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File07「闇から逃れ得る者無く」 投稿者:赤枝 投稿日:04/11-23:12 No.283

魔導探偵、麻帆良に立つ

 File07「闇から逃れ得る者無く」

1.


 宵闇は深く。星々は輝き。天上には月明かり。
 街を照らし出す街灯の光は、もはや此処には届かず、星と月の照明だけがこの場所を照らし出す儚い光源。
 その弱々しい光は夜の闇を駆逐しきる強さはなく、薄い明かりが、その場を照らしていた。


「え……………………?」


 けれども、それで十分であった。
 此処にいる禍々しきモノの姿を曝すには、それで十分であった。

 むしろ、それに救われた。
 こんなモノを明るい光の元で直視した日には、それこそ発狂しかねない。


 びちゃびちゃと何かを啜るような舐るような奇妙な音が聞こえる。


 なんだ、これは。

 其処は屠殺場であった。
 先ほど空を飛んでいた犬は、もはや原型を留めてはおらず。毛並みの色から辛うじて犬であったのではないかと推測できた。
 けれどもその全身はずたずたに引き裂かれ、水分という水分を失い、今にも枯渇しようとしている。
 其処まではまだ良い。其処までならまだ良いのだ。まだ常識の範囲だ、認めがたいが常識の範囲にある現象だ。

 変死体と化した犬を、中空に持ち上げているモノがいるのだ。

 なんだ、コイツは。

 まるで海に漂うクラゲの奇形種、密林の奥地に住まう巨大な蛭の巣。あるいは意志を持った消化器官の群生体、臓腑に群がる寄生虫。コイツはそれらに共通する生物学的なものを備えた何かだ。
 地球上の如何なる生物とも決して合致しないであろう体躯を持ちながらも、その姿は何処までも生物的であった。
 
 酷く朧で曖昧な輪郭を持つ深紅の塊だった。
 それが脈打って震えている。巨大なゼリー状の体を不気味にも蠢かせ、全身に備わる無数の触手を打ち振るわせながら蠢いていた。触手の先に備えた無数の口から、あの胸糞の悪い笑い声を放ち続けている。
 何百とある触手の内の十数本によって、犬の変死体が中空に縫い止められていた。そのうちの何本かは蛸か烏賊のような頭足類のごとき器用さをもって犬――あるいはかつて犬であったもの――を宙に吊していた。
 触腕に備わった爪とも牙ともつかない器官が、犬の毛皮を切り裂いていた。そこから流れ出る血を、他の触手が吸盤めいた口先で舐め取り、そのたびにさっきから聞こえ続けるあの癪に障る笑い声を上げる。

 現実が歪む。右巻きの世界が左方向に回り始める。重力が逆転現象をおこし、平衡感覚が喪失し、確固たる大地は汚泥と化した。冬の冷たくも洗練された空気は鉄錆と臓腑の匂いに満たされて、蛆が這いずるが如き速度で腐乱してゆく。現実と乖離した自我が幾度と無く暗転と反転を繰り返し、絶望から鋳造された坩堝の中で闇と光と混沌が和美の精神を苛んだ。
 
 
 目の前のこの光景に、有り得ざるこの悪夢に、受け入れがたく禍々しいこの現実に、和美の脳はオーバーフローを起こした。
 紡ぐべき言葉を忘却し、避けるべき事態を忘却し、拒否すべき現実を忘却し、和美はただ呆然と立ちつくした。

 やがて全ての血液を汲み尽くしたのか、ソレはからからにひからびた犬の死体を投げ捨てる。

 放物線を描いて、犬の死体は和美の胸元にトン、と当たった。
 音と同じく、その骸も軽いモノだった。そのまま骸は和美の足下に落下してゆく。
 命とはこんなに軽いモノだったのだろうか。
 
 乾いた音を立てて、それは地面に落ちた。

 湿った土の上に無惨な姿で横たわるそれは、生き物だった頃の原型は留めて居なかった。 
 枯れ果て千切れた流木のごときその体躯、未だ生ある和美を呪うかのような視線が、虚ろな眼窩より注がれる。

 その誘うような闇に、閲してはならない暗黒に、和美の感情が復活した。

 本能ががなり立てる。


「えんぶるぐしゅにぐらぁぁぁぁぁ?」


 逃げなければ、逃げなければ、逃げなければ、逃げなければ!!

 この場所にいてはいけない!! 此処にいてはいけない!! このままでは、次は、次は!!


