゃたまんないから、もうちょっと胸元をしっかりしめて、もうすぐ夕暮れ時の空を空港の飛行機待合ロビーで待っている。
「………」
周辺はいったって穏やかな光景が広がっている。
そりゃ今日は平日で、空港の賑わいも休日とかから比べれば格段に過ごしやすいってモンよね。
それでも、これからあのバカでっかい鉄の鳥に揺られて十数時間かけて海を、大陸を渡っていくって言うのは、正直大変だし、女の子としてはお尻の都合とかがあるわけですよ。
「…愚痴ってどーするんだか……」
ずずっと長椅子にもたれかかっていく。って言うか寝そべる。
そりゃそうだ。愚痴を言った所で状況に変化が訪れるわけでもないし、日本に行く為には飛行機搭乗は必須の条件だもの。
魔法使いなんだから空飛んで〜とか言うヤツもたまに居るけど、ロンドンから日本まで何で飛んで行けって言うのよねぇ。魔力枯渇で落ちるって言うのよまったく。
そんなどーでもいい事を考えてると眠くなってくるから、とりあえずは違うことを考えますか。
とりあえず日本に居るネギの事だ。
ネギはホントとろくてバカで、私が居なくちゃなーんにも出来ないようなヘタレだったけれど、今は少しはマシになってるのかな。
メルディアナの魔法学校へ通っていた頃は、ネギったら一人で行けばいいっていうのに、何でか私まで引き連れて図書館の貸し出し禁止攻撃魔法専門書を盗み見して修行に付き合ってって言うんだもん。
正直無視すればよかったんだけど、そこは私、ネギの姉貴分。仕方なくネギに付き合ってあげたのだけど、ソレが拙かった。
アイツったら日が暮れても修行修行、日が明けるまで修行修行。私が帰ろうっていってももう少しで繋ぎ止めるのは、やっぱ一人じゃ心細かったのかな。
そんなヘタレが今日本で一人修行中だと聞くと、やっぱり正直ゾッとしない。
あの一人ぼっちでは何も出来なかったネギが、果たして一人で何かを成し遂げることなんて出来るのかなと思い、そこまで思うのは流石に過保護すぎるかもねとも思考してる。
アイツは魔法使いの何たるかを理解していない。
アイツが目指す地点には、ネギの父である“千術の覇者”はいても、マギステルマギはいない。
多分、ネギはそれに気付いては居ないと思う。
いや、私だって実はつい最近まではそれがまったく違うものだなんて言うのには気付いてもいなかった。師のお話を一度だけちゃんと耳に詰め込んだ時に、それに漸く気付いたんだ。
つまり、この事は自分では気付けない。
自分は自覚して魔法使いとは如何なる者であるかを思考する事が出来ないと言うのだ。
おかしな話だけど、多くにこのお話をすると、皆こぞって遠くを見るような眼差しになっちゃう。それは、紛れもなくかつての何かを顧みるような、そんな諦観を感じ取っていた。
「………」
寝そべったままで硝子の窓越しに、徐々に出立の準備が整えられていく鋼の鳥を顧みる。あれに乗って向かう先には、それを理解している奴は誰か独りでも居るんでしょうかね――――
変な浮遊感を感じて、ああ、モノの中に入ったまま空を飛ぶって言うのはこんな感じなんだと、今更ながらビックリしてるんですよ、私。
実は私、アーニャは飛行機って言うのには乗ったことはないのですよ。
正直飛行機って言うのを目の当たりにしたときは“なんじゃこりゃー”って実感して、ホントにこんなバカでっかい鉄の塊が空を飛ぶんですかい、とも思ったわけよ。
そりゃ思うって、魔法使いだって空飛ぶとき箒はいるわ、触媒はいるわ、中々に手間がかかる。
にも拘らず、飛行機って言うのはこの大人数でこれだけの飛翔だもの。こりゃ魔法使いって言うのはひょっとしたら退化してるのかもしれないって思うわけね。
「…気持ち悪いですですっ…ふぎゅ」
胸元に入れたまま連れてきちゃったレッケルの愚痴も、解らないわけじゃない。
スタンディングランの際のGと来たらもぉ、お腹と背中がこんにちはするんじゃないかって勢いだもの。
