ネギ補佐生徒 第28話





 現在の時刻、3時半。
 これは澤村自身が決めた起床時間だ。
 澤村はぼさりとした頭を掻きながらも、ベッドから上半身を起こした。昨夜寝るのが遅かったせいか、酷く頭が重く非常に眠い。
 重い瞼を開けつつも澤村は洗面台へ足を運ぶと、慣れた手付きで歯ブラシに歯磨き粉を乗せて歯磨きをし始める。
 口に広がるミントの香りが澤村の眠気を拡散させていく。
 歯磨きをしながらも器用に寝癖を水とワックスで直すと、澤村は口の中にあった歯磨き粉を吐き出した。
 ついでに顔を洗う。
 ふ、と息を吐く。
 眠気は完璧に、とまではいかないが緩和されていた。
 鏡に映る自分は、相変わらず鋭い目を向けている。
 いつもの自分の顔だ。
 そう確認すると澤村は寝巻きを脱ぎ捨て、ジャージへと手を伸ばす。

「――――っ」

 が、ジャージのチャックが掌に触れたと同時に痛みが走った。
 一旦ジャージを手に取ることを止める。
 顰めた顔で掌を見つめれば、赤いマメの出来た掌があった。どうやらチャックがそのマメに触れてしまったが故に痛みが走ったらしい。
 長時間慣れないものを振っていたせいか、掌が悲鳴をあげていた。
 振っている時や本を読んでいる時は集中していたため、痛みに気が付かなかったらしい。

「まだ1日しかやってないってのに……」

 情けない、と独り言を漏らす。
 溜息を漏らしつつも澤村はジャージを手に取り、着替え始める。
 4時には寮を出て筋トレとジョギングの後は、5時に刹那と待ち合わせだ。
 朝はまだ長い。





  ネギ補佐生徒 第28話 外傷は心と体に





「やきもち、ねぇ」

 いつものように賑わう朝の教室。
 そんな中、自分の席に座っていたエヴァンジェリンの代わりに茶々丸が答えた言葉を澤村はにやにやと笑いながら復唱した。

「違うと言っているだろーがっ!」

  ―――――ゴスッ!

 嫌な音と共に澤村の鳩尾にめり込むエヴァンジェリンの拳。
 澤村は身体をくの字に折り曲げ、苦痛に顔を歪ませた。
 その横でフンと鼻を鳴らすエヴァンジェリンの姿。
 何度受けても慣れない痛みを感じつつも澤村は、今朝の出来事を思い出す。
  ネギの師匠である古菲と、澤村の師匠である刹那、同じ弟子である明日菜と世界樹へと向かう道で偶然居合わせ古菲の話を聞き、ネギと世界樹で一緒に鍛錬する ことに少しばかり気を落としながらも世界樹に向かったのだが、澤村達の目に飛び込んできたのは目を回して気絶しているネギとまき絵の姿。
 これには四人共驚きの声を上げた。
 明日菜と古菲がネギへと駆け寄る中、刹那と澤村は顔を真っ青にして立ち尽くすまき絵に事の経緯を聞き出せば、エヴァジェリンがネギの弟子入りに難色を示したというのだ。
 だが、まき絵の介入により話は一変。
 エヴァンジェリンの怒りを買ってしまったのだがそれでもテストを受けさせて貰えることとなったらしい。

 しかし、このテストというのが厄介なものだった。

 今、澤村の前の右に座っている絡繰茶々丸に一発攻撃を与えること―――――それも一対一でだ。
 澤村が古菲と刹那の二人が口を揃えてネギがエヴァンジェリンが突き付けた試練を乗り越えることは難しいと言うほどの難題をネギに課せたのか問うたことで、現状が成り立っている。
 因みに、澤村が茶々丸の言葉を復唱したのは口を滑らしたからではない。
 
