第二十二話



新幹線から降りた一行が最初に来訪したのは、京都と聞けば、万人がこの場所の名を言うであろう、清水寺だった。

山に囲まれたこの高台の寺からは、晴天も手伝って京の町が一望出来る。

「おお、高くて良いな、ここは!」

子供の様に嬉々とした声を上げたのは爆である。
早くもこの場所が気に入ったらしく、縁から身を乗り出さん勢いで広がる絶景を眺めていた。

「本当に、良いですねえ」

その右隣で、うっとりとした相槌が返って来る。

声の主はネギだったが、彼の心は光景よりも寺その物に奪われている様子だ。

恍惚とした表情で年季の入った縁にへばり付きながら、さも愛しそうに撫で回している。

「ああ……この肌触り……」

「……お前はこういう所が好きなのか?」

何とも言えない顔で、爆が怪訝そうに訊ねると、少年は興奮そのままに眼鏡の奥の瞳を輝かせた。

「それはもう! 見てくださいよこれ!!」

ほらっほらっと熱狂的なまでに少年が指差すのは、縁に使われた材木にうっすらと浮かび上がった年輪である。

言葉を超えて謎の生物と会話を交わすことの出来る感受性を持ってしても、それの何処が良いのか皆目検討がつかなかったが、爆はふむと顎を摘むと、

「なら今度、『セーブン』にでも連れてってやろう。同じ様な物が腐るほどあるぞ」

「えッ!? そんな素敵な所が!?」

異世界の理想郷を脳裏に描いて、ネギの双眸が電球さながらに輝きを増す。

趣味の渋さから百八十度くらい目を逸らせば、こういう部分はやはり十歳の少年だった。

「爆さーん!」

その時、背後から少女の元気一杯な声が掛けられる。

それとほぼ同時に、爆の首に細い腕が回された。
視界の端を掠めたピンク色の髪のおかげで、首を後ろに捻る手間は省けた。

「こんな所ではしゃぐと危ないぞ、風香」

柔らかい髪を梳く様に撫で付けると、爆は首に抱き付く少女の腕を外してゆっくりと降ろしてやる。

すると、再び少女の声が爆の耳朶を叩く。
それは風香の発したものでは無かった。

「お姉ちゃ〜ん!」

目を遣ると、やや吊った目を細めて微笑む風香の向こうから、史伽が駆け寄ってきた。
どうやら、姉に置いて行かれたのを慌てて追いかけてきたらしい。

「ダメですよ、勝手に一人でどこか行っちゃ!」

口を尖らせる史伽に、悪戯っぽい笑みを浮かべて青年の背中に隠れる風香。
そのまま追いかけっこでも始めそうな姉妹を見下ろして、爆はやんちゃな妹達に対する兄の様に一喝した。

