第三十三話〜交差〜


 学園内で、今とても大変な事が起こっているのは知っていましたわ。
 けれど学業は生徒の皆様の仕事ですので、登校しないという訳にも行きませんでした。
 アーニャ様に詳しい事は話すような真似はせず、ロングスカートの麻帆良中等部の制服に着替えて、カバンを携え、行き際。
 余った一室の奥で魔法を行使なさっていたアーニャ様に声をかけて登校。

「いってらっしゃーい」

 明るく羨ましい声。それがかけられるのがわたくしであると知ると、とても嬉しい。口元がほころんでしまうのが意図せず理解できてしまいます。
 遅くはなりませんとだけ告げて、家の外へ。
 暑さは徐々に収まっていく季節。数人の登校に歩く生徒さんに混じり、歩みを進めていきます。
 中等部校舎。相変わらず大きく厳格な面持ちにさせていただけるあの建物。

 登校と言う場においても、わたくしに話しかけてくださる方は皆無です。
 それがどうしてなのか、わたくしには解りません。
 何か悪い事をしてしまったのか。何かとても気に触る事をしてしまったのではないのか。そんな事ばかり考えてしまいます。
 もしそうであったと言うのなら、皆様に報謝せねばいけませんけれど、その声すら受け付けては下さりません。
 それがどうしてなのかを問う事も出来ず早18年。もうそれほど生きていると言うのに、何故皆様はわたくしの事を見ては下さらないのでしょうか。

 それを解決する術は無く18年。
 でも決して悪くはない18年だったでしょう。
 出会いになった方々は皆様共に朗らかな方ばかり。
 キノウエ先生。鶺鴒様。アーニャ様。まだ出会って数回ですが、那波様。そして誰よりもアーニャ様。
 思い返せばそれだけのかたがたですが、皆様はわたくしの掛け替えの無い方々。
 もう間もなくアーニャ様の事は居た事すら忘れてしまうかもしれませんが、それでもアーニャ様が覚え続けて下さるというのなら、わたくしにどれだけの眷焉が御座いましょうか。
 もしやとも考えることはあります。今までであった中で何人の方からも記憶を消されているのかもしれませんが。
 もし、その方がわたくしの事を覚えていてくださるというのなら、是程の欣喜は他には無い事でしょう。
 ソレを与えてくださるというだけで、わたくしの裡は此処まで安らかになります故。

 だから悲しくないのでしょうか。
 アーニャ様が此処から離れていくと知っても、わたくしは涙一粒流す事はありませんでした。
 覚えてくださるというのなら、きっとそれはわたくしの喜びとなるのでしょうから。
 その喜びになれるというのならば、わたくしは苦しみさえも愛せますわ。

 誰の一人からも看取られぬわたくしを見続けてくれてらっしゃられるアーニャ様と、何時か、わたくしを置いて行ってしまわれた方々がわたくしを覚えて居続けてくださるというのなら。
 仮令世界に黒い雪が降り積もり、その醜さを露呈しても。
 その世界すら、わたくしは愛せましょう。
 わたくしが生きる世界を。私は愛してまいりましょう。わたくしの生きる道ではありませんが、ソレをわたくしの戒めと致しましょう、アーニャ様。
 観否の方々よ。戒を開し。悔を解せる時が来るまでは。わたくしはまた、歩み参りましょう。

 中等部の校舎へ。静謐な棺のようだったのは今も昔でしょうか。
 わたくしにはアーニャ様が居てくださるというだけで、あれほどわたくしの周囲が静かで、水を打ったかのようであったと言うのに。
 今はソレさえ心地よく思いますわ。
 静けさが心地よいのではなく。出会いのあったこの場所。
 出会いを作ってくださった、わたくしが話したことも無い、話しかけることさえも許されぬ方全てに愛を注ぎましょう。
 返されぬ愛でも。わたくしは、それさえも心地よいでしょうから―――

 喧騒はありません。いいえ。わたくしの周囲で誰かがお騒ぎになられたことは生涯なかったでしょう。
 18年と言う年月ならば一度程度はあっても良い事だといいますのに。
 わたくしの周辺では、今の今まで唯一度として、喧騒が巻き起こった事は御座いません。

 そう言うとき、私は決まって窓の外を見続けております。
いえ、それは何時もの事でしたわ。だった一度も喧騒を間近で見、それに微笑んだ事はありませんですもの。
一度もないと言うのなら、わたくしは18年間。何時も窓の外ばかり見続けていたようなものでしたわ。

 窓の外は暖かく、わたくしの全てを受け入れてくれます。
 アーニャ様の様に。いいえ、アーニャ様の受け入れ方は力強く、しっかりとその手に牽かれなければ体を燃やし尽してしまいそうなほどに猛々しい焔のようにわたくしを迎え入れてくださいましたでしょう。
 ならばこの空気は森羅。凛森した空気に捉われるというのであれば、ここまで心地よい事は無いでしょう。
 無論、他の方々に迎えられる事ほど嬉しい事はありません。
 ですが、今し方の処では、わたくしを受け入れてくださるのはアーニャ様のみ。
 ならば、森羅の空気に身を任せるもまた一興と言うのでしょうか。
 その時が来るまでは、わたくしはまだこの森羅に身を任せるがままでしょう。

 と、胸元がぷくりと盛り上がります。
 勿論それほどわたくしの胸は大きくはありません。
 アーニャ様から見れば充分に大きいとの事なのですがわたくしはそれほどでもないと思うのです。
 寧ろ、アーニャ様の様に小ぶりの方が足場もしっかりして良いと思うのです。
 では、何故わたくしの胸元がぷくりと膨らんだのでしょう。もしやわたくしの胸は空気の出し入れで膨らんでいたのでしょうか。