 頭はそう命じるのだ、脳の中の一番中心の根元的な部分から命ぜられるその指令は、絶対的なモノだ。其れなのに。それなのに和美の体は言うことを聞かなかった。

 脚と腰から力が抜け、その場にへたり込んでしまう。

 ダメだ。このままでは、このままではあのように!! この足下に転がるモノの様になってしまう!!


「ヒッ!!」


 後ずさりしながらその場から逃げ出そうとするが、足首を何かに捕まえられてしまったかのように動かない。

 足下に目をやるが何も見えない――いや、見えないだけだ。触感で何か、酷くひんやりとしてすべすべした何かが脚にまとわりついているのが分かる。


「何よぉ……。何なのよぉ……これぇっ!!」


 数メートル離れた先、件の化け物のから、脈動に併せて一本の触手が伸びてくる――、いや違う。これはコイツがさっき食らった犬の血が、化け物の触手の中を巡っているのだ!!

 その証拠に、徐々にのびてくる鮮血色のソレは透明なパイプを満たすように、和美の足に絡みついた見えないそれを、ゆっくりとに鮮血色に色付かせてゆくではないか!!

 脈動に合わせて渦巻くように、かつては犬の血液であり、今は名も知らぬ化け物の滋養となろうとしているモノが、和美の足下に絡みついている触手を完全に染め上げた。先ほどまで不可視であった触手は、目の先にうずくまる深紅のゼリー状の化け物と同様に曖昧で朧な輪郭をもち、その不気味な姿を顕現させる。


「イタッ!!」


 完全に姿を現した触手が、爪とも牙ともつかない謎の器官で、和美の足を傷つけた。
 トロトロと血が流れる。傷口を酷く粘性の高い何かが覆い尽くし、ぴちゃぴちゃと舐めるような啜るようなあるいは液体を咀嚼するような奇妙な音が聞こえる。
 足を掴む触手の色が、一際強くなる。


「あるるけみうとぅす、んばえるぷするぅ、いんびしししわえうぇると!!」


 ああ、つまり自分はただの餌にすぎないのか。
 これから自分がどうなるかということを悟り、和美は自分の勘の良さを呪った。
 あの胸糞の悪い悲鳴、どこか喜びの色のようなものがあるその声に、和美は絶望を覚えた。

 感情が、爆発した。


「いやぁぁぁぁぁぁぁぁ!! 何なのよアンタ!! 止めて止めてお願いだから止めてよ!!」


 叫ぶ。言葉が通じるだなんてとうてい思えなかったが叫ばずにはいられなかった。
 他に何が出来るというのだろうか?

 しかれども、怪物は無慈悲である。むしろ悲鳴に気をよくした様に歓喜の叫び声を上げて、いくつあるかなんて考えたくもない触手を脚のように動かしながら、和美に向かって近づいてくる。鈍重そうな外見とは裏腹に、化け物の動きは気味の悪いほど俊敏だった。
 あっという間に和美の足下まで近づいて、化け物は再びあの反吐が出る叫び声を上げた。


「ええええ、くるしゅるあがとる、あんぶるごーてぃわす!!」

「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」


 怪物が無数の触手を蠢かし、爬虫類を思わせる尋常ならざる動きで和美の体を掴む。そのまま和美を中空に持ち上げた。

 触手の酷く気味の悪い感触。まるで鞣し革のようにスベスベとした、グミのように柔らかな触感を持つ触手の数々が、和美の体を這い回り、次々に拘束してゆく。
 抵抗はした。けれどもそれは無駄であった。触手は小枝のように細かったが、その力はまさしく化け物の如く強く、和美の力ではとうてい抗えるものではない。
 手首から這い寄る触手が、腕の関節を固定する。
 一際細い触手が、耳を掠め、頬を撫でて、唇をなぜる様に顔を覆い尽くした。一切の光が目に届かなくなる。酷く気味の悪いモノが、それこそ蛆虫か巨大な幾千幾万の蛭が顔面を蠢いている様な感触に、和美は必死になって瞼を閉じ、口を噤んだ。

 恐怖が増大した。見えていても怖かったが、見えなくなったことで殊更に恐怖が増大した。
 足首から順にずるずるとまるで蛇が這いずるような動きで、触手が徐々に上へ上へと登ってくる、肌をやわらかく締め付けるような動きで、足首からふくらはぎへ、ふくらはぎから太股へ。
 内股を触手が走り回る感触には、酷く怖気が奔った。こんなモノが、自分の体を這い回っていることが許せなかった。

