第五十話〜帰還〜


 おかえり、絶望

 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 なんか、すごーく気持ちのええ感じやった。
 すごく優しい世界に包まれとって、すごく、優しい気持ちになれてるん。
 ホントに久々の気持ち。五年前、あの二人が行ってもーてから、暫く感じてなかった心持やった。
 せやから、夢。夢を、ウチは見とったん。懐かしい夢。
 暫く忘れていた、懐かしくて、悲しくて、背中の傷が疼くほどに寒かった、夢。

 眼を開くと、白い世界にいるん。
 殆どはだかーみたいな感じやったけど、なんか薄い布でも纏っているみたいに体はホントに軽い。
 その白い世界を進んでいく。足元は白い霧みたいので満ちていて、どんな風になっているのかは窺えへん。
 ただ、生暖かいみたいな感触が伝わってきてるから、温水でも満ちてるんかとも思う。
 その白い世界をドンドン先へ向かってってる。誰かが、ウチより前を歩いとるから。
 一人ぼっちは寂しいんし、それに、なんか心細かったん。だから、誰でもいいから、一緒に居て欲しかった。
 ……明日菜が一緒なら、ウチを守ってくれるんよね。
 せっちゃんと一緒でも、そう。ウチは、二人や皆に守られとったんよね。

 でも、もういいんよ。ウチ一人でも頑張れる。
 ウチ、守られるだけじゃなくなったん。強くもなって、みんなの足手まといにならないようになったんえ。
 これで、ウチ、皆と並んで歩けんな。ウチも、皆と一緒やよな。
 明日菜は、皆を守ってくれる子やった。
 昔っからそう。初等部の頃から、明日菜は皆を守ってくれる子で、ウチらは皆で明日菜を応援したり、加勢したりしとったっけ。
 だから、意識が回復して明日菜が何処へ行ってもうたんか聞いた時、何となく解ったん。
 明日菜は、自分の為にいったんやないって。一度だって明日菜は自分の益になるような事はせーへんで、何時だって自分一人で頑張ってっとった。

 それは、全部みんなの為。自分以外の皆の為に、明日菜は、ずっとずっと頑張るって言う、そんな皆が大好きなステキな女の子やったん。
 長瀬さんに聞いて、明日菜が『そう』なってしまった事を聞いても、ウチは格段驚かへんかった。
 ああ、それも明日菜の一つ。神楽坂明日菜って言う、とってもステキな女の子一つやって、ずっとずっと知ってたから。
 …………だから知ってたん。明日菜はそう言う子やから、何時か、そうやって居なくなってしまうんって事。
 明日菜、一人ぼっちで寂しそうな子や、悩み一人で抱えている人とかほおっておかへんタイプやもん。
 ひっぱたいて、無理矢理にでも立たせて、そうして一緒に頑張る子。ウチの、憧れみたいな、太陽みたいな子やった。
 機能得センセが『そう』なってしまったって言うのを明日菜は知って、きっと機能得センセがどんな気持ちだったんか、明日菜も知ってもうたんやと思う。そう言う子やもんね。

 だから、行ってもうたんよね、明日菜。明日菜はええ子やもん。
 自分の傷なんて気にもせーへんクセに、誰かの傷口が開きっぱなしいうんは耐え切れない。
 それが、ウチらの知ってる、神楽坂明日菜って言う子やもん。
 でも、でもな。明日菜。ウチらの傷は、まだ開いたまんまなんで。
 機能得センセも傷ついていたかもしれへんけど、ウチらも傷だらけなん。
 だから、帰ってきて欲しかったわけやあらへん。全部、全部明日菜に押し付けようなんて思ってへん。
 ただ、もう一度だけ励まして欲しかったん。あの厳しい面持ちで、もう一回だけでよかった。もう一回だけ、ウチらの事、叱って欲しかったん。
 なぁ明日菜。ウチらを、また、叱ってな―――

 


「こ、近衛木乃香!! 大丈夫か!?」

 眼を開く。明るくは無いけど、けど暗くも無い場所やった。
 背中には柔らかい感触で、そこがベッドの上だと解るまではちょっと時間がかかってもーた。
 身を起こして周辺を見渡す。エヴァちゃんのお家の二階みたいで、暖かい空気が対流してるのが感じられる。
 そうして、ウチの傍らにはちょっと涙目のエヴァちゃんと、深いローブ姿の人。あと、それに。

