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File02「星の精<スターヴァンパイア>」 投稿者:赤枝 投稿日:04/09-03:21 No.119
魔導探偵、麻帆良に立つ
Fiel 02「星の精<スターヴァンパイア>」
1.
九郎は結局『戯流万家<ぎるまんはうす>』には行かなかった。
学園長の気持ちはうれしかったし、温かなベットとうまい食事は大変魅力的であったが、名前からしてクソ怪しいホテルに泊まる気にはなれなかった。
具体的には、従業員やら住民に襲われたあげく、自分の家系の秘密に気づいて海に帰ってしまうという、インスマウスを覆う影ちっくな展開はご免被りたかったが故に。
「………………ってこのネタが分かる奴は少ないんではなかろーか」
代わりに、九郎はさっさと仕事に取りかかることにした。手始めに現場を見るために図書館島大図書館にやってきていた。
『Keep Out これより先の侵入を禁じる』
館長室へと向かう通路に、そんな文字が書かれた黄色いビニールテープで仕切が出来ていた。
どこの、刑事ドラマだよ。などとつぶやきながら、九郎はその仕切をまたぐようにして飛び越える。
「…………」
ビニールテープを越えた途端に強烈な瘴気が九郎に襲いかかる。
墓荒らしが入った後の土葬式墓地じみた、あの胸のむかつく異様な粘性をもつ独特の空気。
どことなく腐敗臭を彷彿とさせる陰気な匂いを孕んだ風が、臓物じみた気味の悪い暖かさをもって九郎の頬を撫でる。
資料には、瘴気が濃いために奥涯館長救出と一次調査以降は館長室ごと封印してあるとのことだったが…………。
なるほど、この密度の瘴気では並の魔法使いでは耐えられないだろう。
しかし、九郎はまったく怯むことなく進む。
この程度の瘴気ならば、どうという事はない。あの悪名高いミスカトニック秘密図書館に比べればまだまだかわいいものだ。
「ここか」
館長室。とかかれたプレートを前にして、九郎は立ち止まる。
古めかしいゴシック調の上品な造りの扉は、今や先住民族の禁じられた霊廟によく見られる悪夢的な呪いが掛かっているような暗澹極まりない不気味な雰囲気を醸し出していた。
その扉を九郎は戸惑うことなく開けた。
途端、先ほどとは比べものにならない濃密な瘴気が九郎に襲いかかる!!
「もう完全に異界になってやがる…………」
封印結界が存在することも手伝ってのことだろう、狭苦しい館長室の中に満ちる瘴気は凝縮され圧縮され顕現化され、尋常ならざる異界を構成していた。
歪んでいた。全てが歪んでいた。
ユークリッド幾何学を大きく逸脱した、トチ狂った設計図によって建設されたような構造を成すこの部屋は、全く以てイカれていた。
三角形の内角は明らかに三六〇度を超えていたし、逆しまの色彩が辺り一面をサイケデリックに彩っていた。出来損ないの柱達は四次元の基本法則を嘲笑する奇妙なリズムでケタケタと笑い、絨毯に残っていた血の跡はまるで両眼を失った蛇のようにのたうち回っていた。
元々此処にあったと思われる家具の部類は、例外なく全て腐敗しており。一キュービットほどの大きさのこの世ならぬ特性を兼ね備えた芋虫が死肉にたかる蛆虫のように湧いていた。芋虫たちは忌まわしき交尾と下劣なる共食いを繰り返しながら増殖し半減し、肥え太りながらやせ細るその矛盾極まりないあり方は、まさしく唾棄すべき外道そのもの。
時間の流れときたらもう最悪だ。棺桶じみた時計の四本の針は絶望的なまでにいかなる法則性も存在しない名状しがたい角度で脈打っていた。ザクザク。
そして部屋の中央部、この全てが歪んだ空間において、唯一その原型をとどめるモノがあった。
忌まわしき鉄の大冊、かの妖術師ルドウィク・プリンの記した『De Vermis Mysteriis』だ。
明らかに異界の原因でありながら、それでもなお現世の姿を保つそれは、何処までも異様、何より異常。
「なんだかんだで、コイツとは縁があるな。これが腐れ縁ってやつか」
バラバラと、まるで笑うかのように頁を暴れさせる『妖蛆の秘密』を睨みつけながら九郎は言った。
九郎は常人ならば呼吸するだけで発狂するこの狂気空間にあってなおも平然としていた。
