第二十六話〜価値〜
希望や軌跡や想いや正義
人はきっと。墓場の下までそんなものを背負っていくのだろう
「では一体遺伝子とは何処にあるのか。それについて説明する」
黒板に白炭が奔る。軽快な音を立て奔っていく白炭の動きは螺旋を描いていく。
だがただの螺旋ではない。球の螺旋。数珠の様に連なる球線の螺旋だ。
遺伝子配列。生物をやらない人間でも、テレビか何かでは見た事のある配列だった。
一本の主軸があり、その周囲を二本の――並行する二本の線、間に並行する二本を繋ぐかのように線の入った――平行二本線がその主軸の外周をらせん状に渦巻いている図。
「出席番号六番。これが何か解るか。解らなければいい。解ったのならば起立して返答。ちなみに教科書中に答えはない」
白炭が示された出席番号六番。
大河内アキラ。Aクラスでも長身の部類に入る彼女が無言に起立して、数秒。黒板に書かれた螺旋構造を見つめる。
「……分子模型、ですか?」
「正解だ。着席。これは出席番号六番の提示したとおりの分子構造モデルだ。
この構造モデルの正式名称はワトソン・クリックの模型、と言う。1,953年ワトソンとクリック両名により提唱されたDNAの分子模型だ。
遺伝子をつくっているDNAはヌクレチド…DNAの建築材料だ。このヌクレチドよりなる長い二本の連鎖が黒板上の図のようにらせん状に捩れあっているもので、二本のヌクレチド中デオキシリボース…DNAの核だ。
そのデオキシリボースについている塩基の間には一定の結びつきがあり…図で言うとこの螺旋にねじれた平行二本線同士の間に走っている線だな。
アデニンに対してはチミン。
グアニンに対してはシトシンが水素結合によってゆるく結びついている。
この模型図は遺伝子の自己増殖機構・形質発現機構・突然変異の分子機構などの研究となり、ワトソンとクリックは1,962年、これによってノーベル生理・医学賞を受けた。
ではこの分子構造モデルの何処に遺伝子が眠っているのか。
答えは此処。塩基の結びつきのあるDNA核。デオキシリボース上に存在している。
では続いてデオキシリボースについての考察を説明する。
デオキシリボースとは遺伝子の内在しているデオキシリボ核酸…正式名称を書くと『DeoxyriboNucleic
Acid』の略称DNAが糖成分としているものだ。
つまり。DNA。デオキシリボ核酸はデオキシリボースを糖成分とする核酸と言う事だ。
あらゆる核の中にだけに存在し、染色体の主要構成分となっている。
遺伝子を構築し、自ら一種の鋳型として働いて、対応するリボ核酸…RNAを合成し、たんぱく質の合成を通じて遺伝形質の伝達・発言に支配的な役割を果たすと考えられている。
早い話が我々人間をはじめ、全ての生き物の基本形を決定する設計図の様なものだな。これによって人は人型に。猫は猫型になる、と言う事だ。
ではこれが狂うとどうなるのか。そうなると先ず形質が継承されないわけだから外見に異常が発生する。
外見の以上は内面にも体現する。これが突然変異と言うヤツだ。
よくあるだろう。ショウジョウバエの飼育などで見る遺伝子異常。それだな。
尤も、お前達にはそんな事はやらせん。だいたい、アレは余り意味が無い。人体実験のようだと思わんか? まぁ、どうでもいいか。
継承されるべきDNA内の遺伝子に異常が起こり、その継承対象に異常が伝達する。
時にDNAそのものにも異常が発生することもあるがな。これは遺伝子とDNAが同じものである、と言う定義の上だ。忘れろ。
我々生物はあらゆる生物の起源。
生物界第一綱原生生物からの進化を繰り返してこの領域まで来た。
幾数、幾十、幾百、幾千、幾万もの進化系列を以って此処まで来ている。
時に遺伝子の突然変異による変質。時に遺伝子そのものすら変化させるほどの適応。そして退化。
今日は進化の授業ではないが、そんな我々の遺伝子はまさに果ての見えない地平線の向こうから来ているかのようだ。
そして、我々の遺伝子中にもその系列に分布していった生命体の遺伝子系が確かに眠っているのだ。
人間ではそれらの分布していった生命体の遺伝形質は必要ない為、発現はしていないがな。
それでも、我々の遺伝子系にはまだまだ隠された遺伝形質が眠っている。
それを覚醒させる事は難しいだろうがな。では本日の授業は此処まで。次の授業は―――担任の授業か。日直」
日直の起立、礼の合図で全員が同じ動きをとる。
機能得限止は相坂さよの席からケースを持ち上げ退室。一度も振り返る事はなく、生物準備室へ向けて前進。
教室は朝の騒がしさを取り戻していた。
授業終了から一分も経過していない。すぐさま脳内のスイッチを切り替えられるのがこのクラスの良いところだろう。