「…………夕映?」

 大図書館で出会った時の姿のままの夕映がそこに立っていた。
 ウチが眼を覚まして、夕映の方を見たと同時にその顔はちょっとだけ綻んで、でも、傍らに居たエヴァちゃんを見て、一回、わざとらしい溜息をついた。

「大怪我と聞いて駆けつけましたが、まったく、エヴァンジェリンさん、誤報にも程があるですよ?
 お腹の皮をちょっと切った程度で出血も包丁で指先を切った程度です。もっとよく確認して欲しいものです」

 押し黙ってまうエヴァちゃんはなんだか可愛い。五年前なら直にでも言い返していたんけど、こう言うところはすごく丸くなった思う。

「ともあれ無事で良かったです。アルビレオさんのお力添えもあって傷は完全に消えているですよ」

 夕映の傍らに居る深いローブの人が一礼をする。それに対応して、ウチも一礼。
 そっか、この人、アルビレオさんやったんやね。五年前にネギ君のおとーさんの情報を色々くれた人。なんや不思議な性格の人やったけど、今はなんか全然しゃベらへんな。
 お腹の調子を確認しようとして、服をめくってみる。痛みのあった場所に傷痕なんてみあたらへんで、本当に綺麗さっぱり治してもらったらしい。

「ゴメンな。迷惑かけてもうて」
「気にする必要は無いです木乃香さん。エヴァンジェリンさんがあわてんぼうさんなだけですよ」

 もう一度じろりと睨まれたエヴァちゃんはなんやごにょごにょしとる。すっかり夕映とエヴァちゃんの立場は逆転したみたいやな。

「それでは私たちはコレで……木乃香さん、お大事にしてくださいです」

 一礼して去ってく夕映とアルビレオさんをベッドの上から見送っていく。
 帰りの際、僅かに見せた夕映の表情が気になったけど。うん、大丈夫やよ、夕映。きっと、平気。
 夕映は、エヴァちゃんから明日菜が帰って来たことを聞かされたんと思う。
 だから、重傷でもないウチにお大事になんて言ってくれたん。
 ありがとな、夕映。でも大丈夫やよ。ウチ、こう見えても結構腹は括ってるん。
 ベッドの上から立ち上がろうとして、ちょっと身体がよろけてしもうた。
 あれやな。行き成りあんな動きしたもんやから身体が付いてきてくれへんかったんよね。ダメダメやなぁ、ウチ。もっともっと、体を鍛えな。

「ホラ、しっかりしろ」

 エヴァちゃんが肩を貸してくれたけど、身長差の在り過ぎが目立ちすぎて全然意味があらへん。
 まぁ、でも頑張ってくれるから手を引いてもらうぐらいはええかもしれへんな。
 小さな手から伝わってくる温かさ。生きているっていう証が、骨の髄まで染みてくる。
 それが無性に嬉しいのと同時に、無性に悲しくて、でも、やっぱり嬉しい調子が篭ってくる。
 明日菜が、帰って来てくれた。望んだ形じゃなかったかもしれへん。
 ウチらを叱ってくれる、あの、神楽坂明日菜って言う子やないかもせーへん。

 でもええんよ。ウチは嬉しい。エヴァちゃんも、きっと嬉しいと思う。
 だから、さっき夕映に何を言われたって何も言わへんかったし、ウチが傷つけられた言うのでも必至になってくれたんね。
 明日菜に傷つけられた思ったから、必至になってくれた。そう思うんよ。
 そうして、嬉しい事がもう一つある。でも、ホントに喜んでいいのか、正直微妙やった。

 階段を降りて、エヴァちゃんのお家の一階へ。そこに、女の人が一人立ってる。
 ウチが良く知っている人。エヴァちゃんも、良く知っている人。皆、良く知ってる女の人やった。
 ウチよりちょっと一回り小さな体の女の人。それはウチが大きくなりすぎたから仕方ない事なんけど、でも、その身から溢れ出している“気”の大きさは、ウチなんかとは比べ物にならへん。
 ウチは元々魔力の方が強いから、“気”の修行とかは施されてへん。だから、その人とウチとでは戦い方は全然違うんえ。
 五年前。その女の人は髪の毛をサイドテールにまとめてた。でも、五年で髪の毛も伸びたんか、女の人の髪型はツインテール。
 それなりの格好ならお似合いなんやろけど、野武士みたいな出で立ちやからあんまり似合ってへん。