 しかし、それよりも、それよりもだ。頼むからそれよりも先に進んでくれるなと、切に願った。
 このような化け物に、まさか自分が犯されてしまうなど、想像したくもなかった。人ではない、得体の知れない化け物に自らの純潔が奪われてしまうなど、想像したくもない!!
 化け物は残酷にもその触手を足の付け根にまで侵攻させ、なにやら探るような動きをしていたが、何が目的かなんて知りたくなかった。
 
 数々の触手が飽きを知らぬ白痴の如く蠢きながら和美の胴を固定した。
 和美は何度も体をねじるようにしてどうにか脱出しようと試みるが、全ては無駄な足掻きに過ぎない。全身を固定する触手の力は万力の如く、触手の頑丈さは荒縄のそれを大きく凌駕する。
 

 和美を拘束したことに満足したのか、化け物は再びあの意味不明な雄叫びを上げた!!


「あんがりぅと、ぶふろかしゅとむ、うとぅるほふまき!!」

「ンーーーーー!! ンーー!!」


 悲鳴を上げそうになったが、口を開けることだけはしなかった、こんなモノ共が口蓋の中にまで侵入するなんて事態は避けたかった。
 今や全身を覆い尽くした触腕はまるで何かを探るように、和美の全身をまさぐった。
 ある種の愛撫にも通じるようなその動きに、和美の背筋には筆舌に尽くしがたい悪寒が走った。

 誰か、助けて。

 和美は必死になって祈った、信じてもいない神様に。見たこともない誰かに、ここから救い出してくれる誰かに祈った。
 祈るほか無かった、他に出来ることなんて何一つ無かった。

 けれど、現実は極めて無慈悲に出来ている。世界は優しくなんてない。

 日常の裏側。真実に棲まう闇は何時だって、この上なく残酷でこの上なく無情でこの上なく悪辣だ。

 朝倉和美は知るべきだったのだ。

 自分の立ち位置を、自分の在処を、自分の力を、なにより自分自身を。


 触腕が、牙と爪を以て和美の柔肌を切り裂いた!!


「――――――――――!!」


 もはや顔を覆っているモノが何であるかなど問題ではなかった。
 そんな余裕なぞ何処にもなかった。
 あらん限りの力をもって瞼が開いた。
 必死になって噤んでいたはずの口がほどけた。
 全身に奔る激痛に、和美は耐える術を持たなかった。
 目の端から涙がこぼれる。口から音にならぬ悲鳴が漏れる。

 体中の至る所に傷が付けられ、和美の鼓動に合わせて血液が流れ出てゆく。
 傷口に触手が殺到する。傷口から溢れ出る血液を啜ろうと、飢えた狼の如く、盛りの付いた少年の如く、和美の肌を嬲る。触手で、牙で、口で、舌で、それ以外の器官で、ひたすらに責め立てる。
 得体の知れない、そもそも何であるかもよく分からないものに、自分が喰われていく様が知覚できるというのは悪夢以外の何物でもなかった。

 和美は脳髄を直撃する激痛に苛まれながら、徐々に自分の体から血液が奪われていく様を体感しながら、激痛の海に溺れながら、頭の中に僅かに残った冷静な部分で九郎の忠告の真の意味を理解した。

 闇の世界は、深く暗く。そこの住人は確かに自分の理解と想像を大きく超えたモノであった。
 自分の命が惜しいのならばこんなモノと関わり合いを持とうなんて馬鹿な考えを起こすべきではなかったのだ。
 こんなモノ、ただの人間が敵うモノではない。

 そんなことを考えていると、徐々に痛みが引いてきた、痛みに変わりに全身に猛烈な寒気が襲う。
 しかし、その寒さも次第に気にならなくなってくる。むしろ心地よいような軽さが全身を包み始める。和美の意識は、まるでベッドの中に居るように、ゆっくりとゆっくりと眠りに落ちてゆく。

 ああ、もうそろそろ、だめかも。

 徐々に混濁し始める意識の中で、漠然と悟った。

 失敗したなぁ。もうちょっと上手くやれば良かった。
 でもまあ、楽しい人生だったかな。ちょっと短かったけど、それはそれで。
 お父さん。お母さん。ごめんなさい、和美は親不孝者でした。