「ぷぅ。そんな事無いですです」

 胸元からぴょっこり顔を出してくださったのは、なんとあのアーニャ様のご家族であらせられる白蛇のレッケル様。
一体何時わたくしの胸元に忍び込んでいらっしゃったのでしょう。わたくしの胸元など苦しい以外にありませんのに。

「みゅっ、みゅみゅっ。出さなくでも平気ですですぅ。
 此処で私が出ちゃったら皆さん驚いてますます湖華さんから遠ざかっちゃうですです。
 私はアーニャさんから湖華さんを幸せにして上げられるようにと同伴したのですですぅ。
 ここで皆さんを遠ざけちゃったら、レッケル、アーニャさんにしかられちゃうですです」

 叱られてしまうのですか。
 それはいけません。レッケル様もわたくしの大切なお一人なのです。
 忘れても、レッケル様もまたわたくしを覚えてくださるというのなら、わたくしは辛くもありませんわ。
 ですが、今ここで出して差し上げる事が出来ないというのは心苦しく思ってしまいますわ。
 ですから、ちょっと胸元を緩めそこに。
 それでならば、レッケル様も苦しくは御座いませんでしょう。胸元をなでおろし、窓の外へ今一度。

 今のわたくしを、皆様はどう見ていらっしゃるのでしょうか。
 それは気になりますが、わたくしが視線を動かしては皆様は心穏やかには居られません。
 それは解っているのですが何故にわたくしが視線を動かしては皆様が目を逸らすのかが理解できないのです。

 アーニャ様から聞き及んだ事も御座いませんし、一体何故なのでしょうか。
 僅かに右肩へ首を捻り、疑問を空へ飛ばしてみます。
 勿論答えはあらず、わたくしは一人。いいえ、胸元にとても大切な方がおらっしゃいますから、二人。
 ああ、そうならばレッケル様に聞いても宜しいかもしれません。

「レッケル様?」
「みゅ? 何ですです? レッケルに出来る事なら何でもですですっ」
「あの、ではお聞きしたい事がありまして。
 何故皆様は私の事をお避けになられるのか。それをレッケル様はお答えいただけますでしょうか」
「みゅー……みゅん。アーニャ様からそのことはとても厳しく言われているのでなんとも言えないですです……でもでも。
 湖華さんは綺麗ですから、皆さんも何時かは湖華さんと一緒に笑ってくれると思うですですっ」

 ああ。それならそれはとても嬉しいでしょう。
アーニャ様と居る時も。皆様と居る時もわたくしはとても嬉しいのですから。
皆様と一緒に居られるだけでも良いかもしれません。
ですが、こんなことを言ってはきっとアーニャ様がお怒りになられてしまいますわ。
だから頑張りたいと思うのです。アーニャ様たちが居なくなられた後も、皆様を長く愛せるように。

 それはとても近いような気がしますわ。
 那波様。わたくしと同じ学年の天文部のお方。
 その方と共に、既に何度か天文部へ窺いましたけれどとても楽しかったのを覚えております。
 今まで無かった沢山の事。声をかけられる事も。触れ合える事も嬉しく、とても楽しかった事。
 でも、それは天文部の方々とだけで、今わたくしが居る場所では今までの長い間と余り変わりません。

 それがとても悲しいのです。
 一人は悲しいですから。わたくしは一人ぼっちで平気なような強い人間ではないので。
 誰かと一緒に居なければ、心安らぐ時はありません。今まで長くそうでありましたわ。
 だからきっと、内に篭ってしまい。先日に在った移動遊園地のような楽しい場にも気付けなかったのでしょう。
 それを解き放ってくださったのは、やはりアーニャ様。
 アーニャ様が居てくださったからこそ、今のわたくしが生まれたのですね。
 それは感謝してもし足りない事かもしれませんわ。それなら今度何かお礼をしなくてはなりませんね。

「レッケル様。レッケル様とアーニャ様の好きなものなどはお分かりになるでしょうか」
「みゅ? みゅーん……私もアーニャさんもあんまり好きなものとかには拘らないですですからぁ……。
 みゅっそれなら女の子っぽい物が良いかもしれないですですっ。私もアーニャさんも女の子ですからですですっ」

 女の子らしいもの。それはわたくしにはちょっと難しいかもしれませんわ。
 何しろ、女の子らしいものなど今日日貰ったことなどありませんもの。
 もらった事もなければ、どんあものが女の子らしいものなのかも解りませんわ。
 でもそれならと、お一人。思い当たる方がおらっしゃいます。

 掌引心鶺鴒様。あの方なら、女の子らしいものなども知ってくださっているかもしれませんわ。
 そうと決まれば行動したいのですけれど、今はまだお昼の休み時。授業が全て終わったのなら、向かうと致しましょう。
 さぁ、そろそろ先生も帰ってきますでしょう。
 その前に席に腰掛、再び森羅広がる窓の外を。わたくしは、何時か其処へ帰れるでしょうか――――

――――――――――――――――――

「あらネミネ。珍しいじゃないの、一人でトコトコやってるなんて。
 あ、一人でトコトコは毎度の事ね。サポートさん来るまでだったけど。
 で、そのサポートちゃんは今日は居ないの? それともとうとう愛想でも尽かされた?
 それならそれで別にいいわよ? アタシが貰っちゃうから。
 まぁ前半は尤もで後半は冗談として。何しに来たの? アタシも暇じゃないわよ?」
「はい申し訳ありません。鶺鴒様に少々聞きたい事がありましてはせ参じました。
 単刀直入に申し上げますね。鶺鴒様。女の子らしい品物とは、どんなものがあるでしょう」