フライトオフの時と来たらもぉ堪らない。吐き戻しても構わないやーってぐらいのGは、ちょっと魔法使いの技術とか解き混ぜて軽減した方が、よっぽど乗客にはいいんだと思うんだけど。と、そこまで考えて少しだけ自嘲した。
なんかのゲームだったっけ。
確か日本製のシューティングゲームで、向い来る敵をどんどん撃っていくって言う単純な戦闘機操作のゲームを、友人と一緒にやった事があった。
単純な操作の割にはやけにストーリーが重厚でとても牽き付けられたのを覚えている。
そのシューティングに登場する敵って言うのが、世界中のありとあらゆる技術を取り込んで、そう、それこそ生体物理学、遺伝子工学、機械力学、しまいの果てには魔道力学、即ち魔法の技術まで取り込んで作り出された“生体兵器”と言うのがそのゲームの宿敵だった。
人類の技術が極限まで到達して生み出されたソレは、不完全な人間が生んだにも拘らず、自己進化、自己再生、自己増殖、自己保管とか言う完全性四大理論とか言うものを持った、完全生命体として生み出されてしまった。
結局、生み出されたそんなモノを人間が制御できるべくも無く、栄華を極めた人の世は割かしあっさり滅びて、ソレはその時代での全ての文明を破壊しつくしたとか。
けど、思った事がある。それはどっちもどっちだって。
いや、それは全面的に人間の業だ。好き勝手やって作ったら手に負えなくて、そんで世界の果てに追放しちゃったら時間の枠を超えて過去に出現したって言うからお笑い。
人が持つ技術はそれだけで良いと言うのに、さらに上を目指した結果が滅亡と言う“進化の終わり”だった訳だ。
進化の終わり。進化の完了とは即ち死滅を意味する。
全てを持っている奴って言うのはそれ以上何も得られないから、後は死の向こう側を見るしかない。
そのシューティングゲームの敵にしても、人間にしても、神様にしても。全部持ってたら、あとは何もかも無くし尽くすしか何かを得る方法って言うのは存在しない。
残念だけど、今の私はこっち側を結構気に入っている。
誰かに壊されるなんて勘弁だし、今のままって言うのは、実は結構大事なことなのかもしれない。ありのままって言うのが一番大切な事なのかもしれないわけだ。
ちょっとだけ身を起こして、窓から雲海の向こう側を見る。
日がもうすぐ沈むからか、世界は朱に染まる染物みたい。
そうなれば漸く夜の訪れで、私はぐっすり朝まで眠れる訳だ。
幸い飛行機の中は結構快適だし、スチュワーデスさんから貰った毛布は暖かい。レッケルも、私の体に密着しているのなら体温調節も大丈夫でしょう。
それなら、明日の為に、と。ゆっくり目を閉じて、騒がしかった今日一日に、お別れを告げた――――
「アーニャさん〜朝ですです〜〜」
「んん……」
おかしな声を聞いちゃったもんだから、寸前まで見ていた夢もかき消されて瞳をゆっくりと開いてく。
それだけで、もっかい瞳を閉じなくちゃいけない破目になるとは思ってなかったんだけどね。
まぁ、目を開けたのが日光を思いっきり取り込む窓の方面だったのが運の尽きってところかしらね。
「んっ…まったく、まだ空の上じゃないの」
外は真っ青な雲ひとつない青空。
正確には、雲は私の乗っている飛行機の真下に位置している、つまり、私達は今雲の上を行っているの。
だから空は蒼く、下は真っ白。
雲の切れ目、水平線でも地平線でもない、アーニャ様が本日作り出した新語、雲平線の向こうからはお日様が手を振るような輝きでお早うを告げてくれているのが、何だか嬉しい。
丁度手元にあった懐中時計を見ると、ただいま午前の五時五十五分。
飛行時間並びに地点から想像するに、丁度日の入りの時刻だと言うのにこんなに明るいのは時期的なもの。
この時期なら十分太陽があがっている時刻だし、何より地面より太陽に近いお空の上だから、きっとこんなにも明るいんでしょうね。でも、残念ながら目的地到着まではまーだ暫く時間がかかるのですよ。
「お早うございます、お客様。お目覚めにコーヒーなど如何でしょうか」
「あ、はいっお願いしまーす」