ただし、それでも機能得限止は授業終了時に何かしらを残していく人間であるらしい。それは、朝倉和美の横の席。どこか落ち込んだかの様子の相坂さよが露呈していた。
『ふぅ…』
「さよちゃん、大丈夫? 怪我は…ない、わね。ははは。
まぁキノウエ先生毎回あんな感じだし…さよちゃんの見えていないから。
でも実際欠席扱いの人間の席を荷物置きにするって言うのは感心できないかなぁ。今度、言っておく?」
『あ、いえ。大丈夫ですよ、朝倉さん。私、幽霊ですから』
そうは言いつつも、相坂さよは窓の外を見やりながら小さくため息をついた。
彼女が幽霊である、と言うのは隠しようもない事実だ。
よって、如何にこの学園が特殊な学園であっても、そんなことなどどうでも良い機能得限止にその姿は捉えられる事はない。勿論、それ以外の人間にも。
それを真っ向から突きつけられたような気持ちになったのだった。
幽霊と生物の決定的な差異。
機能得限止と言う人間を三年間見つめ続けてきたわけではない。相坂さよとて、機能得限止の人間的な何かには気付いているし、どんな人間なのか、と言うことにも気付いている。
それでも、真っ向から幽霊である事を告げる事など出来ない。機能得限止にとって、そんなことはどうでもいいからだ。
ある意味では絶望的な差異であり、しかし、認識できない生物にとっては至極どうでも良い事でもあった。
そう。この世に希望も絶望もありはしない。
結局のところ、あるのは人間の感性だけだ。人間の感性が、それらを定める。
今日の始まりの授業が終わりを告げた。
どれだけの人間に機能得限止の言葉が届いただろうか。
否、Aクラスの人間は能天気の春満開な頭でしかないように見えて、実際は感受性は強い。確かに頭の中では既に機能得限止の発言など忘れてしまっているが、彼の名前を聞き、顔を見るたびに思い出すだろう。
裡に。彼女らの裡に刻まれたものだけは、確かなのだから。
日は長い。
学園祭も終わり、これからの学園生活、彼女達に待っている行事は暫くない。
それならそれで授業に専念すれば良い。遊びにも専念すれば良い。彼女らは女学生だ。他には、何もない。
やがては日も昇り、日は沈んでいくだろう。
今日の今日まで。そして、明日も明日とて。未来永劫とは言わなくても、地球と言う惑星が砕け散るその日まで。このサイクルは変わることがない。
麻帆良学園でもそれは変わらない。
日は昇り、沈む。
誰一人として疑問には持たない当たり前のサイクル。
どんな物語でも、このサイクルは変わらない。
一日は一瞬で過去になり、明日と言う名の未来は必ずやって来る。
どんな過去かは解らない。誰にも。誰であっても、絶対にそうなるなど予測できない。
それは、如何なる物語でも変わらない。
異世界でも、相変わらず日は昇り、沈み。月が昇り、沈む。朝が来て、昼になり、夜になって、また朝が来る。
24時間と言う名の仕組みはこの世界だけかもしれないが。どちらにしても、それがこの世界の習しである。
麻帆良学園大学工学部。3-A所属出席番号二十四番。
葉加瀬聡美の研究所にも、その変わらないサイクルの日差しが西日となって入ってきていた。
専門家でなければ解析も出来ないような大型機器や小型機器の立ち並ぶ研究室。
その中央に幾本ものコードに繋がれ、服を全て剥ぎ、フレームをむき出しにした状態の絡繰茶々丸がいる
同様、彼女の周囲には超鈴音、葉加瀬聡美、そして、研究所の端では片膝を抱えながら、整備中の絡繰茶々丸の姿を見守るように睨んでいるエヴァンジェリンの姿があった。
絡繰茶々丸以下は今日の仕事が終わりを告げたので此処に戻ってきたのであり、エヴァンジェリンはその内の一人。絡繰茶々丸に用があって此処に来ていた。
尤も、整備中であったため、まだ本人に用件は話せていない。
今日は休日。
また、移動遊園地が来ていたという事もあって、超鈴音はじめとする中華班は稼ぎの為に午後の三時頃まで遊園地近くへ繰り出していたのだ。
その仕事も終わり、打ち上げと同時に、手伝いであった絡繰茶々丸の整備をかねて葉加瀬聡美の研究自室へと集っていたのだ。
「ところで、エヴァさんは茶々丸にどんな御用だったんですかー?」
「いや……たいした用事じゃない。野暮用、と言うヤツだ。
本来ならば私一人でもどうにかなるんだがな、だがどうにもおかしな気配がする。
私は魔力を極限まで押さえ込まれている身の上だ。異物反応には敏感でも、元々内に居るモノの存在にはイマイチ勘が働かないのだ」
両手を絡繰茶々丸の脊髄部分から内部へと押し込み、器用に内部を探るような手つき、即ち、一切手元を見ず、窓際で黄昏をかみ締めているかのようであったエヴァンジェリンに葉加瀬聡美の声がかかる。
エヴァンジェリンと言えば、窓の外の夕暮れを見つめたままで動く事はない。精々、抱えこんでいた右足を、左足に変更した程度だ。
「茶々丸の力が必要と言う事ネ?