 華道部の部室。純和風で整えられた縁側に座したまま花を生けてゆく鶺鴒様に、無礼とは知りつつもこの様な差し出がましい真似をしてしまったのは、それだけわたくしの内でアーニャ様の存在が大きくなっているからでしょうか。

 ただ知りたいと思ったのです。アーニャ様が喜んでくれるものが何なのか。
 それが知りたくて。けれどわたくしでは、それの答えを求める事は出来なくて。
 そうして思い浮かんだ方が鶺鴒様だけだったのです。
 何時も何方かに囲まれ、気さくな態度を取っていらっしゃられる鶺鴒様なら、あるいは。

 まだ部活中で会ったことは重々承知しておりました。
 事実として、今の部員の方は花を生けておらっしゃられています。
 わたくしの方を見たのは僅かにお一人だけ。その方も、直ぐに顔を背けてしまわれましたけれど。

「女の子らしいものねぇ。ネミネだって一応女の子なんだからネミネが貰って嬉しいようなもので。
 ああ、嘘嘘。アンタ何貰ったって感想同じだもんね。アンタに意見振ったアタシが馬鹿だったわ。
 で、いーんちょっちなんか知ってる? 女の子らしいもの。
 そうねぇ年齢は10歳位限定で。いーんちょっち、小さい子好きでしょ? それを教えてくれればいいんだけど」
「……ふぅ。私は別に小さい子は無差別に好きと言うわけではないのですけれど……
 そうですわね。10歳ぐらいの女の子と言うのであればぬいぐるみなどが喜ばれるかとも思いますわ。
 でも私はその当時からそのようなもので遊ぶようでは在りませんでしたので」
「あー雪広財閥の令嬢だったもんね、そーいや。
 と言うこと。はい帰った帰った。あたしゃ忙しいのよん」

 教えてくださった部員の方と鶺鴒様に一礼を下げ、その場を後に。
 ぬいぐるみ。アーニャ様にぬいぐるみ。
 それはとてもお似合いのような気も致します。アーニャ様はとても可愛らしくありますから、きっと、ぬいぐるみを抱いた時のお姿はとても麗しいでしょう。

 でも、ソレより以上にわたくしは喜んでもらいたいと思っています。
 どんなものを差し上げれば喜んでいただけるのか。それをとても知りたく思っています。
 アーニャ様はぬいぐるみで喜んでいただけるでしょうか。
 もし喜んでいただけなかったらわたくし、とても悲しいです。
 アーニャ様を喜ばせて上げられませんでしたもの。だから、一番喜んで頂けるものが何で在るのかを。

 鶺鴒様の仰られる通り。わたくしは何を貰っても感想が同じなのでしょう。
 だからわたくしが何かを考えてもアーニャ様が喜んでいただけるものが想像できないのでしょうか。
 わたくしが喜んだ事が無いから。だからアーニャ様が笑っていただける時を考えられられないのでしょうか。
 でも。わたくしは嬉しかった筈です。
 何時。それは一体何時だったのでしょう。
 思い出しましょう。あの時を。わたくしが長い間で心躍らせ、歓喜に打ち震えたあの時を。

 アーニャ様との始めての出会い。木の下で出会い、夜のご挨拶。
 けれど返事は相変わらず返していただけなくて、それを悲しみ、何時もの朝へ。
 一人で窓の外を眺めていた時。チャイムが鳴ったあの時。顔を廊下へ向けた時、アーニャ様のお姿を捉えたあの時の事を。

 それが、わたくしが一番喜んだ時。わたくしが一番欲しかった時。
 直ぐに去ってしまわれたけれど、もう一度会いに来てくださった。そう考えただけで、あれほどに心は打ち震えましたわ。
 アーニャ様はどうなのでしょう。
 アーニャ様はわたくしといつも顔を合わせてくださっていらっしゃられますわ。
 なら、アーニャ様は私と出会うと言う行為では喜んではいただけません。でも、わたくしの喜びは他にはありません。なら、一体如何様にすれば。

「みゅっ。キノウエさんにもお話しをして見ては如何ですです?」
「キノウエ先生に、ですか?
 ですが取り合っていただけるでしょうか。
 キノウエ先生はとても厳粛なお方ですわ。私のような考えなど一蹴にされてしまうのではないのでしょうか」
「みゅーん。でもでもお話しするだけならタダですですっ!
 キノウエさんは何時も女の子の相手をしているからきっと助言ぐらいは暮れると思うですです〜」

 レッケル様の仰られる通りなのでしょうか。
 確かにキノウエ先生は麻帆良の中等部が生物の先生をしていらっしゃられますが、それは女の子の好きなものを知っていると繋がって良いのでしょうか。
 でも、聞きに行くだけならばレッケル様の言うとおりで良いかもしれません。
 それに鋼性種の方と最後に戦ってから夜の見回りも鶺鴒様が任せてくださってしばらくキノウエ先生ともお会いにはなっていらっしゃいませんでしたね。それならば。

「レッケル様の仰られるとおりに。キノウエ先生に会いに行って見ましょう」

 胸元からの嬉しげな声。それを聞くと、わたくしまで嬉しくなってしまいます。
 そういえば此処のところキノウエ先生の所へはアーニャ様も同伴で行っておりましたから。
 アーニャ様がおらっしゃられなかった頃は、こうして一人。今は二人ですが、キノウエ先生の元へ足を運んだものです。

