第三十五話



泣き喚くような風音に重なって響く声。
それと同時に、頭上から巨大な影が降って来た。

腹底に響く様な重低音を上げて姿を現したのは、堅固な外殻に覆われた巨大な蜘蛛だ。
それだけでも人の足の倍程はある顎腕のついた頭部に貼られた札が、その存在が式神だと明言している。

続いて軽やかに蜘蛛の頭部に降り立ったのは、少年だった。
恐らく声の主である彼は、被ったニット帽を押さえながら、眼下のネギ達を睥睨する。

「そーゆうデカイ口叩くんやったら、まずこの俺と戦ってもらおか」


             ◇◆◇◆◇◆


時を同じくして、結界内で困り果てている少女が独り彷徨っていた。
息を切らしながらも、石段を懸命に小走りで駆ける。

少女―――宮崎のどかは、かつて無い程に焦燥していた。

ゲームセンターから密かにネギとアスナを尾行し、この千本鳥居の入り口に辿り着いた時。
彼女のアーティファクトである本が、思い人の危機を伝えたのだった。
居ても立ってもいられず、立ち入り禁止の看板も無視して自ら薄暗闇に身を投じたというのは、以前ののどかからは想像も出来ない勇気ある決断である。
しかし。

「(どうしよう……ネギ先生(とアスナさん)が助けを求めてます)」

千本鳥居に入ってからもう一時間は経過しているが、一向にネギの姿は発見できない。
こうして一歩足を踏み出している間にも、彼は危険に晒されているというのに。

……無論の事、現在の彼女の思考からはネギ以外の存在は一切合切排されている。

と、そこに至ってのどかは天啓を得た。
自分には、この本があるではないか。

「そ、そうだ、またこの本で……ネ、ネギ先生……」

呟く様に小さく名前を呼ぶ。
そして、彼女は手元の本を開き―――愕然とした。

ページに描かれていたのは、巨大な蜘蛛の上に仁王立ちする見知らぬ少年と、それに慄くネギ達。
絵柄こそ子供のラクガキの様な拙くも微笑ましいものが、その剣呑な状況が現実に起こっている事だと知っているのどかは気が気では無い。

「(あああ!? 何だかスゴイのが出てきてさらに大変なコトにーーー!?)」


             ◇◆◇◆◇◆


竹薮の一角を蹂躙する鬼蜘蛛の上で、少年が拳を胸元に翳す。
次いで好戦的に歪む唇が、開戦を告げた。

「ほな戦ろか、西洋魔術師―――いや、ネギ・スプリングフィールド」

「き、君は……」

名指しで呼ばれたネギは油断無く杖を構えながらも戸惑ったが、疑問が氷解したのは次の瞬間だった。
何処かで見たと思えば、彼はゲームセンターで出会った少年だ。

「あっ! さっきゲーセンにいた子じゃない!」

ネギに同意するかの様にアスナが叫ぶ。
となると、先程は偵察に来ていたのだろうか?

「しまった!? すると今頃このかさんが襲われて……」

その危惧に、はっと首を向けた先のちび刹那は首を振った。

『いえ、今の所大丈夫なようです』

本体と情報を共有する彼女が言うのだから間違いは無いが、しかし安堵している余裕は無い。
ネギは直面している障害に向き直った。

「(一昨日のおサルのお姉さんと同じく護鬼を連れてる……)」

戦力を分析する。
敵は二体―――式神の蜘蛛と、陰陽術師と思わしき少年。
戦闘方針としては先ず鬼蜘蛛を排除してしまい、守護を失った少年を叩くのがベストだろう。

ネギがそう思考を巡らせた時には、アスナの援護を求める声が耳朶を叩いている。

「ネギ!」

「ハイッ! 契約執行三十秒間・ネギの従者・『神楽坂明日菜』!」

魔法使いの少年から供給された魔力の光を纏って、アスナは疾駆した。

「ガキだからって手加減しないわよーーー!!」

咆えながらの拳は、一瞬速く飛び退った少年の胴を捉える事は出来なかった。
しかし全力の一撃は鬼蜘蛛の頭と腹の付け根の辺りを陥没させ、更に仰向けに転倒させる。

「おおっ!」

頭上で舞う少年の驚嘆には一顧だにせず、アスナは宙に身を躍らせたまま契約カードで『ハマノツルギ』を召喚した。

「ええーいっ!」

横薙ぎに一閃。
力強く振られたハリセンが、式神の効力を奪った。
巨体はその存在が幻だったかの様に掻き消え、その頭部に貼られていた札が空しく石段に舞い落ちる。

「や、やるじゃんあたしってば!」

踵で石段に着地し振り返って、アスナは自のの上げた成果に感心した。
ついこの間まで普通の女子中学生だった筈の自分が、先刻粉砕した岩を優に超える巨大な蜘蛛を、一分も時間を経てずに撃退せしめたのだから。