「うっ……やっぱり避けるのは無理、か」

 そう、先ほどの澤村の言葉はわざとなのだ。
 未だに達成できていない、避けるという動作。
 それができるようにとわざとエヴァンジェリンに拳を放たせたのだが、やはり失敗に終わってしまう。
 ちょっとしたハプニングがあったとは言えど、朝の鍛錬はきちんと行なった。
 故に掌のマメは悪化していた。最後の一振りをした時に皮がべろりと捲るという最悪な事件が起きてしまったのだから。
 鳩尾の痛みとは別の痛みが掌を襲っている。
 とは言え、今は何か持っているわけではないため、掌の痛みはほとんどない。
 鳩尾の痛みから苦しそうに零した澤村の言葉にエヴァンジェリンは片眉を上げて彼を一瞥する。

「なんだ、貴様も体術を始めたのか」
「ああ……見込みがあるって言ってくれたんだけど、なかなか思うようにいかなくて」

 以前よりも早く態勢を整えた澤村は、鳩尾を労るように撫でつけながらもそう答えるとエヴァンジェリンは、ほほうと口元を緩ませた。

「誰かに教わってるのか。まさか古菲じゃないだろうな」

 誰に教わっているのか言えとエヴァンジェリンは視線で澤村を促す。
 これに澤村が逆らえるはずがない。
 澤村は軽く眉間に皺を寄せつつ茶々丸に1度視線を向けた後、

「桜咲さん」

 と短く返した。 
 エヴァンジェリンが、どこか興味有り気な視線で席の前の方にいる刹那を見る。
 そしてなるほど、とまた口元を緩ませた。

「なるほど。確かに貴様が教えを請えるのは、桜咲刹那くらいだ」
「……大分迷惑かけてるけどな」

 茶々丸はセンサーで自分を見る澤村の視線を感じつつも、無言で二人のやりとりを見ていた。
 澤村としては、傍にいながらも会話に参加してこない茶々丸が気になって仕方がないのだが、本人してみればそれは至極当然の行為なのでそのままの状態を保っている。
 そんな茶々丸と隣の席のエヴァンジェリンを見て、澤村はふと思う。

 ―――――吸血鬼とロボ、なんだよなぁ。

 不思議でしょうがない。
 心の中で苦笑を漏らす。いくら異常なことに慣れたとはいえ、相手は人外。
 そこまで考えがいたって、澤村は刹那に軽く視線を向ける。
 彼女も半分人間ではない。
 それなのにこの性格の違いはなんだろうか。
 そんなことを思っていると、

「そういえば――――もう一冊の方は読んだのか」

 どこか平坦さのある声質でエヴァンジェリンが言ってきた。
 先ほどの会話となんの脈絡もない問いに澤村は小さく首を傾げる。

「読んでないけど?」

 そう答えると、エヴァンジェリンはそうかとだけ短く答えて澤村から顔を逸らした。
 更に首を傾げる澤村。
 自分の名前があるからだろうか。それくらいしか思い浮かばなかった。
 聞いてみようかと口を小さく開いたが、また鳩尾に拳を貰うのは肉体的にまずいと思い、断念する。
 結局、

「おっはよー!」

 元気良く自分の席へと歩み寄ってきた裕奈によって、話は中断されたのだった。





 放課後になり、刹那と明日菜はとある人物の席の前に並んで立っていった。
 二人は眉を軽く寄せて困り顔になっている。
 理由は至極簡単。

「……どうする、刹那さん」
「……どうしましょうか、明日菜さん」

 机に突っ伏している澤村を見つめながらも呟く二人。
 澤村が寝ているというだけで二人はこうやって5分も彼の席の前で突っ立っているわけではない。
 問題なのは、声をかけても体を揺すっても澤村が起きないと言う事だ。

「このまま置いて行くというのもなんですし……」

 刹那はそう言いながらももう1度澤村の体を揺すってみる。
 頭の下に潜り込ませていた腕がだらりと机からはみ出るだけで、なんら変化はなかった。
 澤村に触れていた手を離して、刹那は溜息を漏らす。
 それを見て明日菜も同じく溜息を漏らした。
 裕奈の話では、帰りのホームルーム中に眠り始めてしまったらしい。
 そんなに時間はたっていないので浅い眠りなのだと思っていたが、これが随分と深い眠りらしく起きる気配すら見せない。

「やはり、少し無理をしていたようですね」
「――――え?」

 少しだけ気落ちした様子でそう呟いた刹那に、明日菜はきょとんとした表情で彼女を見た。
 一点を見つめる刹那。
 澤村の顔ではなく、別の部分に視線は向けられていた。明日菜はゆっくりと視線を辿る。
 そして、