 それが少なくなったのは、アーニャ様、やはりあなたのお陰なのでしょうか。
 貴女の所為なのでしょうか。それはとても嬉しく、けれど一人のキノウエ先生にはとても申し訳が無いような気がしてなりません。
 もし許されるのであれば、鶺鴒様。レッケル様。キノウエ先生。お母様。お婆様。
 そしてわたくしとアーニャ様。
 許されるのであれば、長いときの中でそれを叶えて欲しかったのです。
 皆様が揃ったのであれば、きっとそれはとても嬉しいでしょうから。

 でも、それも最早叶いませんのですね。
 きっとわたくしには過ぎた願い。願ってはいけない願いなのですね。
 でも、それが叶わないと知りながらもなおも此処で今も願い続けるわたくしは罪人でしょうか。
 アーニャ様。誰一人わたくしに触れては下さりませんわたくしが。皆様を遠ざけてしまうわたくしが、人並みの夢を見るのは。間違えでしょうか。
 夕闇間近。中等部の校舎は大きな大きな棺のようにも。
 長年わたくしが眠り続けてきた、あの大きな大きな棺の中へ。

――――――――――――――――――

 神様と言うものは残酷なのかもしれませんわね。
 キノウエ先生にそのような事を告げるとキノウエ先生は決まってそうかもしれないと仰られるだけだったのを思い出します。
 思い返しますと、キノウエ先生の下へ魔法少女としてお手伝いをお願いしてからキノウエ先生とはまるでソレらしいお話などした事も無かったような気が致しますわ。
 だから今日はお話が少しでも出来れば良いと思いここへきたのですけれど、どうもキノウエ先生は留守のようでした。
 キノウエ先生も先生なのですもの。教員集会などにも参加しなければいけませんので、居なくても仕方ないのですけれども。

「みゅぅ。どうしましょう湖華さんっ」
「そうですわね。暫く此処で待ってみても宜しいですか?」

 胸元の小さな白蛇さんの肯定の小さな言葉に気を許して生物準備室の前の投下の壁に背中を預けましょう。
 夕暮れが沈む中なのでしょうか。廊下は一面が真紅に染まったかのような錯覚にも陥ります。
 真紅。赤。血の赤。炎の赤。
 良い想い出ばかりではないかもしれませんが、お母様。わたくしはあの燃える様な、塗りたくられたかのようなこの赤を嫌う事は御座いませんわ。

 赤はアーニャ様の色なのですもの。
 紅い紅い炎。猛り至るかのように勇壮な焔。
 冷たい冷たい棺の中に閉じこもってばかりで、外の美しさに目も向けようとしなかったわたくしを瞬くほどに鮮烈な焔で照らしあげてくださった形の色。
 その赤は今もわたくしの眼に焼きついてはなれません。離れさせたくはありません。

 何時かは尽きてしまうかがり火なのかもしれません。
 その時は近く、遅くはないと解っておりますわ。
 アーニャ様が居なくなる時に吹き消される小さな炎。
 最早、この眼に焼き付けておくことも出来ぬ炎なのでしょう。

 ええ。それでもわたくしは構いません。
 吹き消される炎であっても、その時が来るまで燃え盛っているのであれば、わたくしにはきっと後悔など御座いませんでしょう。
 後悔も残らぬほどに焼き焦がされてしまうのですから。
 あのお方は。アーニャ様はそれほどに輝いているのですから。
 太陽のように。アーニャ様。貴女はわたくしの太陽で御座いました。
 この暮れ行く夕日の様ではなく、常に天井に輝き続ける太陽。月の密やかさも。
 星の明滅も無く、常に輝き続けるその姿。

 わたくしにとっては太陽にも遂には等しゅう御座いました姿を、わたくしが忘れても、あなたは何時までも輝いておらっしゃられるでしょう。
 それを見届ける事は出来なくとも、貴女様が照らし上げてくださった私は、貴女様の作ってくださった太陽の道筋、しかと踏みしめてまいりましょう。
 月の導きには似ませんでした。猛り狂うが如き太陽の瞬きは、あの怪しげに輝く月の魔力さえも打ち消してしまうほどの太陽の輝きに満ち満ちておりましたから。
 その輝きに導かれここに来たのですね。
 貴女様が燃え盛る炎のように私が私として包んでいた頚木を焼き尽くしてくれたからこそ、こうして今も輝き時を生きて居るのですね。

 星の瞬きには似ませんでした。
 常に光放ち続けるが如き太陽の煌きは、優しく導いてくださる星の輝きすら生ぬるいと言わぬばかりの太陽の猛々しさに満ち満ちておりましたから。
 その猛々しさに連れられて駆けて来たのですね。
 貴女様が焦げ付かすまでの勢いで駆けて下さったからこそ、こうして今、ここで経ち続けていられるのですね。

 それはわたくしにとってとても嬉しい事ばかりでした。
 アーニャ様。貴女はわたくしには無い全てを持っていられました。
 その輝きに少しでも近づきたくて、わたくしは今もこうしているのかもしれません。
 小さく瞼を開きます。
 真紅に染まっている廊下。人通りが少ないのはやはり放課後だからでしょうか。
 それでも人影はあるものなのでしょう。わたくしの傍ら。お二方ほどの人影。やや長身の方と、やや小柄な方。
 勿論、この私になど気もかけることは無いでしょうと思っていたのですが、その方のお一人。やや小柄な方が、わたくしの脇に。
 小さく開いていた瞼に映る小柄な姿。わたくしに近寄ってくださる方。
 それをしっかりとその瞳に映します。金色の髪が栄える方。
 この学園では留学生の方も多いでしょうから、そのお一人なのでしょうか。それならば英語でお答えしなければいけないかもしれません。