「調子こいてんじゃねぇぞ!! この腐れインベーダー!!」

「びぎぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃいぃぃぃぃぃぃいいいぃぃぃ!!」


 酷く威勢の良い怒声を聞いたのは、もう諦めようかと思ったときだった。

 誰だろう? ついさっきまで聞いていたハズの声なんだけど。おもいだせない。

 突然。落下感が和美に襲いかかった。
 一瞬の浮遊感。このまま何処までも落ちてゆくのかな、なんて思っていたら、とても力強い何かが途中ですくい上げてくれた。


「おい!! 朝倉、生きてるか!!」


 男の人の声だ。知ってる声、えっと、誰だったっけ? く、くく――だめだ思い出せない。
 音がある方に目をむけてみたけど、まっくらでもうなにもみえなかった。


「ちょっと荒っぽくやるけど許してくれよ……」


 意識が断線する直前に、唇にとても温かくて柔らかいものが押しつけられた。

 たいそう心地よい感触のそれは、和美の唇を強引に押し開き、熱くて甘い液体を流し込んできた。

 それを嚥下すると同時に、和美の意識はぶつんと千切れた。


 


 


2.


 
 ザクザクという、あの耳障りな時計の音で和美はっとした。

 相も変わらず、棺桶の形をした時計は不規則なリズムで不規則に時を刻んでいた。

 夢を、夢を見ていたような。それもとても酷い悪夢を、今まで見たこともないような悪夢を見ていたような気分だ。

 はて、眠ってもいないのに夢を見ていたというのは、なかなかに奇妙ではないか。

 ああそうか『ついさっき』幽霊をみたりしたから、ちょっと意識が飛んでいたのかもしれない。
 まあ、あれだけショッキングなモノを見せられたのだ、仕方がないと言えば仕方がない。

 そうだ、幽霊だ。
 あんなことが出来る九郎は一体何者だというのか?
 

「ちょっと刺激が強すぎたかな?」


 そういって九郎は笑う。人好きのする微笑みだったが、呆然としていた自分の顔を見られたかと思うとちょっぴり恥ずかしかった。


「ええ、流石に驚きました……」

「顔色があんまり良くないけど、気分はどうだ?」


 気遣うように、九郎が言ってきた。
 気分は悪くない、むしろ高揚している。心臓はいつもより早く脈打っている気がする。
 何故か体の底から活力が漲っている、更に言うならば、ちょっと体が火照っている気がするのだが、まあ特に気にすることもないだろう。
 たぶん、幽霊を見て気が動転した後遺症か何かだろう。


「いえ、なんというか。いつもより調子良いぐらいですね。何ででしょう?」

「そうか、それなら良いんだ」


 はぁ、と大きくため息をついて、九郎は疲れたようにその体をソファーに沈めた。
 なんだか大げさだなぁ、と思いながら、和美は腕時計に目をやった。
 寮の門限ギリギリであった。このままではちょっとやばい。後でお説教を受けたくはない。


「すいません。なんか知らない内に長居しちゃったみたいで」

「いやいいよ。無事だったんだし……」

「は?」

「いや、なんでもない」

「とりあえず、今日はおいとまします。また『満月の夜の吸血鬼』に関してのお話聞かせてください」


 そういって和美は立ち上がった。
 軽く会釈して、和美は書斎を出た。そのまま玄関までやってきたところで、


「送るよ」


 黒いコートを着た九郎が和美の隣にやってきた。


「え? いいですよ。ここから寮までそんなに離れてませんし」

「いや、こんな時間に女の子を一人歩かせる訳にはいかない。『襲われたりしたら』それこそ後味悪ぃからな」


 突然、既視感が襲ってくる。以前にも九郎と同じ様なやりとりをやったような気がする――何時だ、九郎とは今日が初対面のハズだ。
 そのときは断った様な――、だめだ。思い出せない。
 いや、そもそも知らないはずの記憶をどうして思い出すことが出来るというのか――。

 訳の分からない感覚に襲われながらも、和美は九郎の申し出を考えた。
 まあ、別段断る理由もない。送り狼になりそうなタイプでもないし、そもそも彼は恋人がいると言っていたから、まあ大丈夫だろう。
 それに九郎ほどの腕ならば――ん? なぜ九郎が腕が立つだなんて知っているのだろう?