 黒い巫女服言うのかな。全体的に暗めの服装に身を包んだ、その女の人。
 すごい長い刀を、日本携えているのは、桜咲刹那。
 ウチの幼馴染の、ずっと、ずっと仲良うしていて、五年前に仲直りできたんに、また仲たがいしてもーたウチの―――
 同じ階層に立って、お互いに顔を見つめる。
 ウチは、正直複雑な心境やった。せっちゃんは、どうなんやろか。同じ心境なんかな。

 そうであって欲しい思うウチもいるし、そうは思ってないウチも居る。
 思っているウチは、五年前のウチやね。せっちゃんと仲良い中学生やっていれた、あの頃のウチ。
 子供で、まだ先の事なんて全然考えてへんかった頃のウチや。そのウチは、せっちゃんも、ウチと同じように思っていて欲しい思ってる。
 そうは思ってないウチ。それは、大人のウチや。あの頃とはもう違う。
 せっちゃんもウチも大きくなって、色んな事を考えられるようになって、色んな事を知った。
 だから、あの頃とは違う。せっちゃんの心と、ウチの心は違うもの。そう考えて、淡い期待を持たない様にしているウチもいる。
 見合うウチとせっちゃん。せっちゃんは寄りかかっていた壁から離れて、ウチへ一礼する。
 その態度は余所余所しくて、五年前。中等部へ上がりたての頃に出会ったせっちゃんみたいで―――

「それで、何をしに来た。桜咲刹那」

 声をかけようとしたところで、その役目をエヴァちゃんに取られてもうた。
 でも、それはウチも気になっていた事。せっちゃんは五年前に京都の神鳴流付属の女子校へ転校してもうた。ウチの意識が戻るよりも前に。
 それを、それを恨んだりはせーへん。でも一つ納得いかないのが、どうして、誰にも相談することなく行ってもうたんか。
 解ってる。せっちゃんの気持ち、解ってるつもりや。それが、正しいのかどうかは何れ必ず聞くけれど。せやから、今は。

「…………先日、関西呪術協会が大規模な狗族・烏族の襲撃を受けた際、鋼化生命体二種が襲撃していたそれらの一群を駆逐しました。
 しかし、知っての通り鋼化生命体は人間の味方と言う訳でもありません。
 関西呪術協会総本山の長はその時一団を駆逐した鋼性種を視認。万が一の可能性を考慮し、私を此処、麻帆良学園都市へと送ったのが次第です。
 …………それと、これはまだ極秘のことだったのですが。エヴァンジェリンさんとお嬢様には告げておこうと思います。
 知っての通り、鋼化生命体第二種は神楽坂明日菜さんが鋼性種の遺伝子情報を肉体へ注入した結果誕生した新世代です。
 本来鋼化した生命体は鋼化前の生命体の影響を強く受けると言いますが、明日菜さんは今だ外見上で『神楽坂明日菜さん』と言う頃の肉体形状を保っています。
 そこで、肉体情報から記憶情報を追訊。それによって明日菜さんを、元の状態へ戻せる可能性があるのではないのかと言う事試みが試されようとしているとの事です」

 眼が、丸なった。今のせっちゃんの言葉。それが、一瞬理解できへんかったから。
 元に戻せる。せっちゃんはそう言った。明日菜を、元に戻すことが出来る。確かに、今せっちゃんは、そう言って―――

「だが鋼性種は魔力系は無効化する。しかも神楽坂明日菜はマジックキャンセルの能力持ちだ。
 生半可な魔法使いや呪術使い程度では元に戻すどころか動きを止めることも出来んぞ。
 いや、ソレより先に鋼化した神楽坂明日菜に近づくことすらも出来ないだろう。その点はどうするつもりだ」
「………………此処の学園におらっしゃられる魔法使いの方で強大な魔力を持っている方は、アルビレオさん、タカミチ先生、学園長他にも多彩な魔力を持った方がおらっしゃられますし、それにエヴァンジェリンさんの知恵もあります。加えて、海外を廻っているマギステル・マギから一名が派遣されます」