「Is it somewhat business?」
「―――良い発音だな。だが安心しろ。日本語はいけるクチだ」
「左様でしたか。申し訳ございません。
 此方の生物準備室のキノウエ先生は不在のようですわ。あまり長い時間此処を空ける方ではないので直ぐにご帰還されると思いますわ」

 綺麗な声の方でしたが、何となくわかってしまいましたわ。
 僅かな間。金髪の方が私に話しかけるよりの少し前の合間。
 それが私の顔をみてなさった怪訝な表情と密接な繋がりを持っている事を。
 悲しくは在りますが、致し方ないかもしれません。
 どうしてそのような表情をなさるのか聞かれてもきっと困らせてしまいますから。
 それにわたくしに用のある方ではありませんから。きっとわたくしの間近に寄ってきたのは何かの間違え。そうに違いありませんわ。

「知っているよ。此処の教師は帰ってこない。もう二度とは。
 だから―――嶺峰湖華だな? お前に用事があってきた」

 意外な言葉。しっかりと目を開き、その方を見据えます。金
 色の髪。濃紺の凛とした眼差し。けれど、アーニャ様とも変わらない。どこか真紅が栄えるような、でも何処か真紅とは違う雰囲気がするような、少し似たような顔立ちの方。
 素直な意見で言いますと、とても綺麗な方。
 その背後に立つ二色混合の瞳をなさった方。
 不思議な事に、金髪の方の瞳には戸惑いがありません。それはとても不思議で、でもとても嬉しく思ってしまいますが。
 ですが、今の前の一言。キノウエ先生はもう返ってこないという言葉。ソレに対して何故と言うより先に、その方が口を紡ぎます。

「私の名前はエヴァンジェリン。エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル。後ろは神楽坂明日菜。
 私も奴も麻帆良学園中等部3-A所属の生徒だ。呆けているようだからもう一度言うぞ。
 嶺峰湖華。お前に用事があってきたのだ」

 紅い夕焼けの廊下。夜と昼の狭間。
 夜に生きる方と、昼に生きる方が入り混じる時間。不思議な方たちと出会いました。

 ――――――――――――――――――

 水晶球に手を翳しつつ、傍らから帰ってきた簡易使い魔から情報を仕入れる。
 ネギの授業風景の情報。水晶球でも見ていた情報とあわせて、今日一日で仕入れた情報の数々を相変わらず羊皮紙へと纏めていく。
 中間管理職のようなデスクワークだけれど、魔法使いはこう言う下積みが大事なのだと言う魔法使いも居る。
 私もそんな一人。下積みを一とするタイプ。
 現実はそんなに都合のいいものでもないし、日々の積み上げの方が実績を買われるのだ。
 努力の成果が出ないと企業でも取り扱ってくれないのと同じ。魔法使いも、人間の社会も実際の所余り変わりは無いわけだ。

 ソレを世知辛いとは思わない。
 それが現実だ。現実がそう言うのなら、それに向かって真っ直ぐにするしかないわけだ。
 こう言う作業も魔法使いの一環。
 何も攻撃魔法ぶっ放して、自分の好き勝手に魔法使っているような奴が魔法使いと言うわけでもないのだ。

 そう言うのも居ないわけじゃない。
 居るには居るけど、長続きはしない。実績がないから。
 世の中は実力優先の場所もあるけど、最近は実績優先の場所も多いのだ。
 そう言うのは私はあんまり興味が無い。一先ずはマギステルを目指し、多くの命の為になれるようなことを成し、その折には、何時か願ったかの夢を追いかけようか なとも思っているわけだ。
 夢を与えられる魔法使い。
 空を箒で駆けたりして、雪みたいに光の欠片を空からばら撒く。
 それを見て、小さな子供たちが小さな夢を見てくれる。それだけでも、私は十分すぎるから。

 羊皮紙へ今日の成果を書き込む。
 既にたまった羊皮紙の量も結構なものだ。もうそろそろ魔法界への第一次通達を行ってもいいかもしれない。
 マギステル見習いの報告者は幾つかの工程がある。
 第一次報告は必須。これは基本的な事柄の通告書のようなものだ。
 つまりは、そのマギステル見習いに与えられた任を着実にこなせているのか、と言うことに対しての通達。これを大抵は第一次報告では行う。
 で、第一次報告と言うのは第一次報告であって確定じゃない。
 確定報告は報告者に託されている。即ち、その担当となったマギステル見習いが充分な技能を有し、マギステル・マギとして任をこなせていけるのか否か。
 ソレを計るのは魔法界ではなく、あくまでもこの私のわけだ。
 ただし、第一次報告というのもあながち馬鹿には出来ない。
 この第一次報告の時点で魔法界がそぐわないと決定が下れば、報告者は撤収。直ぐにでも魔法界から修行失敗が打診されるのだ。

 だから報告者は全てを語ってもいいというわけではない。
 語るべきこと。書かざるべきこと。それらを見極め、しかし、私情無く事を進めなければいけない。
 魔法使いに個性は要らない。
 魔法使いは所詮一介の魔法使い。いちいち私情を挟んでいては世界中を巡り巡って多くの命を助ける、なんて役割にはつけない。
 マギステルとしての私。アーニャ=トランシルヴァニアとしての私。そのどちらを優先するのかと言われるのであれば、私はこの場では、ネギに置いてマギステルとして。
 嶺峰さんとお付き合いするに至ってはアーニャ=トランシルヴァニアとして活動してきた。
 これからも多分そうする。
 そのこれからは直ぐに終わると知っていても、それを止めようとしない私は、結構頑固と言うか律儀なのかもしれない。

