【遠野家】
「……姉さん」
「ヒッ……! ……えと……ど、どうかしたの、翡翠ちゃん? 何だか浮かない顔しているけれど……」
遠野家地下王国、琥珀の研究室。 煎餅片手にお茶を啜りつつパソコンを操作していた琥珀の下へ、浮かない表情の翡翠が姿を現す。 最初はまた朴念仁な志貴への不満の捌け口にされるかと思って琥珀は警戒したが、そんな雰囲気は感じられず問いかけてみた。 しかし、翡翠はその顔に不安を滲ませたまま何も答えずに押し黙っている。
「――――姉さん、志貴様は無事なの……? 最近、私の周りで縁起の悪いことばかり起きてて……」
しばらく経ってからポツリと呟かれた翡翠の言葉に、琥珀はきょとんとした顔を見せる。 ここ最近の彼女にしては珍しく覇気が無く、琥珀は彼女の主たる朴念仁に対して心の中で盛大なため息を吐く。 話を聞いてみれば、最近彼女の周りで縁起の良くないことが起きているにも関わらず、自分には何ら影響が無いことから、もしかすると自らの主である志貴に何か悪いことが起きてしまうのではないかと不安になったらしい。 ……まあ、人外の集まるこの遠野家で縁起の良し悪しもへったくれも無いのだが。
「……大丈夫よ、翡翠ちゃん。志貴様は、待っている人に何も言わずにいなくなるような人じゃないわ」
――――決まった……。さあ、翡翠ちゃん! 感動の涙と共に、お姉ちゃんの胸に飛び込んでいらっしゃい!!
目を閉じながら優しく告げた琥珀の脳内では、既に広げた自分の腕の中に翡翠が収まって感動の涙を流していた。 しかし、いつまで経っても予想通りの展開とはならず、不思議に思いながら目を開けてみる。 翡翠は変わらず不安気な表情を浮かべたまま俯いていた。
「縁起が悪いことって言っても、それが必ずしも志貴様だとは限らないでしょう?」
そう。例え縁起の悪いことが起きたとしても、それが誰にとっての縁起の悪いことなのかまではわからない。 肩を落とし俯く翡翠へ近づき、頭を撫でてやりながら――――しかし、心の中では自らを罵っていた。
――――嘘つき。自分も不安なくせに。 あの人 がいなくなった後のことを考えたら、狂ってしまいそうな程苦痛だというのに、いつまで自らを偽り続けているのか。
(……黙りなさい。私はこの子の姉。この子の前では、いつだって私は笑顔でいてあげなきゃいけないのだから)
偽るのは、慣れている。 人形のように。感情も、痛みも無い、ただの人形のように。 それも遠野志貴の前では脆くも崩れ去ってしまったが……まだ、大丈夫。 仮面を着けるくらいのことは、いつだってできる。
「――――でも!! 私がいつも使ってる志貴ちゃんコップに罅が入ったり、私がいつも抱いて寝てる志貴ちゃん抱き枕の糸が解れて中身が飛び出してたり、私の部屋に飾ってある志貴ちゃん型写真立てが壊れてたり、他にも私の志貴ちゃんグッズの数々が……!!」
――――――――うん。ゴメンナサイ、翡翠ちゃん。それ、全部私のせい。
以前、琥珀が翡翠の部屋に侵入した際、色々と物色したのだが、犯行の痕跡を消すために片付け始めたのがいけなかった。 致命的なまでに掃除の下手な琥珀が掃除を始めたのだから、どうなるかなどすぐにわかってしまうだろう。 部屋にあった全てのものに何かしらの破壊の痕跡が残されており、いつ犯行がバレてしまうかとビクビクしていたのだが、予想外にも翡翠はそれを不吉な予兆か何かだと勘違いしてしまったらしい。 ちょっぴり罪悪感を感じながらも、ホッと安堵し――――つい、口を滑らせてしまった。
「でもほら、誰かが壊しちゃったのかもしれないじゃな…………あ゛」
咄嗟に自らの口を塞ぐが……時既に遅し。 俯いていた翡翠の顔がゆらりと上がり、笑顔を見せる。 それは、まるで壊れてしまったかのような笑み。 言ってしまえば、翡翠ルートで臥せっていた志貴の前に翡翠の格好をして姿を現した、壊れた笑みを見せる琥珀そのものだった。 違うところがあるとすれば、洗脳探偵さながらにぐるぐる黒目が渦を巻いていることぐらいか。 絶賛渦潮発生中。テメエを、犯人DEATH。
「ええ、そうね。姉さんの言うとおり、誰かが壊したのかもしれないわ。そして志貴様がいない今、私の部屋に入るのなんて、せいぜい一人か二人……。それもあの破壊の状況からすれば、該当者は一人に絞られる……。ねえ―――― 姉 さ ん ?」
「ひひひひひひひひひひ翡翠ちゃん、そっそれ私の立ち絵……!」
「お前の血は何色だあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!?」
――――その日、遠野家に人のものとも思えない絶叫が響き渡り、壁一面が赤く染まっていたと言う。 それは、血にも似た鮮やかな紅色だったとか……。
〜朧月〜
【志貴】