それは『妖蛆の秘密』の病的な魂の持つ精神を越える、強靱な意志の現れである。
「契約執行<アクセス>――我は神意なり<I am Providence>。起動せよ、『ネクロノミコン新釈』」
九郎の呼び声に答え、コートの内側に隠されていた『ネクロノミコン新釈』がそのページ群を中空に巻き上げる。
其処に記された魔術文字を発光させながら九郎のコートにとりつき、九郎の意志に従ってコートを変貌させる。
「うん。やっぱり、魔術師はこうでなくっちゃな」
九郎は変質したコート――いや、漆黒のマントを翻しながら満足げに呟いた。
思考疾走。
魔術とは今その瞬間の世界の法則――すなわち、マナ、エーテル、字祷子と呼ばれる魔力子の振動状況――を演算し、導き出された式に、自らの理論を世界に書き加え自分の世界を想像する禁断の秘術だ。
真実の目を以て世界と繋がる秘術だ。
故に、この狂った空間も、絶望的なまでに現実から遠ざかったこの邪悪めいた部屋も、『妖蛆の秘密』にねじ曲げられた法則で構成されたこの場所も、九郎は魔術を用いて矯正する事が出来る。
しかし、今この場を支配するのは、かの呪わしき『妖蛆の秘密』だ。
魔術師<マギウス>と契約していないにもかかわらず膨大な魔力と圧倒的な情報処理能力を持つこの書相手に、九郎はフィーリー著『ネクロノミコン新釈』で立ち向かう。
『ネクロノミコン新釈』はかつての九郎の愛書、全てのネクロノミコンの母、獣の咆哮たる『Al Azif』の子の一つではあったが、その内容は信頼できるとは言い難くその力も大きく劣る。
そもそも『ネクロノミコン新釈』は『ネクロノミコン』のガイドブック的な存在だ。並の魔導書と比べても決して劣ることはないが、さすがに他の『ネクロノミコン』とは比べものにならない。
「――――さすがにきついな」
しかしながら、九郎も世界屈指の魔術師<マギウス>の一人である。世界中に様々な二つ名を響かせているのは伊達ではない。
脂汗をかきながらも、徐々にこの部屋を通常空間へと、変貌させてゆく。
次元法則に正気を取り戻させる。
三原色に従い彩色。
無機物は無機物に。
あるべき形を構成し、存在するはずのない異様なものどもを駆逐する。
意識の力を以て全ての怪異をあるべき場所に送還してゆく。
音も風もなく、館長室は元の姿を取り戻した。
元の姿に戻った館長室の中で、九郎は『妖蛆の秘密』をばたむと閉じた。
「封印完了っと」
九郎は、『妖蛆の秘密』を手に持ったまま、現場をさっと見渡した。
といっても、さっきの異様な状況からすると別に何の変哲も無い部屋にも見える。
絨毯に血痕とかあったり、窓が景気よく割れていたり、窓枠が思いっきり焦げていたりするけど、あんまり気にならない。
九郎はこういう事に異常性を感じなくなる人生とか感性とかを嘆きたくなったが、とりあえず無視してあたりを調べ始める。
「まあ、現場にあった魔導書が『妖蛆の秘密』で、おまけに血を吸われてるってんなら、犯人はもう決まった様なもんだけど」
『妖蛆の秘密』をぱらぺらぱと無造作に捲る。
「頼むから外れてくれよー、俺の予想」
真新しい血痕が残ったページに至り、そこで九郎は手を止めた。
「はーい、大当たり。畜生、俺の予想って悪い方に限っては外れないよなぁ」
そのページに記されているのは、晩年『妖蛆の秘密』の著者ルドウィク・プリンの周りに常に使えていたと伝えられる使い魔『眼に見えざる朋友』『星の送りし下僕』などの名で知られた、かの種族の召喚方法についてだった。
「星の精<スターヴァンパイア>……。やっかいなモン呼び出しやがって」
九郎は悪態をつきながら、『妖蛆の秘密』を机の上に置いた。
星の精<スターヴァンパイア>。
彼らは宇宙に、あるいは地球外の何処かの星に生息する独立種族だ。
旧支配者の眷属どもと同様、星の精<スターヴァンパイア>は決して侮ってよい存在ではない。
彼らの最大の特徴としては『見えない』事が挙げられる。
星の精<スターヴァンパイア>が見えないのは、何も視覚的な側面に限ったことではない。
視覚的――すなわち光学的な特性はもちろんのこと、電磁的、魔術的な側面においても一級の事故隠蔽能力を『生物学的』に兼ね備えている。