傍らに来てくれたスチュワーデスさんの申し出を受け取って、熱々のブラックコーヒーを頂く事にした。
ふっ、もぉ私は子供じゃないんだからいつまでもホットミルクで朝を迎えるなんて言う子供っぽい事はしないの。
朝はブラックのコーヒーでしゃっきり目覚まし。そうすれば、午後からも眠くなる事はないし、無様に寝姿を認められる事だってない。
注がれたコーヒーは茶色混じりの漆黒。井戸の底のような暗さなのに、鴉濡羽色の様に煌びやかな黒い射光を放って私の顔を映し出してくれている。
ここで飲んだら舌が火傷しちゃうので、プラスチック製のスプーンで前後にかき混ぜかき混ぜ。程好く熱さが分散したところで、舌をつければ、
「ん」
エスプレッソマシーンで淹れたモノじゃないだろうけど、中々悪くない。
美味しいとはかけ離れているけれど、けっして不味いと言う事でもない。
実際コーヒーって言うのは誰が淹れても味は変わんないとは思うんだけど、濃い薄いとかの差ってどうやって出してるのかな。
思うんだけど、濃い薄いの差って言うのは、淹れた人次第だから、自分にバッチリの濃さ、薄さを決めたいって言うんならそもそも自分でやればいいのよね。
従って、このコーヒーにも文句は言いません。淹れてくれた人が良かれと思って淹れてくれたモノに文句なんてない。有難く頂いて、朝のお目覚と参りましょう。
「ひーん、舌がピリピリするですです〜〜」
「アンタは……」
そりゃ低温動物のアンタが熱々のブラックコーヒー舐めれば、舌がおかしくなるって言うの。
―――――
「まったく。なんて言うか陽気よね」
飛行機から外へ一歩踏み出せば、まぁ淀んだ空気ですこと。
過ごし難くはなさそうだけど、はっきり言って好きにはなれない、と言うか好きになり難い空気ですこと。
陽気だって言うのは及第点だけど、空気洗浄はまだまだ甘い。もちょっと木を植えたりしなさい。
「私は十分過ごしやすい気候ですです〜〜、ロンドンやドイツから比べればまだまだ暖かいですです〜〜」
確かにレッケルの言うとおり日本って国の、私が降り立ったココはロンドン、ドイツから比べればやや南方に位置する島国。
気候は春先陽気で夏熱気、秋冬寒くてまた陽気と言う想像もつかないような環境下であると言うのは、なんとなーく聞いた事が有る。
そういえばこの国、一年前くらいの夏に首都の一区画が五十度オーバーしたって話だけど、それってサハラ砂漠でも呼び出したんじゃないでしょうね。
尤も私は夏まで居るつもりなんてない。
いや、そもそもネギがしっかりやっていれば私は中間報告だけ行って後は、数日日本観光。フジヤーマに昇ったりときょタワーに昇ったりするわけ。
そう、事はネギの修行進行ぶりにかかっている、上手くいけば数日で、考えたくはないけれど、もーしネギの修行進行状況が芳しくなければ、見習いとは言えどマギステルとしてがつーんと雷を落としてやんなきゃいけない。
ソレはちゃんとした中間報告者としての役割なのよ。アンタ、このままじゃマギステルにはなれないですよーって。
そうなったら最後。私の日本観光ツアーの目論みは早くも崩れ去る。
優秀なマギステル成長の為には自分の行楽の時間さえも削らなくちゃいけない。悲しいけど、コレ、修行なのよね。
そうそう、これも修行。ネギの為の、私の為の、何より双方にとって、よりよくマギステルを目指す為の修行なのですよ。
「さてと」
時計を見やる。時刻は七時ちょっと過ぎ。
目的地までは確か一時間か一時間半かかるとか言われていたから、そろそろ行動を開始しなくちゃなんないわね。
ちょっと早め早めが私のモットー。時間はどんな物にも変え難い貴重な資源なのだ。有効活用しないわけには行かない。
「レッケル、走るからねっ!!」
「はわわぁ〜〜ん、アーニャさん揺れますですです〜〜」
非難はとりあえず無視する事にする。と言うか始めからアンタには発言権ならびに決定権はないものと思うが良い、レッケルよ。
――――――
結構目的地までの道筋は平坦だった。