――――ゆらゆらと、揺れる。 まるで眠りに就いた赤ん坊の揺り籠を揺らすかのような、柔らかく、優しい揺れ。 俺は……この感覚を知っている。 幼い頃に培った七夜の体術を覚えていたように、俺の体はその優しい揺れを覚えている。 それがいつだったのか、揺らしていたのが誰だったのかは思い出せないけれど、俺の体はそれを覚えていた。
優しい揺れに導かれるように、俺の意識が浮上していく。 暗い闇の奥底から眩い白い光の下へと、俺を誘っていく――――――――――――……。
「ぅ、ん……?」
「……」
瞼が開き、視界が開ける。一瞬見えた罅割れた世界に目を閉ざし、枕元に置いておいた眼鏡に手を伸ばす。 罅割れた世界から普通の世界へと戻った俺の視界に最初に飛び込んできたのは、黒い肌の女の子の顔。 女の子――――ココネちゃんは俺の胸の上に馬乗りになったまま、無言で俺の顔をじっと覗き込んできていた。 そういえば、都古ちゃんも今と同じようなことをしてたことがあったな、と有間の家にいた頃をぼんやりとした頭で思い出す。 ……まあ、俺が目を覚まし笑顔で挨拶したら、都古ちゃんは顔を真っ赤にさせた後、無言で両手で俺の頭を掴み突然頭突きをかまして去っていったという、とても痛い思い出なのだが。
「おはよう、ココネちゃん。退いてくれると嬉しいんだけど……」
「――――……ホンマに、志貴さんが起きた……。せっちゃん、すごーーーい!!」
ココネちゃんに俺の上から退いてもらうと同時に聞こえた女の子のはしゃぐような声に、そちらへと意識を向ける。 見れば、長い黒髪の女の子……このかちゃんが何故か嬉しそうに笑っていた。 そして俺のすぐ横には――――困ったような顔で視線を逸らす、刹那ちゃんの姿がある。 このかちゃんの言葉から察するに、どうやら彼女が俺を起こしてくれたらしい。 そういえば、朝起きた時もさっきと同じような感覚を感じて目が覚めた。 ということは、今朝俺を起こしてくれたのも恐らく刹那ちゃんだったのだろう。
――――けれど、不思議だ。 本当に自慢にもならないことだが、生半可な起こし方では俺を起こすことはできないと自負している。 元々俺の眠りは意識の深いところで浮き沈みを繰り返しているらしいのだが、彼女はまるで俺の眠りがそうであることを知っているかの如く、意識が最も浮上してくる瞬間に、寸分違わず優しく揺り起こしてくれたのだ。 翡翠は起きる時に見せるほんの僅かな変化を見て、俺が起きるのがわかるとか言ってたが、昨夜会ったばかりの女の子にできるようなことではないだろう。
このかちゃんの話では、俺と刹那ちゃんは幼い頃に出会っているという話だった。 七夜の頃の記憶は全て親父……遠野槙久の手によって消されている。 当然、彼女のことは覚えていない。覚えていないはずなのに――――彼女といると、どこか……懐かしい気がした。 寝起きに比べて少しはまともになってきた脳でそんなことを考えていると、何かが俺の背中をよじ登り、肩に乗っかる。
「えっと……何をしてるのかな、ココネちゃん?」
「……かたぐるま」
うん、ベタな返答をどうもありがとう。 顔を見るまでも無く、すぐ横に見える黒い肌の太腿を見ればココネちゃんだとわかる。 そういえば、ココネちゃんは相方の美空ちゃんに肩車されながら移動してたみたいだったな。 辺りを見渡してみるが、その相方の姿は見当たらない。
「ウチが志貴さん起こそうとしても全然起きんかったんに、せっちゃんがやったら一発やったなー」
「い、いえ……大したことではないので……」
嬉しそうに笑うこのかちゃんに、刹那ちゃんは困ったような顔で答える。 まあ、俺みたいな寝坊助を起こせるくらいのことは確かに大したことじゃあないか。 刹那ちゃんはこのかちゃんに褒められて照れているのか、頬を赤らめて視線をあちこちへと彷徨わせていた。
「ふあぁ……あれ? ウチが寝直ししてから大して時間経ってへんなー」
カーテンで仕切られていた隣のベッドから、亜子ちゃんが大きな欠伸をしながら顔を覗かせる。 ああ、シオンの使ったエーテライトの麻酔効果で眠っていたんだっけか。 亜子ちゃんは保健室の時計を見て何か呟いた後、俺の顔を見てピタリ、と固まった。 何度か瞬きを繰り返した後、顔を真っ赤にさせ――――
「……って……ええええええええええぇぇぇぇぇっっっ?!! しっ、ししし志貴さん起きとったんですか?! あわ、う、ううウチ……」
「あはは……ほら、落ち着いて。深呼吸するといいよ」
「は、はい……。すぅー……はぁー……。え、えぇっと……」
慌てる亜子ちゃんに苦笑しながら、シオンが話していたことを思い出し、心の中で一つため息を吐く。 俺が『白馬の王子様』、ねぇ……。 とてもじゃあないが、俺には荷が勝ち過ぎている。 とは言っても、ただ単に気楽に構えていればいいだけの話だ。 女の子の扱いに慣れていない俺では、愛想を尽かされてしまうのがオチだろうから。