 さっきから記憶の混濁が目立つ。
 

「んー、じゃおねがいします」


 そういって和美と九郎は探偵事務所から出て、古びた門をくぐり、街灯が照らす道を歩き始めた。

 和美と九郎が歩く道は、何て事はない、何処にでも在るような、綺麗に整えられた小道である。

 地面のアスファルトの黒さも、大気の冷たさも、すぐ近くの木々の緑も、ちょいと小洒落た造りの街灯も見慣れたもののハズだ。
 だというのに和美はその光景に、何故か涙しそうになった。

 靴底から伝わるアスファルトの感触がとても気持ちいい。
 火照った体を風が撫で、体温を奪ってゆく様に、季節の移ろいを感じる。
 冷たい空気が胸に満ちてゆく感触に、心臓の脈動に、生を実感する。
 木々の緑は、街灯から漏れた光で穏やかに眠っている。その姿はまるで母の胸で眠る幼子。

 夜の闇を駆逐する、街灯の光に安心する。
 隣を歩く九郎の存在が、この上なく頼もしく思えた。
 九郎ならば如何なる脅威が襲いかかってきても自分を守ってくれるという、奇妙な――けれども絶対的な――確信があった。

 なぜか妙に感傷的になっている自分に戸惑いながら、ちらり、と隣を歩く九郎を見つめた。

 始めて出会ったときの第一印象はお世辞にも良くなかったが、無言で引き締めた表情をしていると、なかなかどうして格好いいではないか。
 いや、格好いいと言うよりは、綺麗と言った方がふさわしい。精悍な顔つきながら、どことなくフェミニンな柔らかさがあるような気がする。
 なぜだか、九郎の唇に目が行った。薄桃色のそれは健康的な柔らかさを備えていて瑞々しい。ルージュどころかリップすら塗って無いだろうに、酷く艶やかで、どこか色っぽい。


「ん? どうかした?」


 怪訝に思ったのか、九郎が和美に声を掛けた。
 さっきまで顔をつきあわせて散々話していたのに、九郎のその視線が自分に注がれているかと思うと、なんだか照れる。
 とっさに出てきた言葉は、


「いえ、九郎さんって、よく見ると女の人みたいな顔してるんですね」


 さっきからずっと考えていたことだった。
 よくよく考えたら、男の人はこんなこと言われても全然嬉しくないんじゃ無かろうかとも思った。
 でも、本当のことだ。
 ホントに、綺麗な顔をしている。


「……それは喜ぶべきなのかなぁ、なんか褒められた気がしないんだけど」

「褒めてるんです。――そうですね、女装とか似合いそうですよ?」

「止めてくれ。頼むからそのネタだけは止めてくれ、人間誰しも忘れ去りたい黒歴史ってのはあるもんだ」


 和美の両肩に手を置いた九郎が、酷く真剣な顔をして和美にズイと迫る。
 掌に掛かる力は九郎が積み上げてきた哀愁の念を積み重ねているのか、ちょっぴり痛い。
 目はどことなく据わっていて、何をそんなに真剣になっているのかと――、ああ、もしかして。


「……やったことが?」

「……ノーコメント。」


 心底嫌そうな顔をする九郎がどことなくおもしろくて、和美はくすくすと笑った。
 本当にころころと表情が変わる人だ。
 事務所ではあんなに怖い顔をして私のことを脅してきたのに、こうやって嫌がる姿はなんだか子供っぽくてかわいいと思う。

 九郎のことがもっと知りたい、そう思った時、


「――ッ!!」


 突然、心臓がどくんと跳ねて、目眩に襲われた。
 体が熱い。全身の細胞が一気に活動を開始したような、そんな感じ。
 頭の奧でドクドクと何かが脈打っている。
 心臓の鼓動に合わせて動くそれは、三半規管を狂わせた。


「あれ?」


 ふらり、とバランスを崩して、和美は倒れそうになる。

 あわや転倒といったところで、九郎は和美の体を抱きかかえた。
 九郎の腕の力強さに、和美はまたしても既視感を味わった。

 だがしかし、今回はその既視感も一気に吹っ飛んだ。
 男の人に抱きかかえられているという事実が、和美の脳天を一気に沸騰させた。
 思った以上に強い腕力だとか、細身のくせに筋肉質な体つきだとか、頬にあたる厚い胸板の向こうから聞こえてくる九郎の心臓の力強い鼓動だとか、至近距離でこちらを覗き込んでくる九郎の顔だとか、こちらに向かって「大丈夫か?」といって、艶めかしく動く唇だとかが、和美の混乱をさらに煽る。

 おかしい、絶対におかしい!!