「マメ……」

 赤い掌が明日菜の視界に入ってきた。
 おかしい。
 明日菜の知る限り、苦痛に歪んだ顔なんかで木刀を振っている澤村の姿なんて見かけた覚えなどない。
 明日菜も修学旅行を終えてから刹那との鍛錬を始めた。
 彼女も澤村と同様に手を痛めたはずなのに、何故自分はそんな事に気が付かなかったのだろう。
 明日菜は、努力する人は嫌いじゃない。
 けれどもこうやって無理をされるのは困る。

 ―――――小さな体で無理を重ねながらも前へ進もうと努力する少年が脳裏に浮かぶ。

「アスナー、せっちゃーん! 翔騎君、起きたー?」

 寮から持ってきたレジャーシートと水筒を胸に抱えた木乃香がひょっこりと出入り口から顔を出す。
 そんな木乃香に明日菜と刹那は揃って顔を横に振った。

「まだ寝とるんかー」

 そう漏らしながらも木乃香は、澤村の席の後ろへと立ちながらも彼の様子を覗う。
 丁度向かい合う形となった木乃香を明日菜と刹那は揃って不思議そうに見つめていた。
 木乃香は明日菜達と同じように澤村の体を揺すったりしてみた後、

「せっちゃん、コレもっといてー」
「あ、はい……」

 刹那にレジャーシートだけ渡す。
 ……明日菜はどこか嫌な予感がした。
 木乃香は水筒の蓋――――コップを取るとその底を本体に当て、

「翔騎君、起きなあかんえー」

 擦り始めた。





 ――――――暗い闇が全てを支配していた。

 そんな闇の中で澤村は一人立っている。
 辺りを見回しても真っ暗で、自分が立っているという事を視覚で感じられない。足に感じる地面の感触だけが、澤村に立っていると教えていた。
 深い闇は、あまりにも冷たすぎて鳥肌が立ちそうだ。

「何だ……?」

 声すらも闇が飲みこんでいく。声を発したのかもわからなくなってしまう。
 それを知ってしまった澤村は何もできずに立ち竦む。
 しばらくして澤村は、気が付く。

 ―――――嗚呼……“あの時”と同じだ。

 小さな事で絶望して自分を見失い、暗く深い闇へと堕ちていった自分。
 “あの時”――――――修学旅行での長い長い夜。
 鮮明に思い起こされる光景。

「ぅ、あ……」

 ジャリ、と音がした。
 その音と澤村の声が闇に飲み込まれず、彼の頭に響き渡った。
 一番見たくない自分の弱い部分が、脳裏から離れない。
 捕われの身となって、
 絶望して、
 全てを投げ出そうとて、
 楽な道を進もうとして、
 皆に迷惑をかけて、
 ……それでも澤村は今を生きている。今この場に、堕ちることなく澤村翔騎として生きている。

 ――――そんな自分が酷く憎たらしいと思ってしまう。

 今でも何をしたいのかなんていう明確な目標や夢なんてない。
 魔法を学ぶ、ということだけしか決めていない自分。
 迷っている自分が今でも憎たらしい。

 自分は何がしたい?
 自分は何を望んでいる?
 自分は何を求めている?
 自分は――――――

 ―――――思考は既に混濁している。

 深い闇が澤村の思考を飲み込んでいた。
 おかしい。
 何かがおかしい。
 今いる自分が酷く不安定に感じられる。
 気が付けば、澤村の足から地という感触はなかった。
 体が浮遊しているのかもしれない。

 ―――――怖い。

 怖い怖いこわいこわいコワイコワイ―――――!

 追い詰められる。
 張り詰めた糸が今にも切れそうだった。
 澤村の中にある澤村翔騎が崩れかけている。

 そもそも澤村翔騎という人間はどういった人間だったのだろうか?
 