 その言葉に、一瞬ウチの中の何かが反応した。とくんとくんって鳴っとった胸の高鳴りが大きくなって、なんか、変な汗が出てくる。
 マギステル・マギ。偉大な魔法使い言う、五年前まではなってもいいかも思っていた職業。
 あの、ネギ君が目指していた、お父さんのお仕事のソレ。
 そこから来る一人。それが誰かと考えて、一番初めに頭に浮んだんは―――

「いらっしゃられる魔法使いの方は、ネギ・スプリングフィールド。…………ネギ先生です」

 その人、やった。


 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――図書館島


「ネギ先生が、帰ってくるのですか?」

 その話を聞いた時の私の寸感は、まぁなんとも言いがたいものです。
 やっと帰ってくるのですかと言うのもありましたし、今更帰ってきたのですかと言うのもありましたし、何より、のどかが喜びますねと言う寸感の方が大きかったでしょうか。
 木乃香さんは窓から空を見上げるばかりです。
 そして、やや離れた暗がりには、氷の様な不変の表情を浮かべた、暗顔の桜咲刹那さん。
 どういう訳か声をかけましても、頷き程度でしか返答してはくれないのですが。

 私の体はすっかり弱くなってしまいまして、この時期や夏の日差しは大敵となってしまったです。
 尤も、それも自業自得。此処、エンブリオ大図書館の館長になって以上、この覚悟は決めなくてはいけませんでしたから。
 ステンドグラス状の窓。其処からならば、日の光も弱いでしょうから外を見上げてみます。
 ステンドグラス越しの世界など、極彩色過ぎで元が何でるのかなど判断も出来ません。

 ですが、こうでもしなければ同じ世界は見上げられませんから。
 木乃香さんは窓に腰掛けたまま動きません。
 憂いに満ちた表情が何を意味するのか。大人の私は解っているつもりですけれど、実際、本当にそうであるのかは曖昧です。
 ただ、一つ解っている事があるです。
 それは帰って来たという事。五年越しの帰還。あの五年前が追いかけてきたかの様だと言う事。

「……良かったですね。のどかも、喜ぶでしょう」

 本当にそうかは木乃香さん次第でしょうけれど。
 尤も、今の木乃香さんを見る限りでは心の其処から良かったなどとは思えません。
 その理由は、恐らく、先に木乃香さんが言った、刹那さんとの事柄でしょうが。
 ……五年前、刹那さんは私たちと袂を別ち、一人京都は神鳴流なる対魔集団の設立した女子校へ転校したです。
 誰かが転校し居なくなるなどと言うのは当時の中学校生活では然程珍しい事ではないでしょう。ですから、誰もが残念だ程度で済ますはずでした。通常ならば。

 転校した時期は、かの麻帆良学園都市大破壊の直後。
 それが妙な波紋となってしまったのです。元々木乃香さんと仲の良かった刹那さん。
 何処へ行くでも一緒が多く、私たちクラスメイトの一動も一部生暖かい眼差しで見ていたでしょうか。
 その人の転校。それも、一番仲の良かった木乃香さんの意識が回復するより先の。
 その事に、私たちが過敏に反応してしまったのがいけなかったでしょうか。

 彼女達の関係を詳しく知るでもないのに祭り上げてしまった事。その直後に起きた、Aクラス限定でのクラス解体。
 謝る事も。真相すらも曖昧となり、今日まできてしまったです。
 木乃香さんと刹那さん。お二人の関係をもうとやかく言うのは辞めにしましょう。
 お二人の関係は、お二人自身が解決しなければ成らない問題です。
 ですから、哲学的な考え方など無粋。人の心情ほど、手に取れないものは無いのですから。

「…………なぁ、夕映。ネギ君帰ってきたら、夕映はなんて言うん?」

 それは、私自身が自身に問いたかった問題かもしれません。
 ネギ先生の帰還。五年前ならずとも、四年前、三年前ならば心昂ぶる事もあったでしょうが、今は、もう。
 私も、のどかも、そして木乃香さんに、きっと刹那さんも。皆大人となり、それなりの心持で生きているのです。
 素直に言うのであれば。何を今更と言うのが一番でしょう。既に恋に恋し、愛し愛されるような世代を終えた私達。
 ましてや今のような世界現状。
 明日、かの『未来完了』が動けば人間など瞬時に薙ぎ払われるような世界。もっと早かったのならば、多分、もっと違う寸感は懐けたでしょうに。