まぁ日本って言う国は親切な人が多いこと多いこと。道を聞けば大抵の事は答えてくれるし、切符の買い方まで手順を追って教えてくれる親切さだ。
ロンドンやウェールズでも見かける光景でも、日本と言う異国の地で受けると、日本に持っていた印象が大きく変わってしまう。ごめんね日本、今まで冷たい人ばっかりだと思っていて。
そんなこんなで列車の中。
十二時間以上を移動で過ごすって言うのははっきり言って生半可な事じゃない。お尻は痛いし、肩はこるし、何より暇で暇でどーしょもない。
仕方ないから魔道書でも読んで新しい呪文の一つや二つ見直しでもしておきますかなとは思うとも、残念無念ここは列車、しかもがたがた揺れている上に人が多い。
荷物は座席に置いてはいるけど、私とレッケルは立ちっぱなワケ。
あ、訂正、レッケルは私の胸元で縮こまってやがれる。小さいのをフルに活用してレッケルの、にくったらしいまでの被害軽減方法なのだ。後でシメる。
なーんもやる事がないもんだけど、こう人も多くちゃ如何にせよ何にも出来ない。
魔道書開く動作も出来ず、そもそも、立って何処かに?まっていると言う行為でさえ危ういぐらいなのだ。つか、何でこんなに人が多いわけと思うのですよ、私は。
幾らなんでもこれは異常なんじゃないかと思う。
ウェールズやロンドンの電車・列車でもここまで乗車率は厳しくなかった筈。
いや、ちょっとは厳しかったかな。うん、でもまだ乗り込んで支え棒に?まっていたりは出来たけど、この列車は異常ですよ。
だって私女の人に挟まれて動かない、じゃなくて動けないんだから。ちょっと、でかい胸頭に押し付けるのはやめてよね。
従って呼吸も危うい。揺れると挟まれたり揉みくちゃになっちゃうのだ。
感触に懐かしさを感じている場合じゃない。こう苦しくっちゃあ目的地に着く前に丘で窒息、しかも胸に挟まれて。
男じゃないんだからそんな死に様は望んじゃいない。辛うじて傍らに有る重く大袈裟な荷物に指をかけて揺れても挟まれる以上にはならないように注意している。
……その前に、何だか視線が痛い。
奇異の視線ではないと思うけど、はっきり言わせて貰って、あんまり気持ちの良い視線じゃない。
猫可愛がりの視線。小さな生き物を愛撫するときに飼い主が出す、しかし飼われ主にとっては迷惑極まりない視線。
勿論、私は小動物じゃないから、その視線に不快感を感じたらちゃーんと意思表示する。
じろりと見上げる視線。私を挟んで立っている背の大きな女の人、いや、大きいって言っても周囲の人は皆そのぐらいの大きさだから、これは私の感想。つまりは、私はちっちゃいんだって言う事を再認させる状況って事ね。
睨み付けてもあんまり堪えてない。それどころかますます頬を歪める始末だ。
あのねぇ、私は迷惑だっていうのよ。ホントに。
猫可愛がりは猫にしなさい、目の前、って言うかアンタの胸元に居る私は猫じゃないって言うの。
猫みたいに可愛がりたくなる愛らしさが備わっているって言う事に繋がるって言うのは素直に喜んであげるから。
と、心の中で愚痴るしかないって言うのはなんとも歯がゆい。
日本語の発音は、正直自信があんまりないのよね。
勿論日本語を話せないって事はない。マギステルマギは世界中に派遣されるわけだから、世界中の言葉の大半は話せなくっちゃ勤まらないの。
ロンドンで修行中に日本語の勉強は十分に詰んだし、他の国の言葉だって有る程度はいける。
でも、付け焼刃の日本語がどこまで通用するって言うのよ。どーせ口に出した瞬間、猫可愛がりの対象にされるだけだって解っている。
だから口には出さない。目的地に着くまでの間は視線に耐え、この胸板挟みにも耐えなくちゃ。
「ねね、おじょうーちゃん。何処から来たのかなー」
耐えようって言ってるんだから話しかけないで欲しい。ホント。
折角大人しくしているんだからそっちも大人しく、て言うか大人なんだから節度ある態度って言うのを取って欲しいって思ってんのよ。
子供だからって、見ず知らずに猫可愛がりの視線を向けて甘い声を出して接すれば機嫌が取れると思っちゃ困る。