 記憶のない自分は、誰よりも澤村翔騎という人間が存在することを実感できていない。
 自分は誰なのだろうか。
 どう生きてきたのだろうか。
 失った記憶は何時戻るのだろうか。
 このままでは、壊れてしまいそうだった。
 全てが壊れてしまいそうだった。
 心も体も、全て。
 混濁する思考の中、澤村はふと思った。

 ――――――自分は、本当に澤村翔騎という名の人間なのだろうか、と。

 全てが壊れる寸前、嫌な音が暗闇に響いた。

「な、何だ!?」

 リアル過ぎる音に澤村は上半身を起こした。

「え?」

 自分の動作に思わず澤村は声を出す。
 上半身を起こすと言う事は、あの闇ではできない。
 浮遊感と闇は消え去っていた。視界は眩しいほどに明るい。
 そして目の前には、

「やっと起きたわね」
「もう放課後ですよ」

 両耳から手を離す苦笑顔の明日菜とレジャーシートを持って明日菜と同じ表情をしている刹那がいた。
 ようやく澤村は自分が夢を見ていたのだと自覚する。
 ならばあの嫌な音も夢だろうか。
 そう思い澤村は、キョロキョロと辺りを見回す。

「翔騎君、おはよー」

 カチャカチャ音を立てながらも水筒のフタを閉めている木乃香が後ろからひょっこりと現れた。
 澤村は、木乃香の持つ水筒を見て先ほどの音の正体はこれか、と心の中で苦笑する。
 助けられた。
 あのままでいたら、本当に壊れてしまうところだった。
 明日菜達にごめんと謝りながらも澤村は自分の席から立ち上がり、机の横にかけていた学生鞄を手に取る。
 マメのせいで痛みが走ったが、明日菜達がいるためなんとか耐え抜く。
 そして、

「それじゃ行こうか」

 苦笑しつつも明日菜達にそう言った。





「ネギ坊主、距離を取ってたら駄目アルよ」
「はい!」

 師匠である古菲に言われた通り、ネギは右足を思いきり踏み込む。地面が芝生だったため、少しだけ滑りかけるがなんとか耐えきる。
 同時に右肘を突き出すが古菲の左手によって軽く流されてしまい、彼女の右手がネギの目を覆った。

「あうっ」

 ぐい、と頭を後ろへと倒され足を軽く払われる。
 そしてネギの体は難なく転ばされた。

「攻撃の後の動きや相手の行動を読むことも大事アルよ。相手が動いた後に反応するだけでは、いつか後ろを取られるのがおちアル」

 自分を見下ろす古菲の言葉に、ネギは起きあがりながらもはい、と答えた。
 古菲と組み手ができるほど上達したネギだが、未だに茶々丸と渡り合えるような実力はついていない。

 ――――もっと頑張らなくちゃ!

 ぐっと拳を握り締める。

「それにしてもアスナ達遅いアルねー」

 そんなことを言いながら古菲はその場に腰を下ろす。
 どうやら休憩らしい。
 ネギも彼女にならって腰を下ろす。

「まだ眠っているのかもしれませんね、澤村さん」

 本当はネギと古菲も残って澤村を起こそうとしたのだが、明日菜にそれを止められたのだ。

「あんたはやることがあるでしょ」

 日曜日まで二日ほどしかない。
 だからそう言われてしまってはその場に残ることができなかったのだ。

「ネギー!」

 聞きなれた声。
 聞いても聞いても、聞き足りない声がネギの耳に入ってくる。
 ネギは勢い良く立ちあがった。

「アスナさん!」

 明日菜の後ろを走るのは、刹那と木乃香―――――そして澤村。

 まただ。
 
 この違和感は、なんだろう。
 この気持ちは、なんだろう。
 この喪失感は、なんだろう。
 この苛立ちは、なんだろう。

 ――――――この不快感は、なんだろう。

 ネギは、頭を左右に振る。
 駆け寄ってきた明日菜達と古菲はそれを不思議そうに見ていたが、ネギは笑って誤魔化した。





 程無くして、各々の鍛錬が始まることとなった。
 ……なったのだが、

「澤村さん、ちょっと待って下さい」

 澤村はそんな刹那の一言で木刀を振る手を止められた。
 首を傾げて澤村は刹那を見つめる。

「手、見せて下さい」

 え、と澤村は声を漏らす。
 明日菜に視線を向ければ見せなさいよと目で言い付けられている気がした。
 明らかに澤村の手が負傷していることを知っているという刹那の口ぶりと明日菜の態度。
 いつ知られてしまったのだろうか。
 澤村は無意識のうちに木刀と共に両手を背に隠す。
 それが決定打となってしまった。
 明日菜の手がずい、と伸びて澤村の左腕を掴んだ。女の子とは思えないほどの強い力に澤村はあっという間に掌を彼女達に見せる羽目になった。
 