 影に立ち、木乃香さんを見ます。
 憂いの宿ったそのお姿は、五年前とは比べ物にならない美しさ。
 長身に黒髪が良く栄えますです。片や私は日陰の女。知識だけを貪る様にし、数年前から此処に住み始め、今では此処の館長です。
 比べることもおこがましいでしょうが、女としてみれば木乃香さんは紛れも無く美人に該当する方でしょう。五年前からも知っていましたが、彼女と私とでは女として大きく異なった魅力の差があるです。
 それが何の意味が在るのか。意味などありません。ただ、現在十五歳でしょうか。
 そうなったネギ先生がどう動くのかと言うのが気になるだけです。

 私を見て欲しいなどとは、塵芥も思っていないと言うのがなんとも悲しいですが、仕方のないことでしょう。
 私は知識の女。人間を愛するよりも、知識を愛する方へ傾いてしまったのですから。
 だから、私が懸念することは唯一つ。
 木乃香さんとのどか。ネギ先生と極めて仲の良かったお二人が、十五歳程度になったネギ先生をどう思うかで―――

「ゆーえ? 聞いてるん?」
「え? あ……いえ、申し訳ないです。ネギ先生が帰ってきたら、でしたね。
 …………正直、難しいです。いえ、答えは出ています。今ネギ先生と出会っても、最早私の心は揺れ動きはしないでしょう。
 仕事も出来て、今を生きている私にとって、十五歳程度の子供に揺れ動くようではないですよ。木乃香さん。
 ただ……そうですね。あえてあるというのなら、のどかの事でしょうか。
 何故五年前、ネギ先生はのどかを選んでくれなかったのか。それだけが、納得のいかない事です」

 そうでしょう。のどかは、あれほどネギ先生に自らの全てを打ち明けていったのです。
 ですがあの日、ネギ先生がウェールズへ帰る日。あの人は、何も告げずに言ってしまったです。
 勿論、先生としてはちゃんと告げる事を告げて。けれども、恋には何一つ告げず。あの人は、言ってしまったです。
 別に、私にもチャンスが出来たとは思いません。その当時は思っていたですが、よくよく考えたら愚かなことです。
 何時帰ってくるかの約束もしなかった人間に、よくもまぁまともな恋愛関係を懐けるなどと思ったものです。

 魔法を学んだのも初めはそうでした。好きになった人がそうであったからこそ、私も魔法使いになったのです。
 でも、今は違うのでしょう。私は、日陰。のどかは日向を歩ける人。
 私とのどかの致命的な差。人並みの恋愛感情を懐き続けたのどかと。知識に触れれば触れるほどに賎しくなっていく私。
 これは、きっと罰なのでしょう。親友の好きになった人を好きになってしまったという罰。
 だからこそ、今は何も懐けないのです。恋愛に心躍らせることも。誰かと誰かの関係に口を出すことも。
 ああ、まるであの人。あの、無愛想な、何事にも興味を示さなかった人のようです。今でも尊敬できる、あの私のクラスの生物教員。

「ゆえー……ゆえー……何処に居るのー??」

 深遠から響く声。今正に話題の中心人物となっている一人の声が聞こえるです。
 バルコニーから顔を覗かせても、何も見えません。
 無理も無いでしょう。既に此処は昔の図書館島と呼ばれていた規模程度の図書館ではなく、未だに整理中、恐らく、七代かけても整理は終わらないと言われているが故に『エンブリオ』と呼ばれている大図書館なのですから。
 反響(こだま)の声が響く洞。底へ向けて覗き込み、私が振り絞れる最大限の声を出すです。

「のどかー。上に向かうですー。それとも魔法で向かいに行くですかー」
「…………バルコニーに居るのー? ううん、今行くから、待っててー……」

 帰る言葉は穏やかなまま。はたしてネギ先生が帰ってくると知ったら、どんな顔をするですかね。
 楽しみでもあり、複雑でもあり。なんともいえない気分でしょうか。
 そう、ネギ先生が帰ってくるなど、夢にも思っていなかったのですから。
 そうして振り返れば、悲哀に暮れた木乃香さんのお姿。
 とても、ネギ先生が帰ってくる事を喜んでいるとは思えません。そして、また、あの刹那さんとは出会えたとも―――