 なんか心臓が破裂しそうなくらいバクバクと動いているし、九郎の唇から何だか目が離せないし、このまま九郎の香りに包まれているのもいいかなとか思い始めてる。
 顔が真っ赤になっていることを自覚しつつ、九郎の腕を振り払おうと思うのだが、なんか力が入らない。
 なんというかこのまま抱きしめられたまま、最後まで――ってなにを考えているのだ!!
 風邪をひいた時のように、なんか目が熱い。涙がじわじわと溢れてくる。
 呼吸がどんどん荒くなっていく。待て待て待て!! なんだ、どうしたというのだ、自分の体は!!


「あちゃー。霊酒<アムリタ>の生命力強化が、他のベクトルにまで影響を及ぼしちまったか――」


 九郎が何か言っているようだったか、全く耳に入らない。視覚と嗅覚が、脳髄をがんがんと刺激する。九郎の艶やかな唇はなんであんなに蠱惑的な動きをするのだろうか、もしかしたらあれは私を誘っているのではないだろうか。
 九郎の匂いがたまらなかった。自分を抱きしめている腕の力がたまらなかった。すぐそばにあるぬくもりがたまらなかった。

 脳みその奥のほう、おそらくは本能を司る部分で何かがドクドクと溢れ出す。
 シナプス間でとんでもない量の情報が入出力を繰り返し、発生した興奮が瞬く間に全身の神経細胞を伝播する。まさしく電撃の速度で全身を駆けめぐるそれは、甘く、抗いがたく、魅惑的なものであった。

 体の火照りが頂点を迎える。熱は徐々に疼きと化して全身を苛んだ。
 求めていた。頭が求めていた。体が求めていた。本能が求めていた。
 男。男である。目の前にいるのは男だ。

 呼吸が熱を持つ。荒くなった呼吸が、煮立った脳みその中に酸素をくべてその温度を更に上げる。それとともに、全身にとんでもない酩酊感が広がってゆく。落ちてゆくような、広がってゆくような、極端になるような、説明しがたい感覚。

 やばい、やばいぞこれは。いやもう本気でどうしたのだ。思春期まっただ中の中学生でもあるまい――あ、自分は思春期まっただ中の中学生だったっけ。どうでもいいや。
 知らず知らずのうちに、九郎の胴に手を回していた。はしたなくも自分の体をぐいぐいと押しつける。
 九郎から伝わる熱が自分に伝わり、自分の熱が九郎に伝わる。
 不完全な循環、未完成の無限蛇。覚束ない繋がり、欠けた心。
 まだだ、この程度では、この程度では足りない。
 もっと、もっと深くだ。もっと深く――繋がりたい。

 九郎の唇がだんだん迫ってくる――いや違う、自分が九郎の唇に向かって近づいているのだ。

 いいや。このまま行ってしまえ――。


「落ち着け、この馬鹿ちん」

「あいたっ!!」


 デコピン。割と強烈な痛み。

 その痛みで、和美は正気を取り戻した。
 目の前には九郎の顔。困ったような、けれどもちょっぴり嬉しそうな微妙な表情を浮かべている。

 そして、自分が今まで何をやらかしていたか、と言うことに思い出して、再び脳天が沸騰した。
 混乱しながら手を放し、九郎の腕を振り払った。


「ご、ごごごごごごごごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」


 何かよく分からないけど誤った。他にどうしろと言うのだ。 
 てゆうか何で私が送り狼になってるのか、説明を求む。いや、誰にだ?


「おー、真っ赤真っ赤。まー気にするな、若い内は良くあることだ」


 んな訳無いと思う。九郎の言葉に割と冷静な感想を抱きつつ、和美はいたたまれなくなってその場から逃げ出した。


「きゃーーーーーーーーーー!!」


 悲鳴なんぞ上げながら。

 一人取り残された九郎は、その様子を見て、ちょいとばかり罪悪感を覚えたが、まあ元気になったので良かったかと軽く笑った。


「悪いことしたかもなぁ。ま、あのまんまほっとくわけにはいかなかったし、荒療治だったけど記憶操作も上手いこといったからいいか。もう朝倉が星の精<スターヴァンパイア>とかかわることも無いだろ」


 一切速度を落とさないまま、ものすごいスピードで女子寮――とおぼしき建物――に入ってゆく和美を見て、九郎は黒いコートを翻し、麻帆良の夜に消えていった。




3.