ちょーっと待ってるヨロシ。今日は短い時間の活動だたから茶々丸の機動性をちょっといじっていたネ。後三十分待ってるネ」
超鈴音の言葉には関せず、エヴァンジェリンは静かに窓の外だけを、細めた眼差しで見つめていた。
真紅の空。真紅ではないが、焼きつくような橙の輝きは真紅に勝るとも劣らない。
エヴァンジェリンからすれば良く知った光景だ。
夕暮れでなくても何度も見ている風景。光景。
忘れるようにしないのは、意外と女々しいからなのかもしれないと考えつつ、窓の外の更に向こう。葉加瀬聡美研究室が内在している大学工学部校舎の更に更に向こうに視線を送る。
夕暮れが近いからか、魔力で強化せずとも五感の幾つかが鋭敏化している。
その視線の端に、純白のワンピースを着た双子の姉妹のような人影を捉えたと同時に。
「エヴァさんは、機能得先生の授業を休んだ事は中々ないですよね〜」
相変わらず整備の手を一瞬も緩めずも、葉加瀬聡美の気抜けした声に視覚が戻る。
見た人影が誰か、などとは考えない。
それは余計な事であり、今日は祭りのようなものがあったと言うのは知っていた。
それの参加者、と言うのなら、擦れ違うだけの存在だ。気にするまでもなかったのだろう。
「授業自体に興味はない。何度か学んでいるモノもあるからな。伊達で長生きはしてないよ、ハカセ。
まぁ最近は新しいモノが多いから真面目に取り組んでいるが。封印の身だと出来る事は限られるからね。
どの教師もあのような授業なら滅入るが、キノウエ一人の授業だからこそおもしろい。
ただキノウエの授業には時折面白い話があるだろう。そっちの方に興味がある事も多い。昨日の"存在価値がない"は良かった。久々に大笑いしそうになったよ」
「そうネ。アレは私もちと吃驚した、と言うより感心したネ。
今日日アソコまで生徒に向かってハッキリ言える先生も珍しいヨ。
やっている授業はとっくの昔に学んでしまたモノばかりだけど、話は参考にはなるネ。
伊達に三年付き合ってないと言うか。ネギ坊主が担任でキノウエセンセが副担任。
飴と鞭、言うカナ?」
二人の発言。ソレをやや思考のずれた発言と取られるだろうか。
だがこの場にそう取る人間は居ない。
少なくとも、この場に居る四名は、誰一人お互いの言葉に異を唱える事はないだろう。純粋に、お互いをお互いとして。
エヴァンジェリンは吸血鬼であり、魔法使い、それも歴戦にして熟練の。
百年以上は生きながらえている生命体だ。
知識と言えば、機能得限止の様な専門的な知識はなくても、それ以上の知識は備えているだろうし、実力も並みの人間百人以上の力は備えている。性格が時折子供じみている点は否めないが。
超鈴音と見れば、麻帆良の最強頭脳と呼ばれるだけの事はあり、今日現在機能得限止の授業で学んでない事はない。
正確には、聞いた瞬間から理解してしまうので学んでない事がない、と言うよりも、その場で即学び己のものに出来ると言えよう。
これは、絡繰茶々丸の整備を行っている葉加瀬聡美にも該当する。両者の頭脳は、既に中学生のソレの域を超えてしまっている。
「確かにそうですねー。機能得先生の授業は時折突拍子もなくあのようなお話が聞けますから。
でも存在価値がない、と言うのは言いすぎかとも思ってましたけれど。
茶々丸は、どうかな? 機能得先生の授業」
『私、ですか?』
独特の機械音を響かせて、脊髄付近に手を入れていた葉加瀬聡美の方を肩越しに絡繰茶々丸が臨む。
その表情に、若干困惑の色が差したのは、エヴァンジェリンしか気付かず。
しかし、エヴァンジェリンはそれを問い詰めずに続けさせた。
『私は―――生物学の授業は少々苦手です。私はロボットですから。
生物の成り立ち、と言うものが理解出来ない節があります。
記憶中枢には確かに"情報"としての蓄積は可能です。
ですが、遺伝子系や、キメラ論、などの生物的要素に対して意味を見出す事が出来ません。それに、何より』
「ん?」
肩越しに見つめてきた葉加瀬聡美の目を見るより先に絡繰茶々丸は俯く。
何より―――機能得限止と言う人物の深さが読み取れない。
彼の人物は、あまりに無機質であり、しかしあまりに有機質であった、とだけ、絡繰茶々丸は思考する。
学園祭中のまほら武道大会で見たあの表情。
絡繰茶々丸の頭脳ルーチンにはその時の表情が未だに、焦げ付くように残留していた。
それを思い出すと、絡繰茶々丸は自らの発熱機能が暴走したかのようなノイズに見回られる。
丁度、人が思い出したくない記憶を掘り返して吐き気を誘発するソレに似ている。
つまりは、絡繰茶々丸は、根本的に機能得限止と言う人物が好きにはなれない。そういうことであった。
それを問うような真似はせず、会話は別の方向へ向く。
ある意味では絡繰茶々丸を気遣うかのように。ある意味では機能得限止と言う人物の会話を終了させるかのように。
「ところでエヴァンジェリンサン。ネギ坊主の仕上がりはどうかネ? 順調に強くなてるカナ?」
「無駄にな。まぁまだまだひよっこだよ。ルール無用の戦場で私やタカミチ相手にするには百年は早いがね。
詠唱の九割がたは無詠唱でいけるようにはなっている。
それに加えて従者はどいつもこいつも強力なアーティファクト持ちが多いときたもんだ。上級悪魔が軍勢で襲ってきても壊滅できるぐらい、と言ったところか」
「へー。いい具合なんですね。っと…はい、茶々丸。どう? あなたの具合は」
脊髄真横の洞から手を引き出し、その部位のフレームが葉加瀬聡美の手で閉じられる。
同時に繋がっていたコードも除かれ、絡繰茶々丸は裸体――素体の状態で立ち上がり、数回手の握り閉め、また、同じように数回両足のバランスを確認する。