 桜咲刹那さんと近衛木乃香さん、そして、神楽坂明日菜さんのお三方は五年前の私たちには眩しいほどに映った方々です。
 彼女達の周囲は何時も笑顔が絶えないで、だからこそ、3-Aと言うクラスは輝いていたのでしょう。
 それが崩れた日。神楽坂明日菜さんは、後のアルビレオさんのお話でお聞きしましたが、鋼性種へ転醒。
 桜咲刹那さんは、京都の女子校へ転校。あのクラスは一変し、加えて、クラス解体と言う事態も相まって、私達は離れていきましたです。
 そうして重ねに重ねた年月。居なくなった人達は唐突で突然であり、けれど、私達にとってはあまりに長く、早々易々と受け入れるには至れない、今。

「木乃香さんは、ネギ先生にお会いしたら、何と?」

 答えなど知っているも同然でしょう。恐らくは、私と木乃香さんの心情は同じ。
 あまりにも複雑で、あまりにも早急で、しかし、あまりにも難解な、自らでも解けない様な。そんな、思い。
 だから木乃香さんの表情は晴れないまま。だから、私の顔も曇ったままなのでしょう。
 お互いに導き出せない答え。それを、今の今まで、胸に思い続けていたのですから。

「さぁなぁ。うん、何言ったらええんか、わからへんわ。五年間ほったらかしみたいなもんやったしなぁ、せっちゃんも、ネギ君も、それに、帰ってきた明日菜も。
 いきなりすぎて、喜んだらええんか、怒ったらええんか、悲しんだらええんか、解らへんわ。けど、ウチはネギ君を―――」

 窓から空を見上げる木乃香さん。傍らの刹那さんには微塵も視線は向けず、方指で髪を梳くその姿。
 あの時からのクセになってしまったのでしょう。不均等に断ち切られた、斜めの黒髪。それを梳く姿は、大抵、気分が滅入っている時なのですが。

「ゆ、ゆえー…………あ、あれ……?? さ、桜咲さんー…………??」
「のどか。もう上がってきたですか。相変わらず体力だけは付いているようですね」

 息を少々荒げてバルコニーに上って来た、小脇に数冊の本を抱えたのどか。
 刹那さんを見て、慌てて頭を下げるも、刹那さんは相変わらず一礼のみの返答です。
 戸惑い気味ののどかから持ってきてもらった本を受け取り、今一度大図書館の中を顧みます。
 果ての果てまで。あるいは、底の底まで本で埋め尽くされたこの世界。
 此処が、私の今の領域。此処が、あの日からの私の世界。
 だからでしょう。私の感情など、保存された本も同じ事。私の興味、関心などは虫食いの紙の如く。

 だからホラ。こうしてネギ先生が、初恋の人が、帰ってくるなどと聞いても何も思わない。何一つ、思えない。
 それは何故なのでしょうと感がえる余地すらもなし。考えて得られる答えなど、私は持ち合わせては居ないのですから。
 バルコニーには四人。
 木乃香さんに付かず離れずの距離の暗がりに立つだけの刹那さん。
 黒髪で窓際に座る木乃香さん。
 本に視線を向けて、手すりに寄りかかっている私。
 そして、そんな私達の雰囲気を読み取ったのでしょう。相変わらずおどおどとした態度で、私たちを長い長い髪の下から窺っている、のどか。
 さて、そろそろ頃合でしょうね。

「のどか。大事な話があるです。取り乱さずによく聴くですよ。単刀直入に言います。ネギ先生が、帰ってくるです」

 言い淀みなどありません。今の私は冷静でなければならないのです。そも、言い淀む必要など何処にあるでしょうか。
 私は、既にネギ先生への感慨など何も無いのです。私は此処の館長。もう、大人なのです。
 今更、恋に恋した時。愛し、愛されたいなどと願う必要は、ないでしょう。
 のどかは数歩後ずさりして、バルコニー中央に植木を囲んで設置されているベンチへ座り込みます。まぁ、予想していた行動と同じでしょう。
 表情は、窺い知る事は出来ません。髪の長いのどか。
 五年前以上に長く、そして世間との隔絶を願うかのように髪を伸ばした彼女。そうして私と共に此処へ。この図書館に勤め始めた、彼女。
 愛らしい顔立ちも、今は髪の底。あの日から再び顔を隠し出した彼女は、もう一度でも、その顔を世界に向けることは、出来るのでしょうか。