 自分の部屋にたどり着いて、力任せにバタンと扉を閉じると、背中を扉に預けてその場にずるずるとへたり込んだ。
 目眩を起こした後に、全力運動をするもんじゃないよな。と、反省しながら、和美は呼吸を落ち着けた。

 まだ、顔が真っ赤になっているのが分かる。
 間違ってもさっき全力で走っていたせいではない。
 さっきの感触を思い出そうとして――やめた。精神衛生上よろしくない。

 ぱんぱんとスカートについた埃を払って立ち上がった。
 部屋の中には誰もいなかった。ルームメイトは大浴場か、他の部屋に遊びに行っているのだろう。

 助かった。

 真っ赤になった顔を見られて、どうしたのかと聞かれても、何があったかなんてとても口頭では説明したくない。そもそもあんまり思い出したくない。

 封印だ。封印すべきなのだ。

 あんな――

 やば。また思い出しそうになった。
 

「も~~~~~。どうしたってのよ私は」


 頭を抱えながら、一つため息をつく。
 ともかく、風呂にはいることに決めた。
 風呂は命の洗濯だ。ついでに記憶も洗い流してしまおう。

 部屋に取材道具一式を放り出して、備え付けのバスルームに飛び込んだ。
 とてもじゃないが大浴場に行く気分ではなかった。

 服を脱ぐ。
 何気なく洗面台の鏡に映る自分の裸体を眺めて、白い肌にうかぶ赤いラインの存在に気が付いた。


「…………切り傷?」


 全身に切り傷が治ったような痕がある。何時の間にこんな傷が付いたんだろうか。それも割と数が多い。


「なんだろ、これ?」


 首に奔るラインの一本を指でなぞる。特に痛みもなかった。そんなに酷くもないし、このくらいなら明日には消えているだろう。

 疑問に思いながらもバスルームに入る。

 バルブをひねる。少し熱めのシャワーが、和美の肌を叩いた。


「ふぅ……」


 ため息を一つついた。なんか今日は割と散々な一日だった気がする。いや、途中までは良かったのだが、最後の最後でけちがついた。
 終わりよければすべてよしとはよく言うが、それは転じて、終わりが悪ければ全て悪いということということなのだろうか。
 だとすれば、今日は良くない日だったのかも知れない。

 妙にぼんやりとする頭で今日のことを振り返った。

 衝撃的な一日だった。
 変なお姉さんとは出会すし、石ころのなかに変な幻覚は見るし。
 九郎からは吸血鬼が――その他諸々の存在も――実在する、だなんて話を聞かされるし。その後で幽霊は見せられるし。
 ほんと、あの人は何者なのだろうか?
 ただの探偵ということはないだろう。もしかすると魔法使いとかそんな類だろうか?
 荒唐無稽な想像かも知れないけれど、あながち間違っていないような気がする。
 あと、何かあったか?
 何かあった気がする、何かあった気がするが、なんだろう。思い出せない。
 
 記憶を探ろうとした途端、軽く頭痛が奔って、心臓が跳ねた。

 心臓を、片手で押さえつける。


「からだが、……あつい」


 さっきから――違う、あの探偵事務所で幽霊を見た辺りから妙に体が熱い。
 頭が妙にぼんやりするし、逃げ場を失ったエネルギーが体内を循環しているような、そんな感じだ。
 頭の奥の方で何かがドクドクとあふれ出して、全身にむず痒さが走った。


「――――――」


 封印しようと思っていた、九郎の腕の中で感じたコトが和美の脳裏に蘇ってきた。
 どくんと、再び心臓が跳ねた。
 
 それを合図に、体中に電気みたいななにかが走って、体中の細胞に火をつける。
 全力稼働する細胞達が生み出す熱は、和美の中に今まで体験したことがないほどの火照りを生んだ。

 胸にたまった熱を排出しようと、大きく息を吐いた。
 湯気に混じったそれは、自分のモノとは思えないほど色っぽかった。

 疼く。どうしようもないほどに疼く。全身隈無く余すところ無く疼く。
 とりわけ、下腹部の疼きは我慢がならないほどに酷かった。

 腹の上を撫でる。それだけで、脊髄にビリビリとした何かが奔った。


「はっ…………あぁっ!!」

 
 だんだん膝と腰の力が抜けてきて、和美はその場にへたり込んだ。
 シャワーから溢れる水滴が、風呂場の無機質なタイルを叩き、和美の上気した肌を叩き、水音を響かせる。


「ちょっと、ほんと、なによ、これ、洒落に、なって、無いわよ」


 前のめりになりつつ、荒くなった息で嘲るように言った。制御が効かなくなった自分の体を呪うように嗤う。

 何でこんなことになっているのかはさっぱりだったが、これが何かは分かっている。
 自分で言うのもなんだが、割と耳年増なほうなので、自分の身に今何が起こっているのか容易に想像がつくし、これの解消法だって当然知っている。