『―――前回の状態よりも命令伝達機構に3%の補正がかかっています。機動性能に15%の補正。配線を増加しましたか? ハカセ』
「うん。その代わりと言っちゃなんだけど、ちょっと耐久率が落ちちゃったけどね。
でもまぁ、最近は別に戦ったりするような状態でもないからね。
それでも、あんまり無理はしないように。あんまり激しい運動とかをしたら配線が絡まって動作不慮を起こしかねないよ」
了解しました、と告げて衣服を着用していく。
スカート。アンダーシャツ。ブレザー。これだけ着用してしまえば、最早絡繰茶々丸は人間と変わりないロボットだ。
事実を知らない人間が見れば、絡繰茶々丸をロボットと見る人間は居ないだろう。Aクラスの生徒でさえ大半が気付いていなかったぐらいだ。
「では茶々丸。行くぞ」
『承知しました、マスター。ハカセ、チャオ。整備有難う御座いました』
いつも通りに礼儀正しく、しかし、感情はない声で絡繰茶々丸は自らの半分ほどもない身長の少女に引き連れられていく。
――――エヴァンジェリンと絡繰茶々丸が契約したのはほぼ二年前。
契約と言っても、魔法使いが従者と交わすような正式な手続きを踏んだ契約ではない。
よって彼女に従者専用のアーティファクトと言うものは存在していない。
彼女は自らの機能だけで対象から主を守る。まさに機械。純粋な、無垢な機械だ。
そんな彼女が生物学を理解出来ないと言うのも頷けるなと、エヴァンジェリンは思う。
根本的に生物ではないものに生物を教授している機能得限止はある意味、滑稽にも写る。エヴァンジェリンには、それが可笑しかった。
だが絡繰茶々丸にとってはそうではない。絡繰茶々丸は、純粋に機能得限止と言う人間を理解出来ていない。
思考ルーチンに残っているのはあの笑み。絡繰茶々丸だけが知っている、機能得限止の、あの笑顔。
自己が不安定になっていると知りつつ、絡繰茶々丸は思考を中断しようとはしなかった。
何故こんなにも不安定になっているのか。それが理解できなかった。
だが、それはきっと。絡繰茶々丸と言う存在が、一個の機械と言う枠を超えたものになりつつあるからではないだろうか。
非科学的だと葉加瀬聡美は言うだろう。だが他の説明の使用がない。
絡繰茶々丸は麻帆良で生活していく間でありえない事だが成長をしていっている。
否、ありえないことであるとはいえない。
絡繰茶々丸に搭載されているのは高度なAI。人工知能だ。
学習機能を持つAI。日ごろの生活の積み重ねを幾重ものネットワークと化し、複雑的な思考を構築していくと言うもの。
喩えるなら"αと言う考えを思考した場合、βと言う思考に接続される"この思考をベースとし"αと言う考えを思考した場合、β以外の思考へも接続される"と言う可能性を提示し、その"βに接続されない場合"どの思考へ接続されるのか、と言うのを反復作業のように思考ルーチン内でトレース。幾重にも積み重なる情報ネットワーク、生き物の脳でいうニューロンネットワークの様なものを形成していくわけだ。
これが絡繰茶々丸の思考ルーチンにも用いられている。
当然、積み重なれば複雑的な思考も出来る。恋愛、と呼ばれるものにも反応を示さないともいえない。
だが、幾ら情報を複雑化したとしても、絡繰茶々丸と言う存在は人間ではない。
機能得限止からすれば、絡繰茶々丸と言う存在は生物ですらない。
言ってしまえば、命、ですらない。
機械。純粋な人工の塊。それが絡繰茶々丸と言う存在が、根源的に"生物"と呼ばれるものを理解できない根底でもあった。
成長していく機械。絡繰茶々丸。
その彼女に生物は何か。人間とは何かと問うのは、間違えなのだろうか。
絡繰茶々丸は理解できず、機能得限止はそれでも絡繰茶々丸と言う存在を含む少女らに、生物の何たるかを教授してゆく。
それに意味があるかどうかを、絡繰茶々丸は考えない。
いや、考えられないと言うが正しいか。それは生物的な根底だからだ。
生命あるものにしか考えられない領域。
機械である彼女には、どれだけ文明が発達し"そのように"考えられる人工知能が完成し、搭載されても、きっと理解する事は出来ない、その領域の問題。
『―――マスター。私の力が必要、と言う事でしたが』
一時思考を変換する。絡繰茶々丸にとってはある意味でどうでも良いことであったかもしれない。
今現在重要なのは、自らの主が自らの力を必要としている、と言う点に観点を置く。
自分のことは、一先ずどうでもよいとし、絡繰茶々丸はエヴァンジェリンに問う。
「ああ、最近どうにも学園内で―――いや、最近ではないな。
このきな臭さは数年前から感じていた。そう、私が始めてこの地に来た時からだ。
サウザンドマスター……ナギは、気付いていなかったようだがな。まぁ、アイツの脳天気さだ、気付いていなくてもしょうがないが……
今日まで確信が持てなくてな。
何しろ魔力的なものは何も感じられんし、それにそんな気配を感じていても、いざ探索してみると特に何もない。
問題ないのであれば放任するのが私の主義だ。面倒ごとに頭を突っ込むほど酔狂ではないからな。
だが最近、その数年前から感じていた気配の連中の動きが変わった。
何処か魔力的な流れも先日は感じたのだ。
世界樹の下。今まで感じてきたきな臭さとは違う。明確な魔力流動があった痕跡を見つけた。
だが、同時にあのきな臭さも感じ取れた、と言ったところだ。何がいいたいのか解るか?」
『―――つまりは、マスターが感じてきたものに、最近になって魔力的な何かが介入するような事態になった、と言うことでしょうか』
「だと思う。思いたい。これはまだ誰にも告げていない事なのだがな、茶々丸。