と、列車が右寄りになると同時に挟まれるわけですか――――
「んぎゅぎゅっ!!」
死ぬ。ホントに死んでしまう。
つーか挟んでいるこの女の人が私を引き剥がしてくれれば助かるんだけど、ニカニカ笑って私を救出する気なんて皆無。このままじゃホントに胸に埋もれて窒息死しちゃう。
ロンドンから来た少女、満員列車の中で悶死。死因は女学生の胸に挟まれての窒息死か、なんて言うニュースを断じて放送させるわけにはいかない。
それこそロンドンや故郷まで伝わったら、師にも家にも、ましてや魔法界にも末代まで続く恥さらしとして認定されちゃう。
「むぎゅぎゅっ」
「ほらほら動いたら危ないよ〜?」
アンタが動かないから窒息しそうだから、私が動いて脱出しようとしてるんだから邪魔しないで欲しい。と言うか邪魔すんなー。
必死になって体を揺すって胸板挟みになっている体と顔を抜け出そうとするけど、やっぱり体が上手く動かない。
こりゃ第三者の助けがなくっちゃ脱出できないんだけど、頼みのレッケル、あ、嘘、レッケルこの状況じゃ絶対頼りになんない。兎に角、等身大の誰かが居なくちゃ、このままじゃ――――
「ふぎゅっっ――――ぷふぁ!?」
悶えて悶えて、窒息する寸での所。間一髪と言うか、まさにギリギリで、私は空気がまっさらな場所へと動かされる。
丁度私の荷物の真横で、甘い香りの背中に守られるように。
私に向けられていた猫可愛がりの視線が外されて、残念そうなモノに変わったのを見届ける。こんにゃろ、見えないように舌出してやれ。
「コラコラ、あの子達だって悪気が有った訳じゃないんだから許してあげなさいな」
視線を上げる。そこに私を空気がまっさらな所まで引きずってくれたと思われる、周囲の女の人とあんまり変わらない身長の黒髪の変な髪飾りで髪を止めた女の人。
あ、変って言っても、何だかこの女の人には妙に似合った、髪飾り。そう、この人だからこそ似合う、おかしな形の、おかしな髪止め。
竹管みたいなもので、それが二つ付いて髪の毛を後方で二つに分けている。
頭髪を一回竹管の中に通して、通した下の方で輪っかにし、もう一回今度は下から上に向かって髪の毛を通すという、何とも三次元的な、複雑怪奇な髪止め。
「……解ってるわよっ、ただね、もうちょっと節度ってモノを持って欲しかっただけ」
「あはは。やっぱりそう思うのね。それはあたしも最近思うの。
皆幾ら校則が緩めだからとは言っても、節度がなくては人とは言えないじゃない?。節度を守り、抑制心を保ってこその人だとは思わない?」
「人の在り方を説く気なんてないわよっ。大事なのは迷惑になるかならないか。
他人が迷惑だと思っていると自覚したら止めるって言うのがフツー。その自覚が足りないっていうの。まぁ、力づくじゃないだけましだけどね」
「そうね。力づくって言う手段に講じる人も居るけど、私はあまりそういった人たちは好きになれないかな?」
「そう言うお姉さんはどうなの? けっこーパワフルだったけど」
引っ張れた時、喉が絞まったのはそういう事。このお姉さん、見かけ以上に腕力があると見たわけよ。
「あら、解ってしまった? ふふふ、普段から鍛えている。今更何かとも思われても仕方ないけれど、ほら、最近何かと物騒でしょ?」
なんてあっさり告げられて、噴出しそうになるぐらいに頬を膨らませてしまった。
いや、だって今の発言はとんでもなくアレだと思わないかな。普段から鍛えているって。
見上げる視線の先のお姉さんは穏やかな表情で、抜きん出て綺麗と言うわけじゃない。でも、口調は和やかで、この列車の中では、どんな女の人よりも輝いて見える。
艶やかな黒い髪も、僅かな微笑みも、全部がこの人の為の、この人だけのモノで、他の人と同じものなんて何一つないこの女の人が、一瞬で気に入ってしまった。
「お姉さん、今から私が行くところの生徒さん?」
「ええ、麻帆良学園のね。一応こう見えても高等部の生徒なの。貴女はどちらまで?」
「一応同じ。多分お姉さんが行く場所と同じよ」