「………………そっかー…………ネギせんせー…………帰ってくるんですねー…………」

 色の無い声。複雑さは、きっと、私たち以上でしょう。
 ネギ先生がウェールズへお帰りになる日の事。最後の最後までネギ先生に縋りついたのが誰であるのか等、今更思い出さなくても良いでしょうに。どうしても、あの日の事を思い出してしまうです。
 泣きながらネギ先生に縋りつくのどか。
 それを、バツが悪そうに顔を俯けたままで対応しているネギ先生。
 そして、見る事しか出来ない私と。必至に二人の間に入って仲を保とうとするハルナ
 良くない思い出。いいえ、有る意味では、輝いていたときの最後の一瞬はあんな風にあっけないものなのかもしれません。
 蝋燭の炎の尽き際。それは、あんな風に儚くとも、良いのかもしれません。
 電車の発車時刻が来て、走り去っていくネギ先生。
 のどかが追って、引きとめようとして転んでも、貴方はのどかに手を伸ばしはしませんでした。

 それを、責める気はありません。
 知っていた筈。私達は、散々知っていたのですから。ネギ先生とは一年だけのお付き合い。
 ネギ・スプリングフィールドと言う少年とは、僅かの一時を過ごすだけだと言う事を。
 だから、転んだのどかが泥まみれで私の胸のうちで泣こうとも。
 ハルナが、呆然と貴方が走り去っていく姿を見送り、行ってしまった後に舌打したとしても、私は貴方を恨みはしませんでした。
 去り際のネギ先生。貴方は、泣いていましたから。
 今まで見たことも無いような泣き顔。あの、何時か見た過去の時でさえも見せようとはしなかった、切ないまでの泣き顔。
 それを見て私は悟ってしまったのです。貴方は、私たちを捨てていくのではないと。
 貴方は、一人でいくだけの事だったのだと。それが、ネギ・スプリングフィールドと言う少年の選んだたった一つきりの、道だったのだと―――

 あの五年前。貴方が変わったのは、あの日。
 あの、全てを焼き尽くす炎が麻帆良を嘗め尽くし、全てが灰になるまで、けれど、何一つ灰にはならず、人の全てが薙ぎ払われた日。貴方が変わったのは、あの日から。
 変わったなどと言う言い方は語弊があるでしょう。
 ですから、貴方は努めて皆さんには普段どおりに振舞っていたですね。皆さん、それがやせ我慢だと気づいていたと言うのに。
 何が貴方を変えてしまったのか。それは、最後の最後まで判りませんでした。
 ですが、何か一つだけ欠けたからそうなったのだと言う事は解ります。
 何か一つ。私たちでは窺い知る事の出来ない、僅かな一欠片。
 それが賭けて、貴方はそうなったのでしょう。それぐらい、私達にだって解ります。

 あの時に、あの時期にあって、ソレまでの時に無かったもの。
 それが、貴方の目の前で欠けた。だから、貴方もまた一欠片が欠けた。きっと、そう言うことなのでしょう。
 そうして選んだ貴方の道。そうして進み出した私達の道。それが、敷き詰められた鋳薔薇の道であったのか。
 それとも、貴方の敷いてくださった安堵の道であったのか。それとも―――機能得先生のおっしゃられた、小石の様に転がっていくだけの坂道だったのでしょうか。
 私達がそれぞれに選んだ道。選びたかった道を選べなかった人もいれば、選びたくて選んだわけではない道を選んだ人もいます。
 選んで、それを是としている人もいるでしょう。けれど、皆さん、今の道を精一杯進んでいますです。

 ネギ先生。貴方の選んだ道は、貴方の選んだ答えは、はたしてどのようなものだったのでしょうか。
 私たちが選んだ道と同じように、健やかなものではなかったでしょうか。険しすぎる、鋳薔薇の野道だったでしょうか。
 けれど、如何なる答えを、如何なる道を歩んで貴方が此処に帰ってこようと、貴方が見ていた頃の私たちはもう居ないでしょう。
 私達の進んだ道。その道は、既に、貴方とは違えているのですから。