恐るべきステルス性をもつおぞましき宇宙的吸血生物。それが星の精<スターヴァンパイア>だ。
ただ、彼もその姿を曝すこともあると言われている。それは獲物に襲いかかるとき、つまりは吸血行為を行う時だ。
相手の血液を食らい、その血液が星の精<スターヴァンパイア>の体内を巡るために、朧気にだがその邪悪な姿が鮮血色に染まり、浮かびあがるのだ。
彼らの性質は残虐そのもので、獲物をずたずたに引き裂き、そこから溢れる血を吸い取るという酷く乱暴なやり口を好む。万力のごとき握力を備える触腕、もしくはそれに類する器官で、獲物の骨格を砕き、その音に酔いしれる最悪の嗜虐嗜好の持ち主だ。
星の精<スターヴァンパイア>に襲われたものの末路は等しく死であり。幾千もの戦場を越えた歴戦の戦士でさえ、抗う暇もなく殺されることもある。
何故、奥涯館長が星の精<スターヴァンパイア>に襲われながらも生きているのか、その正確な原因は分からない。
件の吸血鬼の力を弱める結界の力だろうか?
どうだろう、彼らが『吸血鬼』という、ある種の呪術的な存在であるのは間違いないが、同時に地球の論理の通用しない、宇宙のいやはてに生息する吸血生物でもある。
実際の所、麻帆良の結界が星の精<スターヴァンパイア>に対してどれほどの効果をあげるのかはまったくの未知数だ。
奥涯館長が無事なのだからある程度の効果を上げていると推測されるが、当然全くの効果を上げていない場合も当然あり得る。
窓にあった焦げあとは、奥涯館長が反撃した痕跡であろうか?
一応、彼も魔法使いだったのだ、当然魔法によって応戦した可能性もあり得る。
九郎は様々な推測、憶測を立てながら、冷たい風が吹き込む窓に歩み寄った。
この広い麻帆良の何処かに星の精<スターヴァンパイア>が潜んでいるかも知れない。
召喚された星の精<スターヴァンパイア>が奥涯館長を襲っただけで満足して宇宙に退去していれば良いが、それはあまりにも楽観的すぎる推測だ。
未だこの麻帆良に潜み、獲物を狩る機会をうかがっていると予想した方が自然だろう。
「クソったれ」
じっと、夜に沈んだ麻帆良の街を見下ろす。
至る所に温かな明かりが灯っていた。
その明かりの一つに、九郎は温かな家の中で幸せそうに笑っている家族の姿を幻視した。
その明かりの一つに、恋人達が仲睦まじく輝かしい未来を語る様を幻視した。
その明かりの一つに、遊び疲れて眠る子供達の姿を幻視した。
九郎が依頼されたのは、あくまでも犯人の調査である。
事件の解決までは依頼の内容には含まれていなかった。
けれど、このまま魔法使い達に任せてしまっても良いものか。
彼らを侮るつもりは毛頭無いが、それをさしおいても星の精<スターヴァンパイア>はやっかいな存在だ。
この光射す世界に、汝ら暗黒、棲まう場所無し。
唐突に、九郎はかつての相棒の必殺の口訣を思い出した。
なるほど、その通りだ。
この世にどうしようもない理不尽があるのならば、更なる理不尽をもって打ち破ろう。
許せない邪悪が存在するのならば、必殺の論理を以て打倒しよう。
自分にはそれを成すだけの力がある。
それになにより――、
「ほっとくなんて、そんな後味悪ィ真似できっかよ」
力の有無――すなわち可能であるか不可能であるかという点は、九郎にとってさしたる問題ではない。
九郎という人間の判断基準は、いつだって「後味の善し悪し」だ。
結局の所、大十字九郎はどうしようもないお人好しであり、救いがたい善人なのだ。
九郎は大仰に漆黒のマントを翻した。
発光する魔術文字の数々が紅の裏地を奔る奔る奔る。
大きく一つ息を吸い込んで、瞑目。第六感も含めた全感覚を強化する。
星の精<スターヴァンパイア>を見つけ出す手段は、無いわけではない。
不可能を可能にし、相手の論理を不屈の意志と更なる論理で打ち砕くのが魔術の本質だ。
意識を拡大させる。脳内から全身へ、全身から部屋中へ、部屋中から図書館へ、図書館から外へ。
そして――、引っ掛かるものがあった。
とても微弱だったが、確かに感知した。
「早速か……。それじゃ化け物退治としゃれ込みますか!!」
叫んで、九郎は窓から飛び降りた。
マントが、まるで翼のように変質して夜風を乱暴に叩く。
九郎の体は月と星と闇の支配する空へ、軽々と舞い上がった。
2.