ああ、今お前に明かすのが初めてだな。私は15年前にぼーやの父親…サウザンドマスターによって此処に封じられた。その当時から実は感じ取っていたきな臭さがあったんだよ。
サウザンドマスタ…ナギを追い詰めた時から感じていた。
私が最後に最盛期の力を誇っていた、あの日。ナギによってこの『登校地獄の呪い』を仕掛けられた日。
その日から既に感じていた気配があった。
魔法使いとは違う。
悪魔でもない。
かと言って魔物かと言えば、それも違う。
異種的、な存在だ。解るか?」
絡繰茶々丸には解らなかった。
二年、丸二年は一緒に居た筈の主の真意が掴めない。
感じていた気配、とは言うが、自らはそのようなものを感じた事はなかった。
それだけ主の索敵能力が優れている、と言うことなのだろうが、それでも、絡繰茶々丸には解らなかった。
『いえ、その。よく解らないのですが』
「それでもいい。要するに私では探知できない要素が居る、と言うことだけ理解しろ。
私が探知できる程度の存在は生命体や魔力流動だ。
つまり、最近になって魔力系の介入が魅入られたそのきな臭い存在。それは私の探知能力では探知できない存在、と言う事だ。それだけ理解しろ」
了解と告げると同時に、絡繰茶々丸は廊下の一箇所にかけられていた時計を見る。
夕暮れ時。何時もなら、あの教会前の野良猫に餌を施している時間。
だが、優先すべきは主。何時までかかるかは解らないが、主の命令が絶対である以上、猫たちには少しながら待っていてもらわねばらならないか。
『では、私は何をしましょう』
「こ、こんぴゅぅたーとか言うのを使ってこの学園内で最近起きた事をリモートしてもらう。いんたーねっと、とか言う情報収集が便利な機械があるのだろう? それを使って、だ。
その後は世界樹下の調査だ。まったく、こんな呪いでなければ被害の出ない問題の処理など行わないものの……
ともあれ、ぼうやの居る学園だ。私の待ち場所でもある。
ナギが帰ってくる時に私がちゃんとしていなかった所為でここが消え失せた、などと言うことになってはどうしようもない。やるしかないだろう? 行くぞ」
電子戦とは言わずとも、エヴァンジェリンは珍しく魔法の力ではなく、科学の力を是としての調査を進言した。
絡繰茶々丸と言えば、それに従うまでだ。文句もなければ、主の意にそぐわない事もない。
ただ絡繰茶々丸に解った事が一つだけあった。
主。エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルと言う少女の意は、今まで以上に焦燥している、と言う事であった。
表面上の仮面はそう見えても、内心で絡繰茶々丸の主は緊張を持っている。
それもただの緊張ではない。悪魔がこの学園に来たときより。京都でネギ・スプリングフィールドが襲われたときより。今までの、どの状況よりも冷静であった。
だからこそ焦燥していると絡繰茶々丸は理解する。
余裕がないのだ。軽口を叩く暇も。自分の力を過大に見せる吸血鬼としての自信も。
何時如何なるときでも余裕を崩さず、自らの力に絶対の自信を以って行動する筈の主に、今は一切それが見当たらない。
冷静であった。ただただ冷静。一歩でも行動を違えれば、取り返しにならない事に恐れているかのような冷静さ。
絡繰茶々丸は理解できないが、エヴァンジェリンが感じているきな臭さとは生物的な差異だ。
圧倒的な違いを彼女は感じている。
吸血鬼と人間。
魔法使いと人間。
人間と人間。
そんなものの差異でも、争い事は起きる。
髪の色の違い。
皮膚の色の違い。
声の違い程度で人間は人間同士で傷つけあう。
だが、エヴァンジェリンにそれはどうでも良い。
吸血鬼と言う人間とは別のステージへ昇った彼女にとって、人間同士の争い事も。自分自身に降りかかってきた差異の争いも関係ない。
重要なのは自らが感じとっており、そして、得体の知れないきな臭さに少なからず恐怖している自分がいる、と言う事だ。
彼女が感じていたものは生物として絶対的な差異を生じさせるような存在であった。
それから比べれば、人間同士の争いも。いじめとか言うのも。まったくもって意味を成さない。無意味なものだ。
それをエヴァンジェリンは感じている。壮絶な違い。争いごとになるならないの差異ではない。生物として、そもまったく以って違うモノを感じている。
「長引くかもしれんが、いいか?」
『何を。私はマスターに従います』
静かに笑ったエヴァンジェリンに続いて、絡繰茶々丸がコンピュータ室へと消えていく。
時は夕暮れ。間もなく日は沈む。
日が沈めば、後は夜の時間だ。夜の時間は昼とは別ものが動く時間となる。その時を目指して、人外二人が動く。
暗影の内にあった。
人影は二人。
しかし、二人は人ではない。
吸血鬼とロボット。人ではないものが、人の生み出した文明の、現時点で最高水準に属する機器の前で作業を行っている。
だが、キーを打つ音はない。
あくまでも暗影の内は静かであり、実際に作業しているのも、絡繰茶々丸と言うロボット一人だけ。吸血鬼の少女は、その背後で腕を組んで画面を見守っているだけだ。
キーも打たずにどうやって情報を引き出しているのか。
それは、絡繰茶々丸の人右手の差し指が示してくれる。
絡繰茶々丸の人差し指の第二関節が割れ、接続端末がコンピュータと直結している。
そこで初めてキーを叩く音が数回響く。僅か五度程度。それだけで、画面上には幾重もの情報が表示される。
「どうだ?」
『見るべき情報は皆無です。どれも未確認の情報ばかりであり、また魔力的関係性を持った情報ばかりのようです。
学園内の魔法使い。Aクラス出席番号一番の席の怪。魔法は実在する、など。