 数枚の羊皮紙に印を押す。
 一先ずは報告そのものに支障の無い程度の資料だけを纏めておく。
 魔法がばれている、なんて言う情報は一先ずは保留としておく。
 送ると言う行為はいつでも出来る。ギリギリまで我慢してみるのも悪くは無い。
 ネギがマギステルになる事に越した事はない。問題は、その後でネギがどんな行動を取るのかと言う事だ。
 教師として此処で過ごし続けるのか。マギステルとして多くを救える者になるのか。サウザンドマスターというものを目指して、全部かなぐり捨てていくのか。
 好きにすればいい。私には関係ないことであり、でもネギにはサウザンドマスターなんて言うのと同じになって欲しくないと言う願いはまだある。
 ただ、このままいけばネギは間違えなくサウザンドマスターを目指し続ける。何があっても。それは確信できている。

 なら、ここで全ての道を断ち切ると言う行為もまた慈悲なのかもしれない。
 蜘蛛の糸にかかった蝶がいると考える。散々蝶は暴れたのか、その全身には糸が絡まりついている。
 でも生きている。でも蜘蛛ももはや数日何も食べていない。蜘蛛の糸にかかった蝶はこの上ない生きるための命綱なのだ。
 ソレを見た人間はどうするだろう。
 蝶を助ける事を慈悲とするだろうかな。
 蝶の羽は蜘蛛の糸でがんがら締め。糸を解こうとしても、粘着質の糸は蝶の輪分を全て剥ぎ取ってしまい、結局蝶は飛べないままで終わるでしょう。
 ならば蜘蛛に生きたままで食われるのを慈悲とするのかな。それが自然界の成り立ちだもの。
 食わずに乾きは癒せない。それとネギが何か関係が在るだろうと問われれば、十二分にある。

 ネギはさまざまな鎖に縛られている。
 サウザンドマスター。焼けた村。スタンさん。マギステル。教師。
 そんな色々な鎖と鏨。それに縛られて生きて居るのがネギ・スプリングフィールドと言う子供なの。
 その鎖の一つを手繰り寄せてネギは生きていくでしょう。でも、その鎖全てを叩き落す事もまた是じゃないかなと思っている。
 選べる鎖を全て断ち切り落とし、一介のオコジョとして生かすのも、また。

 それは私が独断で決めていいことじゃない。でも、今の私はそれをできる立場に立っている。
 だからといって職権乱用するわけじゃない。ただ、それもまた然りと思っただけ。そう言うこともまた、あっても良いと思った。そう言うことだけだ。
 さて、と両目を閉じてレッケルと通達開始。
 嶺峰さんに同伴させてあげたレッケルだけどうまくやっているかしら。
 まぁ、あの二人結構似たもの同士だし、私よりも仲良く出来るかもしれないわよね。

 と、頭の中にレッケルの声が響いているんだけど、何だかノイズが酷い。
 テレビの砂嵐を一晩中流し続けている感じ。
 感度的には結構近い。こっちに近づいている割には、どうにも接続が甘いのかもしれない。

「…レッケルー? なんだか通信が甘いんだけど、どかしたの?」
『―――アー――さん? みゅ―――もうす―着――ですです。――もでも――ょっと――お客―んが――』

 もう直ぐ着く、と言うのが辛うじて聞き及べた。
 それと確かにお客さんと言う言葉。お客さん。嶺峰さんが連れてきたのかなと考えるも、はてと小首を傾げてしまう。
 鶺鴒さんだったらレッケルも知っているからしっかり名前を言うだろうし、キノウエって人なら人で、そっちも名前は言う筈だ。
 でもお客さん。それは即ち、レッケルが知らないか、あるいは、あまりいい意味でのお客さんではないと言うことだろうかな。

 それに通達が直ぐ着くっていうのに甘すぎるのにも気がかかっちゃう。
 ここまでノイズが多いのは近場に強大な魔力を持つ魔法使いが居る時か。あるいは、強力なジャミング効果が発動しているか否かなのよね。
 はて、でもこの学園でそんなジャミング効果のある魔法が発動している人なんて居たかな。
 居たとしても先天性なら見つけることは出来ないし、後天性でも、そこまで強力なジャミング効果を持っているような人間なんて居なかった筈。
 ただ単に感知出来ないほど強力なジャミングなら仕方ないのだけれど。

 ドアの向こうから扉の開く音が聞こえた。
 同時に感じるのは、良く知った二人の気配と良く知らないような。でも、既知したかのような二つの生物の気配。
 強い気配だった。とても強力な気配。
 嶺峰さんの気配も相当強力なんだけど、入ってきたであろう二つの気配のうちその片方はとんでもなく強力。嶺峰さんのあの独特の気配にも負けていない。

 やや警戒しながらドアを開けて階段から下を見下ろす。
 私が居たのは嶺峰のお部屋の正面にある二階の空き部屋。ちょうど其処を出て右手に体を返せば、直ぐに階段があって。
 その階段は真っ直ぐに玄関へ伸びている。ちょうど、玄関から直結で二階へ上がれるような仕様になっているって処かしらね。
 その部屋から出て私は玄関を見下ろしている。
 そこから見える影は三つ。
 一つは勿論、あのロングスカート仕様の制服に身を包んだ嶺峰さん。
 その傍らには、何故か見知った同じ制服姿で、鈴の髪留めをつけている人。
 