「そう、奇遇ね。でも残念。きっともう会えないわ」
「うん、私もそう思う。まっ、いっか。日本に来て一番長く喋った日本人がお姉さんみたいな人で良かった」
背中合わせのドアから外を見てみる。
まった面白みのない風景で、本当、一瞬だけでもウェールズへ帰りたくなる程殺風景な、でも、視線を列車の中へ戻すと、甘い香を漂わせる私にとっては綺麗なお姉さんが、横に、まるで、夢見る少女の様に静かに佇んだまま微笑んで立っている。
そんなモノを見せられた日には、もうやるっきゃないっていう気にもなるわよね。何よりマギステルって言うのは受けた恩はきっちりばっちりお返ししなくちゃ気が気じゃない。
だから、このお姉さんにもいつの日かマギステルとして素敵な夢か何かをプレゼントしてあげよう。そう、出来れば私がここで幼馴染みの修行進行ぶりを見届けて帰る前に。
『―――次は麻帆良学園中央駅―――』
「さてお着きのようだから。それじゃあ御用、頑張ってこなしてね」
列車の車内アナウンスを聞き届けて、周囲の人が一片に駆け出そうとしているって言うのに、相変わらず変わった髪止めの女の人は淑やかな、落ち着いた物腰で電気ドアの方へ体をむけ、開くと同時に人波に浚われて言ってしまった。いや、浚われたって言うよりも、人波に押されていったって言うほうが正しいかもね。
去り際に、お姉さんが陽射しを防げるほど長い唾の真っ白い円の帽子を被っていったけれど、またなんて言うか、深窓のお嬢様みたいな人みたいに見えてしまう。
「あっと、私もここか」
すっかり人の影も形もなくなった、まぁそれでも何人かは残っている列車の座席に置かれていた荷物を引っ掴んで、駅に踊り出る。
間一髪。扉が閉まるジャスト四秒前。私自身の反射神経の鋭さに吃驚仰天雨霰。とはいかずとも、とりあえずあの人込みから逃れられただけでも僥倖。
毎日あんなんで学校に来ている学生さん方よ南無三。そんでもってそれでも平気そうだったあのお姉さんにグッジョブ。
駅に出てまた吃驚。アレだけの人が降りたって言うのに駅は閑散とした静寂に包まれているんだから。
ホント、あの列車の中に乗っていた学生さん方は幻かとも思えるぐらいで、でも、よーっく見れば遠目にやたらでかい校舎目指して突っ走り、路上列車に無賃乗車し、ローラースケートで駆け、中には担がれて輸送されている人まで居た。いや、ホントにここの学生さん方タフだわ。
「まっ、別に急ぎでもないし」
淑やかアーニャはのんびり行くのが心情でしてよ。
荷物を背負って、荷物を提げて、駅員さんへ切符を切ってもらいトコトコ校舎を目指していく。
しっかしでかい。遠目、駅から出たばかりだって言うのに後者の大きさが手に取るように解る。
西洋建築の類が随所に見られる当たり、きっと海の向こうから建築者を呼んで造ったんでしょうね、この学園。
「先ずは…学園長先生に会いに行けば良いのかなっと…」
懐中時計を開く。時刻は後暫くはあるとはいえ、間もなく学生さん方が勉学に励む頃合。
私には関係ないし、好き勝手あの学園の中を見回らせていただきましょうか。
そういえばレッケルの反応がない。幾ら私の胸元で寝こけているからって、いい加減目を覚ましてほしいものだ。
胸元をぐいと引っ張ってみますと、あらまぁ蛇のプレスが出来上がってましたとさ――――
巨大な学園校舎が近づく。空は青いし、雲は一つだってない。ただ残念なのが悪い空気で。
雲の切れ間に、気持ち良いぐらい真っ直ぐな飛行機雲が一筋奔っていた――――
「あー」
天気が良い。
空は青いし、緑が眩しくて心地良くなってしまう。
空気も美味しくて、とても同じく似の中だとは思えない清涼感。
バカでっかい木の下に立ってるだけで、森でもないのに森林浴が味わえるって言うのは貴重な体験を有難うね。
と、樹に言ったって仕方ないんだけれどまぁ気持ちよくはさせてくれたんだからお礼ぐらいは言っておくが吉ってモノ。