「隠しても無駄なんだからね。澤村君が寝てるときに見ちゃったんだから」
「あー……ははは……」

 乾いた笑みしか浮かばない。
 おずおずと両手を前へと出した澤村から木刀を取り上げると、刹那は彼の手をじっくりと見た。
 その表情は真剣そのもの。
 澤村は、明日菜と刹那に気付かれないよう、小さな溜息を一つ漏らす。
 本当は隠し通すつもりだった。たった1日でこんな手になってしまうということと、この手が原因で鍛錬を中止されてしまっては困るからだ。
 しばらく澤村の手を見ていた刹那は、顔を上げてこう言う。

「澤村さん、怪我とかした時はきちんと言って下さい。ちゃんと処置をすれば大事には至りませんから」

 刹那が子供に言い聞かせるように言ってきたため、澤村は素直に頷く。
 情けないとも思うが、師匠である刹那にそんな風に言われてしまったら頷くしかない。

「ガーゼを当ててテーピングをすれば大丈夫ですから、明日からはそうして下さい」
「……そうするよ」

 苦笑気味に澤村が答えると刹那は微笑んで彼の言葉に頷いた。
 そして、

「今日は別の事をしましょう。明日菜さんも」

 刹那はそう言った。
 明日菜と澤村は顔を見合わせる。
 そんな二人の様子に微笑みながらも刹那は、言葉を続ける。

「無手の鍛錬をしてみましょうか」
「無手って……木刀とかを使わないってこと?」

 明日菜の言葉に刹那はこくりと頷いた。
 ということは、ネギと同じように己の身だけで戦うと言う事だ。

「澤村さん、私の前に立って下さい。明日菜さんは少し離れて」

 二人は刹那の言われた通りにする。
 刹那と澤村は向かい合う形となった。
 澤村は何をするのかわからぬまま刹那を見る。明日菜も同様だ。

「それでは澤村さん、私に攻撃してみて下さい」
「え?」

 間抜けな顔で澤村は刹那を見た。
 女の子に攻撃するなんて。

「大丈夫ですから」

 安心させられるような表情と言葉は向けられる。
 しかしどうも踏ん切りがいかない。

「いや、でも……」

 狼狽する。何かするためでもないのだが、無意識に手が軽く上がった。
 目の前には微笑みながらも真剣な表情が覗える刹那の顔。
 今まで何故気が付かなかったのだろうかと澤村は己に問う。

 体術と学ぶという事は、
 魔法を学ぶという事は、
 この世界に踏み入るという事は、

 ―――――人と戦うこともあるという事じゃないか。

 エヴァンジェリンの時や修学旅行の時、何度か物を投げつけたり拳を向けることがあったが、相手に傷を負わせることはなかった。
 その時澤村は、純粋な強さを求めたわけではない。ただ明日菜や木乃香……そして自分の身を守ろうという牽制程度にしかすぎない。
 けれど、牽制だけでは他人はおろか、自分だって守りきれないというのはその身をもって知った。
 今澤村は、純粋に強さを求めている。
 決意し、覚悟を決めて学ぼうと思っている。
 だが、所詮は男子中学生。考えが甘い。
 自分を守れるほどの強さを求めれば、相手に傷を負わせたりする場合だってあるはずだ。
 そんな大事なことを何故考えられなかったのだろうか。
 ふと、澤村はあることを思い出す。
 ネギはエヴァンジェリンの時も修学旅行の時も迷いもなく戦っていたような気がする。
 澤村は視線を横へと向けた。
 ネギが古菲と組み手をしている。
 生徒に拳を向けている。
 ネギはどう思って拳を人に向けているのだろうか。
 どう思って戦うことを決意したのだろうか。