 そして、最後の一人。

 ソレを見た瞬間、頭の中にノイズが走る。
 忘れていたと言うよりは忌忘のそれに近い、忌まわしさを忘れて、ソレの存在など当の昔に切り捨てていた筈だった。
 それぐらいあれとは関係しない方が良いと言う存在。
 全魔力系に魔力を浸透させる。ソレが気付いたのか、二階へと視線を上げる。
 二度目は無い。そう自覚していた。相手もそれを了承して分かれたのだもの。
 だがこうして二度目の再開があってしまった以上、最早私もアレも無視しあう事は出来ない。

 魔力系を脚へ巡らせる。
 脚力強化の簡易型。
 私は魔力による身体強化能力は殆ど習っていない。精々魔力を一点集中してもその場にかかる衝撃の緩和。そんな程度だ。
 でもこの場ではソレも充分。
 相手は魔力を封じられている、それも極限まで。
 ならば最早慈悲は無い。二度目は無いとお互いに語ったのだ。その二度目があった以上、是非を問うべくもないでしょう。

 一歩、踏み出す。踏み出して飛ぶ。階段の最上段から。玄関目指して。
 物音一つ立てず、玄関先に着地。
 周辺の確認。驚いた様相と言うよりは、何処か不思議そうに小首をかしげた嶺峰さん。
 突然目の前に現れた私に吃驚して目を丸くしている、何故、此処に居るのかは知らない神楽坂さん。
 そして正面。私が着地した事には微塵も驚愕の色も浮かべていない、金髪にして濃紺の目を持った吸血鬼。
 魔法界最大の罪人。バケモノでしかないソレ。ソレの顔面目掛けて、手の平を一気に翳す。

 ソレと同時に、私の顔の前にもソレの小さな手が開かれて向けられた。
 お互いに敵対の眼差し。今の私の顔はきっと鏡でも見れない。それぐらい歪んでいるでしょうね。
 でもそれでいい。心の間隙を突いて来るような相手にはお誂え向けの表情。
 それに相手も同じようなものだ。目を極限まで細めて私を見下すかのような眼差し。
 そして、お互いに相手の顔面を握りつぶすかのように鼻先数センチまで伸ばされたお互いの腕。

 魔法の射手の発射体勢。初歩の魔法とは言えど、相手は封印されてはいるものの強大な魔力の持ち主。
 方や私は魔法の射手ならその属性持ちが最強と言われている火属性の魔法の射手の使い手。
 ポイントブランクより打ち放たれるのであれば、一柱でもその破壊力はお互いの高い。
 たぶん相手の顔面を打ち抜く程度なら他愛も無いでしょう。
 残念なのは、私は一発しか受けられず、コレには一発程度じゃ効果なんて砂ほども無いということだ。

 だからお互い先手を担うように。けれど、私は後出を狙うように構えている。
 魔力の集結。それを確認したと同時に体を捻ってコレの魔法の射手の避ける。そうして反撃。そのプランを練る。
 もはや、周辺に気を割いているかのような余裕は無い。
 私とコレの緊張感はきっと伝わっているでしょう。
 だから誰も動かない。

 動けばソレが合図。お互いに魔法の射手をお互いの頭へ向けて解き放つ。
 お互いに一撃抹殺。他の意図は挟まない。確実に仕留められる距離で、お互いの顔を見つめあう。
 先ほどまでのジャミングの意味を理解した。
 コレは此処に縛られる為に強力な呪いで縛られている。それが私とレッケルの通達を邪魔していた理由だ。
 レッケルも可哀想に。何が楽しくてこんなのと一緒に帰ってきたなんて、悲しすぎて同情の余地も無い。
 それぐらいコイツは認めてはいけない対象だ。認めることはならない存在なのだから。

 以前ほどの威圧感は感じていなかった。
 それは、長く嶺峰さんと居て培われた威圧感に対する耐性なのか。それは解らない。解りたくもない。
 解らない方が良い。解りたくもないから言葉はかけていない。
 言葉を交えるような間柄じゃないのだもの。お互いに敵対同士。生涯いがみ合うように仕組まれた関係。

「エヴァちゃ―――」
「動くな神楽坂明日菜」
「アーニャ様」
「下がっていて、嶺峰さん」

 お互いに傍らに立っていた相手に声をかける。それが私とソレが始めて声を出した時だった。
 階段から跳んだ勢いでしゃがみこむ様な形になっていた体勢を整え、立ち上がる。
 身長はお互いに同じ目線。きっとお互いに衣装を変えればばっちり合うでしょう。
 尤も、着替えた後はお互いの衣装は火にくべるか、凍てつかされて粉々だろうけど。

 お互いの頭を握りつぶすように構えられた私の右手と、相手の右手。
 魔力に封じの有るコレの方が発動には一瞬の隙はある。
 その隙を突けるか、あるいは発動させた後で動いて一気に叩いて潰すか。
 どちらにしても上手くいくイメージは無い。
 幾ら魔力は封じられてはいるとはいえ、外は夕闇。コレの力は最大に近い状況なのだもの。油断なんて出来るわけが無い。

「アーニャ。アーニャ=トランシルヴァニア。まさか貴様が此処に居るとはな」
「Vielen Dank.覚えいただき光栄ですこと。Fraulein Macdovell」

 お互いの名前を告げる。にらみ合ったままで。
 互いに敵意は放出しあったままで動かない。
 動いた方がどうにかされるから動かない。
 かといって動かないままであれば、このまま進展も無い。

 私はそれでも構わなかった。
 コレは魔法界最大の汚点だ。一人での対決は避けること。それは魔法学校に所属中は腐るほどに聞かされていた。
 如何なるマギステル・マギであっても、コレ相手に単独で対決する事はあってはいけない。
 発見次第即刻報告。対策を検討すると言うのが、コレに対する魔法界の判断だった。