物言わぬモノでもちゃんと生きてる。生きているんなら、ある程度は意志の疎通も可能だと思うのはわたしの都合だけれど、それでも人は人のやり方でお礼を行うって言うのが筋なのです。とりあえずレッケルにお願いして根元へ水を一掬い。これからも元気にね、大きな樹さん。
「それにしても大きな樹ですです〜〜」
見上げて改めてその大きさに感嘆してしまう。
推定での全高も見比べ出来ないほどの巨木。
いったいいつ頃からここに聳え立っているのかは解らないけれど、きっと何千年規模の長さでしょうね。
とても十一年ちょっと生きているだけの私じゃ理解出来ない領域のお話だ。この樹は長い間ここにそびえ続けて、ずっとこの地を見守り続けてきたのね。
ああ、でも。それはきっと―――
「アンタも大変よねぇ」
顔を顰めて、太すぎる幹を摩る。
きっと大変だろう。大変なのには間違えない。
今の地球環境は人間以外、いや、人間にだってとてもじゃないけど良い環境とは言えないようなのが、今の地球状態だ。
空気は汚れて、太陽光は殆ど緩和されず地表まで届く。
昔は純水だった水は、今じゃ殆どがドロドロになりつつある。
それは全部人が引き起こしたモノだ。
人は、それに気付いていながらも何もしようとしない、しようとする人とそうじゃない人の差があまりにも開きすぎているのよね。
この樹もさぞかし大変だと思う。
昔はひっそりと周囲が緑で包まれながら、その緑を見守る、手も足も出さず、流れるままに長い時間を生きてきたのだと言うのに、許可もなければ容赦も無しに、こんな風に周辺を固められて、人の苗床だ。自分として見てると面白くないし、とてもじゃないけど耐えられない。
ああ、そんな考え方に比べると、この樹の在り方は純粋だ。
きっと誰一人としてこの樹を理解できるモノはいない。
理解していると口にするヤツが居たって、絶対信じてなんかやるもんですか。
そりゃアンタの思考回路で紡がれた言葉で、樹、本体の言葉じゃないっつうの。解ったようなフリなんてするなって言うのよ、まったく。
それは勿論この樹だけじゃない。
人が紡げるのは所詮は人間としての言葉だけ。人間はいつだって人間以上って言うのを夢想するけど、けっして人間以下って言うのは夢想しない。
だって自分達が一番だって心のどこかでは思ってるから、周囲の虫とか動物達を下に置くの。
言ったのは誰だったっけ“人は人の上に人を作らず”。名言だと思って、いやいや撤回してよそんなの、とも思う。
人は人の上に人を作らないとき人の都合が効く人以上を夢想するんだ。
神様だったり、天才とかだったり、いもしないものだとか。そんなのを夢想して、自分たちはソレの元に居て、それ以外は自分達より下、なんて考える。
否定できるモンなら蟲一匹、命一つ奪わず一生生きて見ろって言うのよ。
ホラ、私もちょっと考えたけど絶対無理。体にムカデとかゴキブリが這い回れば手で払いのけちゃうだろうし、何も食べずには生きてはいけない。
野菜だったり、肉だったり。
私も人間だから、絶対に虫とか動物とかを下に考えちゃう。
でも、この樹や、自然界で生きていく生き物にはそれがない。ないって言うか、理解出来ない。人じゃ、下に見ている人なんかじゃ、絶対に理解出来る筈がない。
彼らの深淵は彼らの領域だもの。絶対に辿り着ける筈がない。人は人。獣は獣。蟲は蟲。樹は樹だからね。
でも人が人の考え方を他に押し付けるのは好きじゃない。つうか嫌い。こう考えている私の思考だって本当は嫌い。
どれだけの考えも、結局は人の考え方で、決して彼らの領域へは至れない。
彼らはきっと、私達人間の事なんてどうでもいいと考えている、そう思う。
それが人間としてだけど、彼らには当て嵌まることは恐らくは絶対にない傲慢な考え方でも、そう思うのが私としては一番しっくりきていると思う。
そう、極端に言っちゃうと、彼らは私達人間なんてどうでもいいんだ。
好き勝手殺すのも好き勝手壊すのも好き勝手にごちゃごちゃやるのだってどうでもいい。
そもそも関心なんてない。関心がないから、感心を持てない。