誰もいなくなったはず館長室に、いつの間にか女の姿があった。
濃い紫色のパンツスーツ。暗黒色の髪。小さな眼鏡を鼻の先にちょこんとおいた紅玉の瞳を持つ女だ。
女は、革張りの椅子に腰掛けながら、くすくす笑っていた。
「やっぱり君が来たか。これで運命は再び回り始める。ああ、楽しみだ。実に楽しみだ。
九郎君。早く早く復活してくれたまえ。そして『僕ら』を追いかけてきてくれ。君は、君たちはこんなところで立ち止まっていちゃいけない存在だ」
愛おしげに呟くその姿はまさしく狂気。
美しい顔に張り付いているのはまさしく狂喜。
「君の求めるものは、此処にある。『彼』に打倒され、世界中に散らばった断片も、やがては此処に集うだろう。『本体』も既にこの都市のなかにある。君はその在処にまだ気が付いていないみたいだけど、それも時間の問題だ。
それに、あの機械仕掛けの木偶の坊もじきに蘇る。
そしたらそしたら九郎君。ああ、愛しの『神殺しの刃』よ。どうか『僕ら』を追いかけておくれ。そしてまた始めよう。あの度し難く悍ましく、何よりも美しい狂宴を」
3.
「やれやれ、思ったよりも遅くなってしまった。向こうで泊まって来た方が良かったかもな」
空を見上げながら、龍宮真名は呟いた。
手にはやたらと重そうなギターケース。中身は推して知るべしと言ったところ。
「そうだな」
真名の呟きに答えたのは、やたら長い竹刀袋を肩に掛けた桜咲刹那だ。
二人は丁度、学園から依頼された仕事を終えて帰ってきた所だ。
依頼内容は学園外の妖魔退治という極々シンプルなものだった。
対象の妖魔は特に特徴のない極々一般的な悪魔で、さして強くもなかった。
さらに二人が現場に到着すると同時に強襲してきたため、予想外に早く事が片が付いてしまったのだ。
一人だけでも十分だったかも知れないな。と刹那は胸中で呟きながら、ぼんやりと足を進めていた。
学生寮までもう少しと言ったところで、真名が急に立ち止まった。
「龍宮?」
刹那が不審に思って真名の顔を見ると、真名の顔は硬直していた。
それは紛れもなく恐怖と怒りによるものであった。
刹那は龍宮と知り合って割と長い、クラスメートとしても、仕事の相棒としても、だ。
しかし、今までこのような表情を見たことはなかった。
冷静沈着な真名のイメージからはほど遠い、ある種の激情、それも酷く暗い性質のものに囚われたその表情に、刹那は戦慄にも似た驚きを覚えた。
「どうした龍宮、顔色が悪いぞ?」
「――――ウスだ」
ぼそりと、蚊の鳴くような声で龍宮が呟く。
それは幼い少女が漏らす恐怖の吐息であり、怯えと激憤の入り交じった静かなる叫びであった。
「何?」
「緊急事態だ、刹那。麻帆良に魔術師<マギウス>がいる!!」
魔術師<マギウス>。
魔法使いよりも、呪術師よりも、深い闇に生きる者、暗い世界の深淵に臨む者。
杖でもなく符でもなく、呪われた禁断の魔導書を用いて秘術を行使する、異形なる奇跡の織り手。
その性質はほぼ例外なく残虐にして傲慢。苛烈にして冷酷。
何故、真名が魔術師<マギウス>の存在を探知することが出来たのか、刹那には知るよしもなかった。
だがしかし、刹那とて裏の世界に身を置く人間だ。直接対峙したことは無いとはいえ魔術師<マギウス>の活躍の数々はその善悪を問わず、当然聞き及んでいる。
数百年を生きたイギリスの不死たる妖術師『妖蛆の王<ワームロード>』ディベリウス。
最低最悪の魔法使いにして、恐るべき魔術師<マギウス>『聖書の獣<ザ・ビースト>』アレイスター・クロウリー。
謎めいた紳士。地球上の現存する如何なる言語にも属さない謎の言語で記された書を操ると聞く、狂気の陰秘学者『土星の輩<サクセサー・エイボン>』ウェスパシアヌス。
エジプトにて無謀の神を信仰し、現世に邪悪なるものを復活させようと跳梁跋扈する『強壮なる使者』アウグストゥス。
黒眼鏡の老人。蝙蝠の羽を持つ蜂にも似た謎の動物を使役し、空間転移じみた速度で移動する『神出鬼没』ラバン・シュリュズベリィ。
一年前突如として現れた究極の破壊魔。数々の魔術師<マギウス>を打倒し、究極の書を探し求めていると伝え聞く『巨匠<グランドマスター>』。
彼らの目的はそれぞれ異なるが、その目的と手段は唾棄すべきものばかりだ。