 それはそれでもいい。
 でも、今のコレは違う。私一人でもどうにかはなる。多分一撃で。
 私の魔法の射手とコレの魔法の射手。距離は最早関係ない。どちらが早く発動できるのか。
 そう考えれば、私の方が圧倒的に早い。
 コレは推測ではなく断定で言っている。
 魔力を封じられている以上、コレの魔法発動には媒体と数秒のロスが必要。
 変わって私はソレの真逆。無詠唱でも、最弱威力の魔弾の射手程度ならいける。それでも破壊力は勿論折り紙つきだもの。頭一個吹っ飛ばすには丁度いい。

 問題は、コレが頭を吹っ飛ばした程度で止まるのかと言う事だけど。
 それは大丈夫だと判断する。
 命令中枢を焼き尽くされては、如何に吸血鬼の真祖でも再生には暫くの時間を必要とすると聞いている。
 ならば命令中枢を吹き飛ばせば、僅かながらに動きは鈍らせられる。
 吸血鬼とはいえ生物の構造に変化は無い。狙うのであれば頭。それは常道なのだ。

 ただ気になるのが神楽坂さんと嶺峰さん。
 ちょっとむごいものを見せちゃうかもしれない。
 でもその私情を私は捨てる。私情どうこうの相手じゃない。油断は即死。静かな集中力だけを以って、対峙し続ける。

 どれだけそうしていたかしら。
 時間に換算すれば結構長い。
 10分ほど。にらみ合ったままで動かない私と、細めた眼差しで見つめ続けるソレ。
 ふっと、視界が広がる。目の前に翳されていた手がどけられた。
  けど私はまだ除けない。相手の考えが完全に読めたから除ける事にしている。
 いえ、あわよくばこのまま私はコレの頭を吹き飛ばしても構わない。相手の敵意は消えていないのだもの。

「埒が明かんぞ、アーニャ。このまま私とお前がにらみ合っていても進展は無かろうに。
 どうだ、今のこの場は一時休戦。私の言葉を聴いてみる気は無いのか」
「率直に言えば無いわね。個人の正直な意見を述べさせてもらうとアンタの頭をこのまま吹っ飛ばして終わりにしたいトコ。
 二人の記憶はうまーく操作しておけば問題ないでしょ?」

 非道とは思わない。私情は語らない。
 今まで目の前のコレがやってきた行為から比べれば、吸血鬼の頭を吹き飛ばす事に抵抗は感じていない。
 人間の形はしているけど、コレは人間とは違うもの。
 だから、やれる。マギステル・アーニャとして、私がやる。
 向けていて手の平に力を込めた。魔力系を通わせ、後は引き金を引くように―――

「アーニャ様……」

 背後からした小さな声に、私のうちの魔力系が急激に納まっていく。
 それは、嶺峰さんの前ではマギステルではなく、アーニャ=トランシルヴァニアで居ようとしていた事の反動だったのかもしれない。
 だから、力が抜けていった。
 嶺峰さんの前では、それをしてはいけない。嶺峰さんの前では、私はアーニャ=トランシルヴァニアでなければいけない。
 だから。その手を、静かに下げた。

 周辺から安堵の声がする。神楽坂さんのため息。嶺峰さんの小さな息。
 そして、何より。どの緊張感よりも重かった空気を真っ芯に浴びせられていた私自身の息を吐く声。
 目の前のソレを見据える。どこか余裕のある、あの表情。
 でも、どこか以前とは違った、妙に人間くさい顔立ちで私を見つめていた。

「―――お前たちの知っていることと私たちが知っていること。それの交換はどうだ。情報交換と言うわけだ」

 私の了承を得るでもなく、ソレはそんな事を告げてくる。
 嶺峰さんの方をちらと見ると、小さく悲しく微笑んでいる。
 悲しみは何に対しての悲しみだろう。私の。目の前のコレへの。それとも、別の何かの。
 それは解らなかった。解らなかったけど、嶺峰さんは嫌がってはいない。

 神楽坂さんを見る。目の前のコレと同じ表情。最後にあった時とは違った顔立ちで居る。
 何があったのか。今学園で何が起きて居るのかを知らないわけじゃない。それが嶺峰さんにレッケルを同伴させた理由でもある。
 一応精霊でもあるレッケルが一緒なら、そうそう嶺峰さんは襲われたってどうって事は無い。
 それに関係が在るのか。それとも、私たち自身に関係する事なのか。

 疑惑は尽きない。予断は許さないその状況。
 魔力系への魔力浸透は今だ撓めてはいない。その気になれば、今にでもさっきと同じ状況へ持っていける。
 ただ、それをすればきっと、また嶺峰さんは悲しんでしまうだろうから。

「……嶺峰さん。お話だけでも、いいかな」
「――ええ、勿論ですわ。お二人ともお上がり下さい。お茶をご用意いたしますわ」

 あの笑顔を向けられる。私に向けるときの、あの笑顔。それは嶺峰さんの心からの笑顔でしょう。
 神楽坂さんと、目の前に居たソレが私の脇を通って上がっていく。
 その折。僅かに傍らを通ったソレをもう一回目が合ったもんだから、思いっきり睨みつけてやる。
 睨み返されるのが常道だ。そう思っていた。思っていたのに。それは、静かに笑って悲しげに眉を潜ませたまま、嶺峰さんの導く先へと消えていった。

 まるで、人間みたいな感情を露にした顔にも、見えた。

第三十二話 / 第三十四話


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