マスターが感じているかのような異様な気配を髣髴させる様な情報は一切。
弱冠、学園祭の時の残り香的な情報は残っていますが、それも、あまり他の情報と変わらないようです』
ふぅむ、とエヴァンジェリンは一息を付く。
それもそうか、とも思っていた。
自らが知覚出来ない、知覚出来ても、精々空気の対流が変わった程度にしか感じられないようなか細い気配。
きな臭さ、としか表現できないような気配を、どれだけ科学が発達しようと吸血鬼と言う幻想の内では行為に属する存在の知覚能力に勝る日はまだ先の話だ。
つまり、きな臭さとしてしか表現できないものを人間に求めるのがそもそもの間違えだったのかも。そう彼女は感じていた。
だが、人海戦術と言うのは何時の時代も存在している。
一人一人の知覚能力の程度は低くとも、それの重複ならば意味は変わる。
一人で何かを感じるよりは二人いたほうが感じられる可能性は高い。
人は、個人個人で保有している能力には違いがある。霊的な勘や、驚異的な運。そういったモノを内包している人間も、確かにいるのだ。
そのような人間も数少なくても加わり、多くなれば、それこそ情報ネットワークが形成され、意見交換に次ぐ意見交換で情報は更に高度に、しかし複雑化していく。
エヴァンジェリンはそれを知っている。
知っているからこそ頼ったのだ。
一人の吸血鬼と、数億にも及ぶであろう巨大ネットワークのどちらが上回っているか。
上回っているならば、それでも良い。今は勝ち負けにこだわっているような状態ではないから、その情報を頼る事に躊躇いはない。
『ですが』
「何か気になる情報でもあったか?」
『はい。魔法少女関係の情報です』
「魔法少女? なんだそれは。
関係なさそうだぞ? 今日日魔法少女など流行らんだろう。
マニア関係の情報ソースなど開くな。次だ、次」
『いえ、ただの魔法少女ではありません。世界樹下で、そのような格好をした人間を見た、と言う情報です。
それも普通の魔法少女の格好ではなく、巨大なドリル状の物体を構えた、と言う情報です。
情報源は……"青い鳥"と言う匿名の情報ですが』
エヴァンジェリンは少し首を捻った。
どう見ても関係性は無いような気がする。
否、気がした。過去形なのは絡繰茶々丸の言葉を聞く前では関係ないと本気で思っていたからだ。
だが今は違う。関係がないとは思えなくなっていた。
何故そう思うのかは解らない。ただ、長年エヴァンジェリンと言う名の吸血鬼を生かしてきた直感が語っている。
無意味ではないと。無関係の情報ではないと訴えている。
根拠はない。そもネットワーク上の情報は証拠がなければ信憑性は疑わしい。全てを疑え。それは基本だった。
だが無視する事は出来なかった。
不気味な関係性をエヴァンジェリンは感じていた。百年生きた少女の勘それが、訴えたのだ。
世界樹下。魔法少女。ドリルの様なもの。それらが示すものを。
『マスター。最新の情報です。
世界樹下で強烈な発光現象を見た、と言う情報ソースが麻帆良のあちこちから探知。
三十分前の情報ですが、如何しましょう』
「……行くか。考えるよりは行動だ。
ただ待っていては何も得られないなどと言うのは散々知っているからな。
何もなくても、何もしないよりは成果は得られる可能性は出る。
何もしなければゼロだが、何かをすれば1は確実に発生する。1かゼロかと言う事だ。
世界樹下まではここから十分ほどだったな。歩いていくぞ」
コンピュータの画像電源が落とされる。
部屋は完全な闇に包まれ、長方形の明かりが差すまでは、完全に暗黒に包まれたままであった。
ブン、と言う音。完全にコンピュータが落ちた音を確認して、エヴァンジェリンと絡繰茶々丸はその部屋を後にした。
世界樹の下は変わらなかった。
いつか、ネギ・スプリングフィールドがエヴァンジェリンに弟子入りした時、絡繰茶々丸と殴りあったときと何も変わらない。
静かに風が吹き、既に沈んでしまった太陽の所為で、夜の暗礁に全てが身をゆだねていた。
ただ、一点だけ違う場所がある。
それは抉れた地面。地雷で火柱が上がったかのように抉り取られ、近くには残骸なども転がっている。
エヴァンジェリンはそこに手を触れ、意識を集中する。
抉れた地面の底は熱く、かなりの温度を持っており、そして同時に黒い煤なども確認できた。
『マスター。他に以上は見当たりません』
「ああ、だが此処から感じられるのは確かに魔力だ。しかもかなり強い。
……火系魔法使いの魔法の射手か。成る程、ならばこのミサイルの起爆したかのような残痕も理解できる。
と、なると魔弾の射手だな。どこの誰だかは知らないが、たいした破壊力だ」
『魔弾の射手? マスター、魔法の射手とは違うのですか?』
「魔弾の射手はドイツの歌劇作家カールマリアフォンウェーヴァー作の題名から来ている。
正確には『自由射撃』。
多くの魔法使いから見ると、多くの歌劇は一種の韻を踏んだ超長大詠唱であるらしく、全歌劇内容を通して詠唱に用いた時の破壊力は通常の魔法の射手のソレを上回るとされている。
オペラ、と言うものの大半はそう言うものだ。
『魔笛』や『椿姫』もそうか。
詠唱とは暗示だからな。自分と、世界に訴える暗示だ。
歌劇の物語はソレこそ世界そのものへ向けられるあり方だ。
それを詠唱に用いても、勿論それなりの威力は得られる。通常の詠唱などでは比べ物にならないほどのものだ。
規定の詠唱よりは、相性の良い自己暗示詠唱の方が魔力の通りは良い。
で、魔法の射手と魔弾の射手の違いだが。これは大きく違う。