善悪を超越して外道、それが魔術師<マギウス>のあり方だ。
彼らのその精神はどこまでも異形であり、神すら操れるという妄想じみた考えを持つ者すらいると聞く。
世界に名だたる彼らのような魔術師<マギウス>が麻帆良に侵入してくるとはあまり考えられなかったが、それにしてもただごとではない。
一体何が目的――もしやお嬢様の誘拐か? そうなれば一大事だが――なのだろうか?
「龍宮、それは本当なのか?」
刹那の問に答えることなく、真名は走り出した。
その後ろ姿は、何かから逃れようと藻掻くようにも、あるいは失った何かを取り戻そうと足掻くようにも見えた。
普段の真名とはあまりにもかけ離れたその姿に、刹那は一瞬呆然となった。
けれども、刹那はすぐさま気を取り戻し、真名の跡を追い掛けた。
魔術師<マギウス>の事も気になったが、それ以上に普段の冷静さを欠いた真名のことが心配だった。
3.
桜通り。街頭の光が消え去った暗澹たる闇の中に、二人の少女の姿があった。
一人は――――おそらく高校生だ、どことなく修道服めいた雰囲気のある制服からすると聖ウルスラ女子高等学校の生徒であろう。
ただし、今はその制服は手ひどく切り裂かれいた。
元々清楚なデザインである制服が無惨にも切り裂かれている様は酷く冒涜的であったが、同時に見る者の攻撃的な性欲をかき立てる背徳的な美があった。
そして、その少女のほっそりとした首筋に、可愛らしい桃色の唇を柔らかく押しつけるもう一人の少女の姿があった。
ゴシックロリータ調の幾重にもレースの付いた下着にも似た漆黒のドレス。対照的に月光を受けて燦然と輝く透き通った白い肌。金色のロングヘア。夜闇に溶けるような黒のマント。
そう、彼女こそは、『闇の福音<ダークエヴァンジェル>』『人形使い<ドールマスター>
』『不死の魔法使い』数々の異名を持ち、数百年の年月を生きた真祖の吸血鬼<ハイデイライトウォーカー>、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルである。
エヴァンジェリンの鋭い牙は深々と少女の首筋に食い込み、頸動脈を突き破っていた。
少女から溢れ出る真赤な血はエヴァンジェリンにとって極上の供物である。
エヴァンジェリンは少女の芳しい鮮血を一滴たりとも逃すまいと、少女の首筋に穿たれた二つの穴を柔らかな舌で何度も何度も、それこそ執拗なまでになぞりあげる。細い喉をこくんこくんと動かしながら、少女の脈動に合わせて溢れ出だす甘露を嚥下する。
それは正しく吸血行為であり、同時に百合の花を彷彿とさせる異形の愛撫でもあった。
少女の顔には苦悶の表情は無かった。
あるのは快感による顔の紅潮と、至高の恍惚のみであった。
魔力の譲渡行為、もしくは魔力の略奪行為。要するに魔力を交換する行為には得てして性的快楽がつきまとう。当然それは吸血鬼による吸血行為においても同様である。
更に吸血鬼は獲物を狩るにあたって、獲物に対して催眠術を施し、自分の存在を隠そうとする事がままある。そして人間は限界を超える快楽を受けた後――つまりは絶頂に達した後――に催眠術を受けると、それをあっさりと受け入れてしまう性質持っている。
そのため、吸血鬼による吸血行為には他の魔力交換儀式を軽々と超越する快楽が介在するのだ。
それは人間の源感情を刺激する暴力的かつ破壊的なものであり、性に目覚めたばかりの年若き少女がエヴァンジェリンの数百年の研鑽を積んだ愛撫に耐えられようはずもなかった。
尋常ならざる手段によってもたらされた少女の精神に与えられる完全なる一体感は、母の子宮で見ていた夢よりもなお温かで優しい安心感を持っていたが、反面、地獄の業火よりも熱く激しい快楽を孕んでいた。
その相反する快感と恍惚の嵐の中で、少女は自らを喪失していた。
熱く潤った瞳はとうの昔に正気を失っており、目の端からは幾筋もの涙がふるふると溢れ、柔らかな頬をつうと撫でる。
唇より流れ出た唾液がゆらゆらとあごを伝いその首筋を汚してゆく。
柔肉で造形された舌が、てらてらと妖しく輝く唾液を纏って中空へと突き出され、舐めとるような、あるいは絡ませるよう卑猥な仕草でくるくると虚空をなぞる。
艶めかしいその動きは、いったい何を求めてのものであろうか?