「澤村さん?」

 刹那の声に澤村は彼女へと視線を戻す。
 不思議そうな顔をして自分を見ている刹那に、澤村は苦笑してみせる。

「ごめん。攻撃って言うと……なんでもいいのかな」

 あれこれ考えるのはよそう。
 剣道や柔道、空手と同じだと思っておこう。
 そうでなければ、体術なんて学べない。
 学ぶのを躊躇ってしまう。
 決意や覚悟が鈍ってしまう。

「はい、拳でも蹴りでも何でもかまいません」

 その答えに澤村はわかったと深く頷き、足を肩幅程度に開いた。

「それじゃ、いくよ」
「はい」

 手の甲を地面に向けつつも澤村は腕を腰まで引き、軽く捻りながらも拳を突き出した。
 刹那の体が右へと逸れ、彼女の右手が澤村の右手首を掴む。

「――――え」

 前へと重心がずれると同時に、澤村は自分の体重を支えていた左足を払われるのを感じた。
 体が浮く。
 自分が地面へと倒れ込んでいるのに気が付いた澤村は、反射的に左腕を突き出した。
 右手首は既に解放されていたので、右腕も地面へと突き出す。
 地面が芝生ということと刹那が力を加減してくれたことで、マメが痛むということはない。
 両手が地面についたと同時に前へ滑り込みそうになった力を利用して、地面を突っぱねた。
 上半身が僅かに浮く。
 払われた左足は未だに宙にいたため、払われていない右足をなんとか懐へと折り込み、地に足を着いた。
 瞬間、地に着いた足で地を蹴る。
 刹那が前へと引いた力のおかげで、体が前へと跳んだ。残りの左足で着地を無事こなす。
 地にしっかりと足を着いて、立つことができた。
 転ばずに済んだことにほっと胸を撫で下ろし、澤村は振り返る。
 2、3メートル離れたところに微笑む刹那とその横で驚いた顔のまま固まっている明日菜が立っていた。

「お見事です、澤村さん。普通ならそのまま倒れ込んでいましたよ」
 
 思わぬところで刹那から賛辞を受け、澤村は頭を掻いてどうもと答えた。
 こういうのはどうもむず痒い。

「人間誰しもそうですが、澤村さんの場合は特に自分の身に危険を感じたときの対処が素早いです。技術が身につけばすぐに戦闘能力はつくと思いますよ」

 明日菜さんも同様です、と言う刹那の言葉を聞きつつも澤村は彼女達の傍に歩み寄る。
 明日菜が手の安否を聞いてきたが、大丈夫と微笑んで返した。

「必要なものは技術と経験です。パワーやスピードなどは、後になってついてきますから」

 そう言いながらも刹那が足を開いて軽く腰を屈めてくる。
 精悍な顔で澤村と明日菜を見ていた。

「お二人とも、同時にかかって来て下さい。細かい事は、一段落してから指摘しましょう」

 明日菜と澤村は、また互いの顔を見合わせる。
 何故か明日菜は頷いて見せた。つられて澤村も頷く。
 明日菜の意図がわからぬまま澤村は、彼女が刹那の方へと顔を向けるのを見届ける。
 そして、

「それじゃ遠慮なく行かせてもらうわよ!」

 明日菜の言葉に彼女も決意したのかと思いながら、刹那へと足を踏み込む明日菜の後を鈍い動作で澤村は追った。




 
 先ほどまで元気のなかったまき絵が、どこかうきうきとした様子で重箱を抱えて亜子の目の前を歩いていた。
 亜子もずっしりと重たい重箱を抱えているのだが、何故かまき絵はそんな重さを気にもせずに足取り軽く進んでいる。
 重箱の中身は、亜子とまき絵が作ったお弁当。
 まき絵がステーキやらいろいろ高価なものを買って重箱に入れるものだから、サイフの中身は寂しくなってしまっていた。

「ネギ君何処かなー」

 弾んだ声でまき絵はそう言う。
 まき絵は何時でも自分で立ち直る。
 亜子が密かに憧れているまき絵の長所だ。
 けれど、どこかおかしい。
 まき絵の落ち込みようは今まで全く違っていた。