「…………のどか、大丈夫なん?」
「あ……は、はいー…………ちょっと…………びっくりしちゃったですー…………」

 俯き加減でベンチに座り込んだままののどか。
 その表情は暗く、重く、笑顔で輝いていた時などは感じさせもしない、あの、消極的で、男性恐怖症で、それでも、私達三人だけであった頃の、あの、宮崎のどかと言う少女そのもの。
 ビックリした、程度では本当はないでしょう。本当ならば、もっと驚くかとも思ってましたし、聞いた瞬間にはしって逃げるかとも思っていたぐらいです。
 それを成さなかっただけ良しとしますか、それとも、その程度までの存在になってしまったというのか。それは、彼女だけが知りえることでしょう。
 ネギ先生が帰ってくる。私が俯き見つめる先には一冊の本。
 あの頃、私が読み漁っていた、今では時折眺めては、書かれた呪文を復唱する程度でしかない、あの初歩中の初歩の魔道書。有る意味で、私の一欠片とでも言うでしょうか。

「…………ネギ先生は、明日菜さんを元に戻しにいらっしゃられるそうで」

 コクリと頷く木乃香さん。
 知っています。五年で、一番傷ついたのが誰で在るのか。
 あの日より、あの時より、肉体的にも精神的にも一番傷ついて居るのは彼女。
 近衛木乃香さん以外、誰が彼女以上に傷ついているというのでしょうか。
 背中に手を廻して、僅かに顔を顰める木乃香さん。あの、背中の傷が疼くのでしょうか。
 無理もありません。数ミリずれていれば、脊髄損傷まで到達する重傷。一歩間違えば、一生再起不能になっていた、あの傷。

 お風呂に入った時。三年前ほどだったでしょうか。
 あの、背中の傷を直視して、私は、思わず、吐き気を催してしまったです。
 勿論、その後木乃香さんには何度も何度も頭を下げましたが、彼女は笑ってそれを赦してくれましたっけ。
 ただし、その笑顔から、安堵が得られた事はありませんでしたが。

 けれど、もっと痛かった傷口がある筈です。背中の傷口ではなく、心の。
 深い深い悔憶の底に沈澱した、膿を孕んだ、深い傷。
 一人と言う孤独。彼女は一人になって、一人で笑顔を振りまいて、私達も応じるように笑顔になって、けど空回りな笑顔など続きはしないで。そうして終わって、此処まで来たのです。
 太陽の様な笑顔の彼女。冷徹に思っていた人の、幸せそうな顔。そんな二人分の幸せを、皆さんに振り配っていてくれた人の、笑顔。
 それが二度と見れなくなって、早五年。
 彼女達の笑顔がどんなモノであったのかなど、既に記憶は霞、思い出せなくなってしまっているです。
 それは、それだけ彼女の笑顔が美しくて、彼女に少しでも肖れればいい。そんな事を、思っていたからでしょうか。

 鋼化した明日菜さん。再び冷徹になって戻った刹那さん。
 そして、ネギ先生。どう変わったのか、どの様に変わったのか、まるで定かではない、あの人。
 こうして集う、五年前のあの頃。けれど、二度とは戻ってこない、あの頃。
 そう。帰ってなどきません。あの頃は過ぎ去り、今が来たのです。
 今を生きている私たちに、五年前がどれ程の意味があるでしょうか。
 鋼性種と言う種が、翠が支配し始めたこの惑星。新しい物語の始まりではなく、人の物語の終結は間近。
 五年前の魔法先生。ネギと言う人と歩んだ時の物語など、既に終わり。
 今の私たちは、魔法すらでもどうしようもない、あまりにも現実的ではなくも、現実的な未来を生きているです。

「戻るでしょうか? あの、私達を照らしてくれた彼女の笑顔を、私達は、また、見れるでしょうか?」

 沈黙。とても、とても深い沈黙。彼女がああ成ってしまった事を知るのは、当時魔法関係にあった人物のみ。
 つまり、私ものどかも、明日菜さんが何故ああなってしまったのか。鋼化と言う現象を以って、鋼化生命体へ転醒した事は知っています。
 それでも沈黙。もう一度、見たいとは思っているです。
 もう一度、あの頃のように笑いあえたら。そう、切実に願います。だけれど―――
 不思議と、それは、叶わない気がするのです。

「もう戻らないと言うのに、何故追ってきたのでしょう? もう帰ってこないと言うのに、何故、今になって」

 五年前の思い出が、帰ってきたというのでしょう。
 答えは無いです。
 答えは、或いは、神楽坂明日菜さんと言う方が元に戻った時にこそ、出るのかもしれません―――

第四十九話 / 第五十一話


【書架へ戻る】