もはやそれは彼女自身でも理解することは出来なかった。脳内麻薬とそれ以外の何かに痺れきった脳髄はとうの昔に理性などと言うモノを放棄しており。快楽を得るという生物の基本的本能が促すままににその体を動かしていた。
半ば痙攣じみた細やかな全身の律動はどことなく可愛らしい小動物を彷彿とさせ、口蓋から漏れる鼻にかかった甘い声と相まって、年齢不相応の尋常ならざる色気を醸し出していた。
彼女は既に人ではない、快楽を貪るだけの獣だ。
人から獣への堕落を彼女は嘆かなかった。むしろ更なる堕落を望み、獣よりも更又に下劣なるモノに堕ちることすら厭わなかった。
この快楽に、この悦楽に永劫に溺れていたいと、そう願いすらした。
「あっ……………」
唐突に、少女から失望と名残惜しさが入り交じった吐息が漏れた。エヴァンジェリンがその顎を離したのだ。
少女の首筋とエヴァンジェリンの舌の間に、鮮血と唾液が混じり合った液体によって橋が出来る。
酷く淫靡なソレは、月の光をひとたび反射するとぷつりと切れた。
「ふむ。こんなものか………………」
エヴァンジェリンは満足げな表情でうなずいた。
この少女の血の味はなかなかに良かった。甘く柔らかな口当たり、喉ごしのさわやかさと来たら相当なモノであった。さらに、魔力の質、量ともに申し分ない。
やはり血は処女か童貞のものに限る。
もう少し味わいたかったが、これ以上は少々気が引ける。
死んでしまうことは無かろうが、それでも加減はすべきだ。この少女にも日常があるのだから。
それに、あまり派手にやりすぎて学園側に感づかれてしまえば元も子もない。今は目的のために行動しているのだ。
登校地獄の呪いを解くために。全てはあのネギ・スプリングフィールドとの対決のために、今は慎重に行動しなければならない。
図書館事件の際に呼び起こされた自分とは別種の吸血鬼。天に昇ったか地に潜ったか、その存在をエヴァンジェリンは感じ取ることは出来なかったが、これは好機である。
なにせ吸血行為がばれたとしても、いくらかはその吸血鬼にその責任を押しつけ、自分は関係ない無罪潔白であるとある程度は言い張ることが出来るからだ。多少派手に動いたところで問題はないだろう。
「とはいえ、用心に越したことはない。娘」
未だ焦点の定まらない、快楽に混濁した虚ろな瞳で、少女はエヴァンジェリンに向きなおる。
少しやりすぎたかもしれないな、とエヴァンジェリンは内心でちょっぴり反省しながら、娘に向かって暗示を掛ける。
乱れた服装を戻してやろうかとも思った。
しかし、事件の犯人の手段を慮るに、このまま放置しておく方が無難だろう。
全身に切り傷と骨折を与えたほうが良いのだろうが、さすがにそれは後味が悪かった。
それに、エヴァンジェリンは吸血鬼ではあるが、残虐な性格ではない。
いくら自分の目的のためとはいえ、むやみやたらと人を傷つけるのはエヴァンジェリンの流儀ではない。
本人は否定するだろうが、彼女も本質的には善人なのだ。
突如、エヴァンジェリンは魔力を備えた何者かが接近してくる気配を感じた。
「――――――――誰か来る」
現場を見られるわけにはいかない。そんなことになればいくら何でも一発でバレてしまう。
「…………チッ!」
後処理もほどほどに、エヴァンジェリンは舌打ちすると、マントを羽ばたかせて夜の空へと飛び立った。
4.