魔法の射手が追尾性に優れた初歩魔法だとすると、魔弾の射手は追尾性に優れる上、破壊力も上位に食い込む上級魔法だ。私も使えるが、封印の身では無理だな。
だが、それでも此処までの破壊力は引き出せまい。恐らくは火系魔法使いの魔弾の射手だろう。火系の魔法使いは全魔法使いでも最大級の破壊力の持ち主だからな。
この魔弾の射手を用いた火系魔法使いの威力は中の上。まだ発展途上だな。
成長すれば大陸弾道ミサイル程度の破壊力にはなるか。正面きっての魔法戦は一番避けたいタイプだ。
で、茶々丸。どうだ。他に魔力の流動、その他異常は見当たったか?」
絡繰茶々丸は黙って顔を横に振る。
他の異常は見当たらなかった。僅かに魔力が残留するのみの広場で、二人は無言のうちに佇む。
『マスター。如何致しましょう』
「如何にするかな…とは言っても他に何かするべきような事も――――」
そこまで言って、エヴァンジェリンは言葉を切った。
そうして無言の内に階段を上っていく。絡繰茶々丸は応じるように一度、主の見上げていた方を見上げ、主の後を、若干の駆け足で追っていく。
世界樹の真下も真下。
その太く、猛々しいまでの根に触れられるまでの近さまで接近したエヴァンジェリンの目の色が変わった。
金色。吸血鬼、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル本来の魔眼の色。
普段は魔力を大きく封じられているが故に露呈しない瞳の色は、エヴァンジェリンの真の力が解き放たれたときにしか発露しないものであった。
だが今は違う。世界樹の真下。地面がむき出しとなっている場所にあるソレを見て、彼女の目の色が文字通り変わったのだ。
力が発露したからではない。
純粋に、彼女の本能的な部位がエヴァンジェリンの内の魔力系の開放を封じ込めている魔力を凌駕したのだ。
唇の端をそのやや長めの犬歯で噛みながら、進む。
後を追ってきた絡繰茶々丸も同様に、緊張の眼差しでソレへ近づいていく。
二人の前にあったモノ。それは一言では理解出来ないモノで、理解してはいけないモノだと悟った。
四角錘。月の光も弾かず吸い込みつくす、黒い物体。
それが地面の草の根を掻き分けるでもなく、しかし上から落ちてきたかのような様相もなく其処にあった。
厳しい面持ちのまま、エヴァンジェリンはソレに触れた。少々軽率かとも感じたが、それさえも感じさせないほどの、虚無感。それを、ソレは持っていたのだ。
触れては見たものの、何も感じない。
冷たくもない、熱くもない。
魔力的なものは感じない、自然的なものも感じない。
漆黒のその外用からは、何一つ感じる事は出来ない。
物体として佇むだけの存在。それが、エヴァンジェリンがそれに触れた時に感じたものだ。
「―――何だと思う、茶々丸」
『近年、ここにこの様なオブジェクトが建てられたと言う話は聞き及んだ事がありません。
また、この物体は現行地上に存在しているどの物質とも該当しません。
少なくとも、今現在地球上に存在している物体と照合を試みましたが、全てエラーとの結果が出ました。
ただ、一つだけ言える事は、この物体は四角錘ではありません』
「何?」
『地中、ではありませんが地上に出ているこの四角錘部分の更に下に接続しているような箇所が確認できます。
形状を推測すると、この四角錘の物体がもう一つ、逆転した形で付いている、菱形結晶体の様な形状をしていると思われます』
エヴァンジェリンは絡繰茶々丸の推測を聞きつつ、その漆黒の四角錘を見上げた。
高さにして5m台の大きさをした四角錘。
もう一度触れても、やはり何も感じない。
まるで、エヴァンジェリンと言う存在を徹底的に無視するかのように佇むのみ。
それを簡便ならない、などとは考えない。
これは物言わぬ岩と同じだった。ただ在るだけの存在。在るだけで意味を成す、かのような存在。それほど濃い存在感を湛えていながら、ただ在るのみ。
それにエヴァンジェリンは怒るようなそぶりは見せない。
ただ、黒曜石のような、しかし、輝りのまったくないその物体に片手の平を押し付けたままで、自らの顔も映さないその物体を睨みつけるのみであった。
その手が離れる。
エヴァンジェリンは確信した。
長年感じていたあのきな臭さを感じさせていたのは、これだと。
今も感じている。否、正しくはこうして見つけたと言うのに、まだ感じている。
目の前のこれが、あまりに不可解なモノであると。
コレは、魔法使いの何たるかも。
人間としての何たるかも。全てを妥当する領域に在るモノである事を、エヴァンジェリンは直感的に察した。
『如何しましょう、マスター』
「無視しろ。コレが私が感じていたモノには間違えがない。
だが、まだ別の何かがある気がしてならない。
知っているか? 実感より直感の方が七割がた正しいのだと。特にこの様な状況の場合は、な。
私の中の私が訴えているのさ。
コレは無視してはいけない。しかし、無視するしかない。だが、コレを忘れてはいけない。そう訴えている。
……ソレを信じる事にするよ」
自嘲気味と言うよりは、苦笑するかのように口端を歪ませ、脂汗を一滴頬に滑らせ、エヴァンジェリンはソレから離れた。
相変わらずそれに変化はない。
エヴァンジェリンも茶々丸も、一切合切を感じないかのように佇むソレ。
エヴァンジェリンは叩き壊したい衝動に逆らう。
無理だろうと確信したからだ。
コレは破壊できないものであるからだ。
だから衝動に逆らった。
何であるかも解らないものが、悉くで己を無視している。
それに怒りは覚えないも、妙な不安があった。
今壊さねばならない、しかし、壊す事は出来ない。そんな予感。
それは直感であり、間違えがなかったが、壊すことなど出来はしないと言うのもまた、直感で理解できていた。