「あああああの、ウチ、和泉亜子言いますっ! 先日は、助けてくれてホンマにありがとうございました!」
「ああ、いや……その、ゴメン。助けることはできたけど、結局その後は何もできなかったんだからこっちが謝らないと」
亜子ちゃんは勢いよく頭を下げて礼を言ってきたが、俺は彼女にナイフを突きつけていた男を倒しただけである。 助けたのはいいものの、自分もナイフを持っているので、今警察に事情聴取されるのはマズイと判断して立ち去ったのだ。 ……まったく、責任放棄も甚だしい。 なので、彼女に感謝されるほどのことをしたつもりはなかったのだが……どうやら彼女にとっては違ったようだ。
「いえ! あの時、周りの誰もウチのことに気付いてなんかくれなくて……『ああ、ウチこのまま殺されてまうんかな』って思ってたら、凄く悲しくて……。でも、助かって志貴さんの優しい笑顔見たら、『あー助かったんやなー』ってホッとして……。せやから、その……とにかく、志貴さんはウチのこと助けてくれたんです!」
胸の前で拳を握り熱く語りながら迫ってくる亜子ちゃんに気圧され、ベッドの上でちょっと後ずさる。 亜子ちゃんはふと我に返ったらしく、そのままの体勢で固まっていた。 そして冷静になった彼女は視線を感じたらしく、ゆっくりと俺の顔から視線を上げて――――俺に肩車されているココネちゃんと目を合わせる。 しばらくココネちゃんと視線を交わした後、亜子ちゃんは顔から布団にダイブして動かなくなった。
「……その……何か、お礼を……」
布団に顔を突っ伏したまま、顔を耳まで赤くさせた亜子ちゃんがボソボソと呟く。 聞き取り難かったが、とにかく助けたことに関してお礼がしたい、ということなのだろう。 しかし、お礼と言っても特に思いつくようなことは無い。 何か彼女に頼めるようなことは……ああ、そうだ。 何日かかるかはわからないが、この町に居を構えて滞在するのなら、知っておかなければならないことがある。 側にいる刹那ちゃんやこのかちゃん達に頼もうと思っていたのだが、丁度いいのでこの際彼女に頼むとしよう。
「――――じゃあ、この町の案内……なんて頼めるかな?」
☆
□今日の裏話■
「うぅ……」
――――死にたい。
私は椅子から崩れ落ちたまま、立ち直れそうに無かった。 遠野志貴の眠るベッドを挟んだ向かい側には、いい笑顔を浮かべるお嬢様と、私とお嬢様へ交互に困ったような視線を向けるのどかさん。 あれから三十分近く、私はお嬢様からの質問責めに遭っていたのである。 ……ええ、嘘を言ったところで、隣にいるのどかさんのアーティファクトには私の本心が出てしまうのだから、隠し様が無いんです。 もう、根掘り葉掘り、幼い頃――――志貴ちゃんとの恥ずかしいことまでお嬢様に知られてしまい、今の私の顔は完熟トマトもかくやというほど真っ赤になっているだろう。
「ん……あー、そろそろネギ君戻ってくる言うてた時間や。志貴さん達起こさんとあかんなあ……。な、せっちゃん?」
顔を上げて見れば、お嬢様が期待に満ちた目で私の顔を見ていた。 今朝のことも知られているから、恐らく私に遠野志貴を起こして見せろということなのだろう。 遠野志貴に目をやれば、相変わらず死んでいるかのような深い眠りの中にある。 試しにお嬢様が寝ている遠野志貴を強く揺らしてみたが、一向に起きる気配は見られず、更なる期待を込めた視線が向けられてきた。 ……お嬢様の期待を裏切るなんてことは、できない。 立ち上がり、寝ている遠野志貴の横に立ったところで、ガラリと保健室のドアが開く音がして誰かが中に入ってきた。
「……………」
「はれ? ココネちゃん、どしたんー?」
「……シキ」
ベッドを仕切るカーテンの隙間から顔を覗かせたココネさんは、寝ている遠野志貴を見つけると無表情にトコトコと近づいてきた。 ココネさんは、遠野志貴を起こそうとしていた私の隣に立つと、無言でジーッと私の顔を見上げてくる。 前からはお嬢様とのどかさん、隣からはココネさんと、それぞれの視線が私に向けられているのを感じて、何だか自分がこれからすることがとても恥ずかしいことのように思えてきた。 すぐにでもこの場から逃げ出したかったが、お嬢様の期待は裏切れず、遠野志貴を起こすべくその寝顔を窺う。 今朝起こした時と同じように、血の気の無い白い顔が生気を取り戻し始めた瞬間に、その体を優しく揺らす。 起きる気配を察したのか、ココネさんがベッドに登り遠野志貴の胸の上に馬乗りになる。 そして――――
「ぅ、ん……?」
結果は、朝と変わらず。 志貴ちゃんと同じ起こし方で、遠野志貴は目覚めたのだった……。 |