 大会の選抜テスト。

 まき絵の口からその言葉が全く出てきていない。
 いつもなら話をしてくるのに。
 それに演技が子供っぽいと言われてかなりのショックを受けていたはずなのに急に元気になった。
 いくらなんでも立ち直りが早過ぎではないだろうか。

 ―――――まさか忘れてるとか。

 そんな思いが過る。
 亜子は目の前を歩くまき絵に1度聞いてみようと口を開こうとしたが、

「あ、ネギ君だ!!」

 まき絵のそんな声に口を閉ざした。
 走り出すまき絵に慌てて亜子はそれについていく。

「ちょっと待ってーな、まき絵!」

 重箱を抱えて何故あんなに速く走れるのだろうか。
 そう思いながらも走っていると―――――

「……あ」

 ネギの隣には古菲。
 古菲の後ろには刹那と明日菜。
 その二人の後ろにはレジャーシートが敷かれており、木乃香が座っていた。
 そして木乃香の隣には、

「―――――澤村君」

 呟く。
 彼もまき絵と亜子の存在に気が付いたらしく、どこか気まずそうに亜子を見て顔を背けた。
 いつもならテストの準備期間中放課後少しだけ残って部活をやっているのに、彼はここにいる。
 皆がレジャーシートに座り、重箱を広げ始めた。
 ちょっとしたピクニック気分になっているが、亜子と澤村はそういう気分ではなかった。
 亜子は澤村の隣に遠慮しつつも腰を下ろす。
 二人とも正座をしているせいか、どこか堅苦しい雰囲気が漂っていた。
 食べ物を口に運んでも、どこか味がぼやけているように感じられる。

「……サッカー、やらへんの?」

 亜子が問う。
 卵焼きを取ろうとした澤村の箸が止まる。
 亜子も箸を持つ手と共に両手を膝に置いていた。

「ほら、今はテスト期間中だし」

 ぶすりと卵焼きに箸を刺しながらも澤村はそう言った。
 ぎこちない動き。
 すぐにわかった。

 ―――――嘘だ。

 何か隠している。
 いつだってはぐらかすけれど、今回ばかりは亜子は引き下がる気はない。
 力になると決めたのだから。
 口に卵焼きを運ぶ澤村に亜子は少しだけ厳しい口調で言う。

「嘘や。いつもなら自主練しとーやん」

 亜子にとっては好都合なことで、ネギに物をたくさん食べさせようとガヤガヤ騒いでいるため亜子と澤村の変化に皆気がついていない。
 澤村にとっては非常に好ましくない状況だ。
 亜子と目線を合わせようとせず、ただ重箱の中身を突付くだけ。
 行儀が悪い。
 亜子は軽くそれを窘めながらも澤村の目を見た。

「何を隠しとるん?」

 “何か”が宿る瞳。
 今はない、縋るように自主練に励む姿。
 広がる交友関係と比例して広がる澤村との距離。
 澤村の向かっている場所。
 知りたかった。
 力になりたかった。
 しかし澤村は、

「何も隠してなんかないって。ただ、俺も剣道やってみたいなと思って桜咲さんに習っていただけ」

 亜子に教えてはくれなかった。
 平然とした表情で、澤村は亜子に真実を隠したのだ。

「なんでっ―――――」
「いやああーーーん!?」

 ――――隠すの?
 そう問おうとした亜子の言葉をまき絵の悲鳴が遮った。
 亜子は視線を移す。
 少しげっそりとしたネギが半泣きで謝ってくるまき絵に何か言っていた。

「な、何やってるんだ?」

 澤村はそんな言葉と共に立ち上がり、ネギ達に駆け寄る。
 あ、と亜子は声を漏らしたが、澤村にはその声が聞こえなかったらしくそのまま彼の背中を見送る羽目となってしまった。
 結局また、真実を聞けずに彼の力になることができなかった。
 不安でしょうがない。
 見送った背中が亜子の知る背中よりも大きく見えたから。
 ネギ達の元へと歩む澤村の姿がどこか遠い場所へと向かおうとしている気がしたから。
 亜子は思う。

 ――――澤村翔騎という人間は何処に向かっているのだろうか、と。

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