エヴァンジェリンと絡繰茶々丸はそれに背中に向けて帰路に入る。
途中、エヴァンジェリンは幾度もソレに振り返っていた。
絡繰茶々丸は、その様相を怖がる子供のようにも見ていた。
子供。幼い頃、暗がりに何かを夢想してしまうかのような想像力豊かな子供のように。
ワケの解らないもの。それが何なのか解らなくて、泣き出す前の子供のようなしぐさにも見えた。
それを進言しないのは、絡繰茶々丸がエヴァンジェリンの事を少なからず理解出来ているからだろう。
強気で傲慢。自信満面で我儘。
弱みは見せず、しかし、相手の弱みに付け込むような、けれども誰より子供っぽい主。
その主が素の姿を晒すのだ。アレの恐ろしさが理解出来ないと言うのも、わかる気がする。
ただ、絡繰茶々丸だけはどうにも思っている感情が違った。
アレを見た時に感じた実感。ソレはエヴァンジェリンの感じたモノでも、あのアーニャ=トランシルヴァニアが感じたものでもなかった。
理解出来ないのは良い。
絡繰茶々丸も、アレは理解できなかった。
ただ、その理解できないのが、絡繰茶々丸が"生物"の何たるかを理解出来ないと同じだと言うのは、最後まで本人さえも気付けなかった―――
主を送り、彼女はそこに居た。
教会前の広場。普段鐘が鳴る頃に訪れて、寄ってくる鳥や猫の為に餌をやっている憩いの場。
絡繰茶々丸は自覚していないが、そのときの表情は酷く穏やかだ。人間のように。
しかし、今日は少々状況が異なってしまった。
主の付き合いであったが故仕方がなかった。それを説明しても猫たちは理解出来ないだろう。
絡繰茶々丸はそれを理解出来ないが、行動で示す事は出来る。
待ち合わせなどしていないが、ほぼ毎日の日課なのだ。今日も待っていたであろうと絡繰茶々丸は思考した。なら、遅くなってしまったが今日も餌を。そう思い、絡繰茶々丸は此処に居る。
既に時刻は夜中、と読んで過言でない。
自らの主を寝かしつけ、電源の消費を抑える為に仮停止状態に自らを置いていたが、どうしても記憶ドライブ内で反復される映像が在る。
毎日顔を見合わせている猫たちの姿。それが、仮休止の状態になるとどうしても再生されてしまう。
それがどうしてそうなるのかを、絡繰茶々丸は理解出来ない。
ただ、このままでは無駄に電力を消費してしまうと判断した彼女は此処に来たのだ。解決策を模索し、自ら足を運んだ。
『―――居ないのでしょうか』
四方を見渡す。
既に三十分は絡繰茶々丸は待っている。
だが反応はない。何故来ないのかを、絡繰茶々丸は理解出来ない。
このままでは自らは電力を消費し続けてしまう。そう考えた絡繰茶々丸は、自ら足を進めた。彼らを捜すために。
同じように過ごさなければ、彼らの姿が何度も何度も反復されてしまう。
何故そうなるのかを絡繰茶々丸は理解出来ない。
その行為は、ある意味。彼らを理解しようとする、生物のような絡繰茶々丸の行動だったのかもしれない。
聴覚器官が音を捉える。
小さな鳴き声。絡繰茶々丸でなければ聞き逃してしまうだろうほど小さく、かすかな声に、絡繰茶々丸は反応した。
どうやら草むらの向こうに居る事を探知した彼女はその奥へ分け入っていき、そうして漸く見つけた。普段餌を揚げている猫たちを。
『此処に居たのですね』
猫らは一箇所に集まっており、絡繰茶々丸の姿を見るや擦り寄ってくる。
それを見た絡繰茶々丸の表情が僅かに微笑む。
自らはソレを知覚出来ないが、絡繰茶々丸は確かに小さく微笑み、その手に携えていた袋から餌入れと猫の餌をソレへ盛っていく。
身体を寄せそれを食べていく猫らを、絡繰茶々丸は本当に優しそうな表情で見守り続けていた。
その折に、彼女は茂みの更に奥を見る。
何かが居る。それだけ判断すると、漆黒の闇の向こう側であるにも拘らず、絡繰茶々丸はその奥へと尚歩んでいく。
『何方か居るのですか。餌があります。皆さんと一緒に―――』
猫かもしれないと感じた絡繰茶々丸は声をかけた。
勿論反応はない。反応などある訳がない。鳴き声もない。
そも、絡繰茶々丸がそう言ったところで、猫であれば返答する筈もない。
絡繰茶々丸はそう言う点でも理解できていないのかもしれない。
言葉を話せるのは人間だけ。そう言う部位も、どこかで解っていないのかも知れない。
猫が喋る事などないと、絡繰茶々丸は理解できている。
そこまで思考回路が瓦解してはいない。
ただ、生物の間で、何故人間だけ言葉が話せるのかと言う根源的な部分が理解できていないのだ。だが、今はソレを問うより先に、絡繰茶々丸は茂みの奥を弄った。
そうして、急に茂みの奥の暗礁が晴れた。
銀色の輝き。それが、茂みの奥に至った絡繰茶々丸足元より輝いた。淡い光。月の光を吸って、それが輝きに変わっているかのような、そんな光だった。
傍らには小さな子猫。その銀色の光に寄り添うかのように。
その銀色の光、頼るかのように触れはせずとも、擦り寄っている。
『―――怖いのですか?』
絡繰茶々丸には、その弱まるかのように明滅を繰り返す光がそう見えた。
何かに怯えるかのような瞬き。
ソレが何で、そう言う理由で明滅しているのか。一体なんであるのかも理解せずに、絡繰茶々丸はそれを両手に湛える。
光が激しくなった。
銀色に輝くソレ。絡繰茶々丸の両手に包まれ、静かに、抱きしめられるかのようになったソレの輝きは激しくなる。
怯えを和らげるような絡繰茶々丸の抱擁に、それが生物なら恐らく安らぐだろう。
だが、その銀色は違う。発光が強まる。絡繰茶々丸の胸元から、絡繰茶々丸の全身を銀色に染め上げるかのように。
そうして、光はやがて、夜の麻帆良に潰えた―――