「こら小娘ども。こんな所で遊ぶんじゃない。落ちたらどうする」

縁こそあるものの、その隙間は決して狭くは無い。
ただでさえ中学生とは思えない程小柄な鳴滝姉妹である。
駆け回っていて、うっかり足でも滑らせたりしたら一大事だ。

しかし爆の注意も気にした様子も無く、背中側に身を隠したままの風香が青年の顔を覗きこんだ。
そして、不吉な含み笑いを唇から漏らし始める。

「ふふふ……ねー爆さん、知ってる?」

「ん? 何をだ?」

訝しがる爆に、イタズラを至高とする少女は更に笑声を深めた。

「ふふっ……清水寺はね、その昔強い武将が度胸とタフさを確かめるために飛び降りて修行した場所なんだよ」

悪魔の囁きである。

それに、史伽とネギが血相を変えて風香に詰め寄った。

「ダ、ダメですよお姉ちゃん! 爆さんにそういうコト言っちゃ!!」

「そうですよ! 信じちゃったらどうするんですか!?」

「あはは、さすがにこんなの本気にしないって」

そう言ってけらけらと笑う風香―――その傍で青年は縁に足を掛け、その数秒後。


彼は鳥になった。


「まったく、酷い目にあった」

『ヂィ……』


下で待っていた爆と肩のジバクくんは、緑豊かな姿となっていた。

無傷ではあるものの、飛び降りた際木に突っ込んだらしく、全身に折れた枝や木の葉が引っかかっている。
付き合わされたジバクくんとしてはいい迷惑だ。

「……自業自得だ」

真名が呆れ気味に背中に張り付いた枝を叩き落とす。


二人が石段を上った先に待ち構えていたのは、これまた有名な『恋占いの石』だった。

注連縄が張られた二つ岩で、一方の岩からもう一方の岩まで目を瞑ってたどり着けば、その恋が実るとされている。

そんな伝説を真名から聞かされた爆の感想は、たったの一言だった。

「胡散臭いな」

「まあ、それは否定しないが……ん?」

冒険家を名乗るくせに浪漫の欠片も無い爆に苦笑した真名は、向こうの岩の周辺に人だかりが出来ている事に気付いた。

近寄ってみれば、どういうわけか岩の手前に矩形の大穴が開いている。
そして、そこに落ちてしまった雪広あやかと佐々木まき絵を助けようと、ネギ達が奮闘していた。

「ほう、愛の神とやらはずいぶん厳しいんだな」

爆は独白に皮肉を利かせると、ネギの手助けに向かった。

手こずる少年の腕ごと、あやかを引き上げる。
まき絵も同様の方法で救出すると、ネギが誰にとも無く呟いた。

「やっぱり、これも関西呪術協会の……?」

地味な妨害だな、と思いながらもその傍で青年が頷く。

「だろうな。警戒を怠るなよ、ネギ」

そう短く注意を加えて、爆が再び歩き出そうとした、その時である。

「爆さん、ちょっと」

聞き覚えのある声が耳朶を叩いた。
その方向に首を捻ると、近くにあった灯篭の影から刹那が手招きをしていた。

何故隠れているのか疑問に思いながらも、爆が歩み寄る。

「どうした、刹那……うお!?」

ぽんっ、と軽快な音がしたかと思うと、彼の眼前に二頭身にデフォルメされた刹那が出現した。

「なんだ? このちみっこいのは?」

爆が怪訝そうに眉を額に寄せると、肩のジバクくんが『ヂィ〜ヂィ〜』というを警戒音を発する。
それに呼応するかの様に、彼女は自己紹介を始めた。

『どうも! 連絡用の分身みたいなもので、ちびせつなとお呼びください!』

空中で、ぺこりと可愛らしく頭を下げる。
分身と言えど、あまり中身は似ていない様子である。

「いざという時のために、この子を連れていて欲しいんです。今はまだあれくらいで済んでいますが、何時本格的なものになるか分かりませんから」

岩の前に開いた大穴に目を遣る刹那に、爆が神妙に頷いた。

今までの蛙騒動や落とし穴は、『帰れ。さもなくば……』という警告である。
しかし、こちらとしても引き下がる訳にはいかない。

そうなると、当然敵方の攻撃も威力を増してゆき―――最終的には戦闘になる可能性もある。

そんな状況下では、素早い情報のやりとりは必須だ。

「ネギ達にはやらんのか?」

「はい。しかし、ネギ先生は私の事を警戒しているようですから……」

何処と無く悲しげに目を伏せる刹那に対し、爆は眉を顰めた。

どうやら、あの子供教師も随分気負っている様だ。

ただでさえ生真面目な少年である。
重要な任に対する責任感が、見事に影を落としている。

「(困った奴らだ)」

胸中で、深く溜め息をつく。

そんな時、爆は何やらざわめき声が聞こえてくる事に気付いた。
何事かと瞳を巡らせれば、その発生源が音羽の滝である事が分かり―――爆は呆れた様な声を漏らした。

「……何だ?」

視線の先には無数の酔死体(誤字に有らず)が。

売店で販売されている甘酒とは、全く比べ物にならないアルコールの臭気が漂っている。