「おい、大丈夫か!?」
冷たいアスファルトに横たわる少女に九郎が問いかける。
しかし、返事はない。
「クソッ!!」
九郎は悪態を付きながら少女を抱き起こした。
少女の体に手をかざし、魔術を使って今の少女の状態を大まかに検査する。
軽度の失血。軽い催眠もしくは暗示の痕跡。それと、何処かで嗅いだことのあるような魔力の残り香。
星の精<スターヴァンパイア>の仕業ではないかと訝しんだが、どうも雰囲気が違う。星の精<スターヴァンパイア>ならばもっと陰惨に獲物を喰らう。
星の精<スターヴァンパイア>の食後の風景は極めて悲惨である。獲物がもとの姿をとどめている場合などあり得ない。
ズタズタに切り裂き全身の血をむさぼり食うのが連中の習性だ。
大抵は肉塊かボロ雑巾みたいなミイラに成り果てる。
奥涯館長が、特例中の特例なのだ。
この少女は星の精<スターヴァンパイア>に襲われた訳ではないようだ。となると誰に襲われたかという問題が浮上してくるが…………。
とりあえず、その問題は保留しておく。ともかく、少女は衰弱しているものの命に別状が無いようなので九郎はほっとため息をついた。
そして、安心して気を抜いた九郎は気が付いた。気が付いてしまった。
「……んなッ!!」
少女があられもない格好をしていると言うことに!!
ほどよく火照った白い肌から立ち上る脳髄――視床下部とかその辺――を直撃する不可議な香り。若さに溢れた瑞々しい髪の毛がほどよく乱れ、甘美な香りをたたえる汗によってまとわりついたその様は年齢不相応の艶めかしさを醸し出しており、なんというか男の丹田あたりに強烈な一撃をぶち込む威力を兼ね備えていた。
触れれば折れてしまいそうな、ほっそりとした鎖骨のキュートな窪みのプリティな色気、肩口から首筋までのたおやかな曲線美ときたら、むしゃぶりつきたくなること請け合いである。
薄い脂肪の向こうにうっすらと浮いた腹筋の可愛らしいラインときたら破滅的だった、これこそ健康美の極み、ある種の究極である。第十二番肋骨の作り出す芸術的な楕円曲線は一種のフェチズムに傾倒する、ひじょーにたまらん何かがあった。
そんな少女の、薄桃色の可愛らしい下着に覆われた、慎ましやかな胸に目がいってしまったからと言って誰が九郎のことを責められようか?
いや、責められまい。
男――いや、漢ならば当然である。むしろ見ない奴の方がどうかしている。
そして、大十字九郎はまごうことなき漢であり、質の悪いことにロ(検閲)ンのケもある。
ぶっちゃけ、九郎のストライクゾーン直球外角やや低めであった、ふくらみかけってのも重要なポイントだ。高得点だ。むしろホームランも狙える。
思わず生唾をゴックンと飲み込んでしまったとしても、それは仕方ないことだ。
大丈夫。誰も君を責めたりしない。
君の戦いに共感し、優しい言葉を掛けてくれるだろう。
おめでとう。そしてありがとう。
「いや、そーでなくてな」
ずびし、っと九郎はつっこみを入れる。
とりあえず、九郎は何か服を掛けてやるべきだろうと思い至ったが、あいにくと九郎の着ているスーツは悲しいことに九郎の持つ唯一の一張羅であった。
魔術で変質させた怪しげなマントなんぞ掛けるわけにもいかない。
なので、魔術を使って、服を直そうと手をかざしたところで――
「ここかっ!?」
――突然、二人組の少女が草むらから飛び出てきた。各々、刀とか銃とか物騒なエモノを手に持って。
二人が見つめるのは九郎と、その腕の中にいる、どことなーく事後っぽい少女。
すっげえ嫌な予感が九郎の脳裏を駆け抜けた。そりゃあもう最悪のベクトルでずんどこに。
File02「星の精<スターヴァンパイア>」……………………Closed.
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