 鏡を覗く、


「うわ、やらしい」


 鏡に映った自分は、酷く淫靡で、とろけた顔をしていた。
 少しつり上がり気味の目の中の瞳は熱を帯びてうるんでいた。シャワーから降り注ぐ水滴が頬をなぞり、顎元に伝う。下ろした髪が湯を孕み、首筋に張り付いていた。
 荒くなった呼吸とともに、ふくよかな二つのふくらみが上下を繰り返す。肩口から伝わる水滴が乳房の突端にたどり着いてぽりたぽりたと落ちる。

 これは、本当に自分なのだろうか?
 普段のそれと大きくかけ離れたその姿に、そんな疑問が胸中に噴出した。

 勝手に動き出しそうになる指を、必死の思いで止めた。
 和美はつばをごくりと飲み込む。

 だめだ。我慢、出来そうにない――いや、出来ない。

 震える指でシャワーのバルブを全開までひねった。

 水音が全ての音をかき消し、湯気が全てを覆い尽くした。






4.


「お、お、お、お、お、お、お、お~~~~~~!!」


 和美はベッドの上で悶えていた。
 風呂から出てからというもの、自己嫌悪とかそんな感じのものに苛まれ続けている。
 今まであんなになったことは一度もなかった、そりゃこちとら年若き乙女である、当然の事ながらそういうものに興味はある。

 いやしかし、凄かった。止まらなかった。ぶっちゃけヤバかった。


「あったばっかりの人で、あったばっかりの人で……、私は変態かーーーーー!!」 


 目尻に涙なんぞ浮かべつつ、やり場のない感情をよくわからない衝動とともに、とりあえず枕とかベッドにぶつけてみる。

 無論そんなもので、和美の心が晴れるわけもない。むしろなにやら悶々としたものが積み重なって行くような心地ぞする。


「あんな感じの人は嫌いじゃないしむしろどっちかっていうとタイプかもしれな――って何を言ってるか私は!! あーもう!! 今日のことは忘れる!! もしくは何も無かったことにする!!」


 とりあえず、精神衛生上この状態は非常によろしくない。そう決めた。

 さっきまで行き過ぎなほどに調子の良かった体は、今は鉛か泥のように重い。
 あの奇妙は興奮は嘘のように無くなり、とんでもない疲労感だけが残った。
 まあ、疲れるようなことしたし、仕方がないと言えば仕方が……って、また何を考えてるか私は!!
 
 ぶんぶんと頭を振って、必死になって邪な考えを振り払う。
 ベッドから起きあがって、パソコンを起動。
 いつも通り、取材のデータ類を整理して眠ることにした。

 取材道具一式の中からデジカメを取り出して、接続。

 ウィンドウを開いて、データをチェック。




「――――――え?」




 液晶画面に映ったそれを見て、眠気も、疲れも、ほんの少しばかりの浮かれた気分も一気に吹っ飛んだ。

 頭が痛い。

 こんな写真いつ撮ったというのだろうか、記憶にない。

 頭が痛い。

 いや、違う。あるはずだ。此処にデータとして存在するのだ。ならば私はこれを見て、これをデジカメのフレームに納め、シャッターを切ったハズなのだ。

 頭が痛い。
 
 忘れているというのだろうか? 

 頭が痛い。

 いや、こんなモノを撮ったとすれば、こんなモノと出会ったとするならば、決して忘れることなんてないだろう。

 頭が痛い。

 忘れたりするものか。

 頭が痛い。
 
 そうだ、忘れたりするはずは無いのだ。

 頭が痛い。

 体中がガタガタと震え始める。

 頭が痛い。

 ナイフで斬りつけられたような幻痛<ファントムペイン>が全身に奔る。

 頭が痛い。

 血の気の引く音が、耳の奧から聞こえた。

 頭が痛い。


 さっきから頭が痛い。なんだ、なんだというのだ!! これは、この写真は!!


 もう一度だけ、液晶画面にプロジェクトされたその写真を見る。



 そこに写っていたのは、無数の触手を備えた、朧で曖昧な深紅の輪郭を持つ化け物だった。



File07「闇から逃れ得る者無く」………………………Closed.

魔導探偵、麻帆良に立つ File08「まほーのほん」

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