その匂いの発生源もまた、音羽の滝である。

上流に何か仕込まれていたのだろう、生徒達は酒を含んだ水を大量に摂取してしまったらしい。

……ただ一人、齢百を越える真祖の吸血鬼は嬉々として呷っていたが。

「なっ……滝の上にお酒が!!」

そんなネギの声が上方から降って来て、爆は、今度は実際に深々と、万感の思いを込めて溜め息を吐き出した。

「とにかく、バスに詰め込むか……手伝え刹那」

頭を抱えたい気分になりながら、爆は滝の前で倒れ伏す生徒達の救助に向かった。


夕日が空を朱に染め、嵐山にあるホテルに着いた頃、爆はすっかり疲弊していた。

体はともかく、精神が大分磨り減っている。

『……ぐったりしてますね、爆さん』

カウボーイハットの上にちょこんと乗ったちび刹那が、爆の顔を覗きこんだ。
ジバクくんは肩の上で、お気に入りの場所が奪われた事に機嫌を悪くしている。

「ああ……バスの中は酒臭いし、小娘どものイビキはうるさいし……最悪だった」

精神的疲労で重くなった体を引き摺って歩く爆の片手にはタオルが握られていた。

教師連中は早めに風呂を済ます事になっているので、警備員である彼もそれに準ずる事になっている。

白抜きで『男』と描かれた青いのれんを潜って、脱衣所に入る。

カウボーイハットと汗で多少湿ったシャツを籠に放り込んで、ズボンを脱ぎに掛かる。

その時、ふと前を見ると、頭から離れて宙に浮かぶちび刹那がこちらをじっと凝視していた。

「何だ?そんなに見てきて」

『い、いえ何でもないです! お気にせず、続けてください』

「?」

いまいち釈然としないが、とりあえずズボンを下ろして籠に入れる。
その際ちび刹那が顔を小さい手で覆った(しかし、指の間は微妙に開いていた)が、気にせず手拭いを腰に捲いて、温泉への扉を開いた。

洗面器を用いて体を流し、広い湯船の中に体を沈める。

「ふう……」

適度な熱が体に染み渡り、疲労を削いでいく。
ジバクくんも、丸い体を浮かべてご機嫌の様子だ。

『気持ちいいですね〜』

ちび刹那も、首から下を湯に浸けている。
式神らしいが、水に入って大丈夫なのだろうか?

「あ、爆さん」

声と共に、湯気が人型に裂かれる。
そこから出てきたのは一足先に入浴していたネギであった。

爆は咄嗟にちび刹那をつまみ上げると、首の後ろに隠す。
見つかると話が拗れそうだからである。

少年は、爆の隣に座するとしばし柔和な笑顔を浮かべていた。
しかし次の瞬間、思い出したかのように、何か苦悩する様な表情が刻まれる。

「あの、少し相談したい事があるんですが……」

蚊の鳴く様な声で口火を切ったネギに、爆は正面を見据えたまま、素っ気無く返した。

「……話してみろ」

大きく息を吐くと、白いカーテンが僅かに揺らいだ。

「桜咲さんの、事なんですが」

呟く様な声に、爆は反応を示さない。
構わず、ネギは訥々と言葉を紡いだ。

「彼女が、西のスパイかも知れないんです」

「……」

それにも、やはり青年は黙したまま、静かに目蓋を閉じたのみだった。

「爆さんは、どう思いますか?」

乞う様なネギの問い掛け。
返って来たのは、問い掛けだった。

「何故、それを俺に聞く?」

「え……? あの、爆さんは、刹那さんと親しそうだったから……」

「知るか、そんな事」

「え?」

突き放すかの様な言葉に、ネギは唖然と彼の横顔を凝視した。
爆は依然瞳を閉じながら続ける。

「俺が違うと言ったら刹那はスパイじゃ無く、そうだと言ったらスパイなのか?」

ネギの口は開いていたが、喉奥から声が吐き出される事は無かった。

「大体、お前は刹那と話した事があるのか? あいつがどんな奴か、少しでも知ってるのか?」

「あ……」

鋭利な刃の如く突き付けられた事実に、絶句する。

思い返せば、学園でも彼女と会話を交わした事はほとんど無かった。
精々、授業中に問題を当て、それを答えさせるくらいだ。

あろうことか、己の生徒がどんな人物かを、全く知らなかったのだ。
出身地やその行動のみで、彼女を疑ってしまった。

言葉を交わす事すらせずに。

「俺の答えは、お前の答えにはなりえない。自分の答えは、自分で探さなきゃならないんだ」

ネギの目から、透明な雫が溢れ出した。
涙が顔の輪郭に沿って流れ落ち、湯に波紋を形作る。

「僕は、先生失格ですね……」

震える声を遮る様に、爆の手が、やさしくネギの頭に置かれる。

「……運が良い事に、お前には時間がいくらでもある。後でも明日からでも何時でも良い。答えを自分で探してみろ」

「……はい」

目尻を手の甲で拭って、ネギは頷いた。


―――その時だった。

がららと、戸が開く音がしたのは。


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