全部持っているわけじゃないけど、毎日毎日全力で、全力過ぎて生きていっているから、好き勝手なんて出来ないぐらいに真っ直ぐで、好き勝手なんてやっている暇がないぐらい必死にもがいてるから、好き勝手やってバカみたいになっている私達になんて“構ってはいられない”。それが一番しっくり来る。そう、私は思っている。
「頑張ってんのねぇ、皆」
トフ、と大きな幹に背中を預けてみた。
大きい。あまりに大きすぎて、マギステルとか、魔法とか、神様とか、人間だとか、そんなのがどうでも良くなるほどに大きい命。
こんな風に生きた世界は、きっとまったく違う世界なんでしょうねー。
いや、きっと私なんかじゃどー転んだって想像のつかない世界だ。
好きになるとか、嫌いだとか。
煩わしいだとか、頑張んなきゃだとか。
死ぬだとか、生きるだとか。
それは彼等にとってはまったく違うモノに映る、いや、きっと映りもしないでしょうね。
必死なんだから。
皆必死こいてもがきまくって、生まれた瞬間から死ぬような状況にほっぽり出されて、一年しないうちに、生まれた時から一人っきりで生きていかなくちゃいけない生き物の領域が、どれほど過酷なのかなんて、理解出来る筈がない。
人の地獄がどーしたって。彼らの生き方の方が、きっと何千倍も苦しい筈。でも彼らはその苦しみを感じない。苦しいと決定するのは人間のエゴだもの。彼らには当たり前で、それがありのままなんだろうね、きっと。
「あー…ダメだぁ。これ勝てないわぁ」
「あ、アーニャさん〜〜??」
もう一度だけ木漏れ日を差す大きな樹を見上げて確信する。
マギステルになっても勝つとか、そう言うレベルの問題じゃないって言うのを理解した。
自然界の現象を留める事は出来ない、つか無理。
やっぱり人間が出来る事は事後処理程度でしかない。事が起こる前にどうにかするんじゃなくて、事が起こった後にならないと行動できない。
だから、起きてしまった事象はどんなに頑張っても人間じゃどうしようもないんだね。
それでも、諦めるような事はしない。
私はマギステルになると目指した。
立派な魔法使いとなりたかったのは、人を助ける為だけじゃなくて、人に夢見欲しいからマギステルなんて言うのを目指した。
そう言うのが魔法使いだと思う。夢見た夢をいつまでも見続けていけるように、それでも、その夢を見続けたまま、この長い生を歩んでいけるようにしてあげたいと願ったのが、私がマギステルを目指したワケだもの。
勝てはしないけど、負ける事もない。
そもそも勝敗なんて言うものは人が勝手に定めた定義だ。彼らには人の定義は一切当て嵌まらない。
当て嵌まらない以上、そこには勝ちも負けもないと思う。なら頑張れるかもしれない。
かーなりキツイけど、まぁ無茶は承知。頑張る事に意味があるって言うんなら、最後の最後まで必死になるだけだからね。
「まっ、お互い頑張りましょうか」
幹から背中を離して、もう一度見上げる。
葉と葉。枝と枝の擦れあう音は陸の上だって言うのに、一度しか聞いた事のないしじまを連想させる、心地よい音色。
これも、風とか、日光とかのコントラストじゃなくちゃ創造出来ないしなものよね。
さて、しんみりするのもここまでだ。もうそろそろ学園長の所へ行って、ネギの居場所を聞きださなくちゃいけない。
私のお役目はネギのお目付け役。ネギの修行が順調に進行しているか否か、それを見定めなくちゃいけないのが、この私の役割。
ちゃんとしたマギステルに、まぁ、まだ見習いなんですけど、見習いとは言えどマギステルとして厳しーくネギに手解きしてあげますか。
首を二、三度こきこき鳴らして、もう振り返ることもなく大きな木の下を後にする。
見上げる事はもうないでしょう。独り言とも言えない独り言は、もう十分に語り合ったわけですし、返答はなくとも返答に期待していない以上、これ以上ここに居る必要もあんまりない。
でもまぁ、一番の理由はやっぱり何時までもこんな尊大な存在の近くに居たら、何だか自分がちっぽけに思えちゃうような気もしないでもないからね――――