それに賛同する声が頭上から降ってきたのはその時だ。

「あっはっは! やるなーお姉ちゃん♪」

アスナがそちらを仰ぎ見れば、休憩所の屋根の上で、ニット帽の少年が哄笑を上げていた。

「式払いの妙な力を持つ女子中学性がいるゆーから守りの堅いの借りて来たのに、一発でお札に戻されてしもたわ」

そこに悔しげな様子は微塵も無く、逆に面白い遊びを思いついた様な、あどけないとさえ言える笑みを刻んでいる。
しかし、顎に添えられていた右手が転じてネギを指差した時には、ニット帽の下の瞳は打って変わって嫌悪の光を宿していた。

「でも……お前の方は大したことないなチビ助。凄いのは、姉ちゃんの方や」

「っ!」

卑下するかの様な容赦の無い言葉に、ネギの肩が微かに震える。

「女に守ってもらって、恥ずかしいとは思わへんか。……だから西洋魔術師はキライなんや」

「む……」

何故、敵にそんな事を言われなければならないのか。
言い返すための台詞は幾らでも浮かんで来たのに、それを口から吐き出せないのは何故だろうか?

相棒である杖を胸の前で握ったまま硬直するネギに代わって、彼の傍まで駆け寄って来たアスナが叫んだ。

「前衛のゴキちゃんをやられちゃったからって負け惜しみねボク!」

肩のカモがそれに乗じる。

『おうよっ、てめえに勝ち目はねえ!降参するなら今のうちだぜ!!』

二人の言葉は揺ぎ無い勝利の確信に満ちていたが、対する少年は唇を弦月に割ったのみだった。
それが表す所が余裕だと、本人以外に誰が気付いただろうか。

「……へへ。お姉ちゃんも何か勘違いしてへんか」

ぐい、とニット帽を直す。

「俺は、術者とちゃうで」

「へっ……」

アスナが呆けた声を出した時には、少年の足が弾かれたかの如く屋根から離れている。

「!?」

次の瞬間、獣の様に半ば四つん這いになった少年が、アスナの足元に出現していた。

「わっ!」

虚を突かれた少女が『ハマノツルギ』を振り回すも、彼の方が一枚上手だ。
ハリセンが捉えるのは残像のみで、本体は信じ難い動体視力を持って連撃をかわしている。

「ハハッ当たらな意味ないな♪」

そう軽口を叩くや、少年は間隙を突いてアスナを自らの後方へ突き飛ばした。

「あっ……」

ダメージは無い。
しかしよろめいて生じた隙は、敵を守るべき少年への接近させてしまった。

瞬く間に目前まで到達したニット帽の少年の技量に、ネギは一瞬怯みながらも詠唱を開始する。

「ラス・テル・マ・スキル・マギステル……」

始動キー詠唱終了、魔力を練り上げる。

「風花――」

呪文の詠唱開始。
その時には、ニット帽の少年は学生服の内ポケットから数枚の呪符を取り出していた。

「――武装解除!!」

魔力が変換され、烈風となってネギの掌より放出される。

花弁が、虚空に舞う。

だが、その奥から出現した少年は、その突撃を些かも衰えることはしなかった。
魔法の風は、彼の持っていた呪符に防がれていたのだ。
余波も、被っていたニット帽を吹き飛ばしたのみ。

拳が振り被られる。

「ッ!! 風盾……」

新たに術を構築するには、時間も距離も足りない。
紡がれようとした呪文は、抉る様に叩き込まれた拳によって遮られた。

「ネ……ネギーーーーッ!?」

アスナの悲鳴に似た叫びは、果たして少年に届いたのだろうか。


             ◇◆◇◆◇◆


―――同時刻、のどかもまた、叫び声を上げた。

「ああっ、ネ……ネギ先生がーーーっ」

何時の間にやら足を止めていた少女は、石段と竹薮を隔てる柵に背を預け、本を通して観戦していたのだった。
しかし、愛する人の苦戦に涙を浮かべるも、その目はアクション映画に感情移入する観客のそれに似ていた。

「(で、でもこんなことが今ホントに起こってるのかなー……)」

最初の頃はその内容を実際に起こっている事だと信じて疑わなかったが、途中からページに浮かび上がってきた戦いは自分が愛読するジュニア小説そのもので、あまりに現実味を喪失している。

―――仮にこの時、のどかが後ろを向いていたのなら、あるいは聴覚を働かせていたのなら、その疑念は晴れていただろう。

彼女の耳に届く事は無かったが、生々しい打撃音が、確実に接近してくる。
それと同時に、本に新たな絵が浮かび上がってきた。

ネギが、少年の熾烈な連打を受けているシーンだ。

「あっピンチ!」

ページを捲る。

「あああ、全然ダメです……この子すごく素早くてアスナさんの攻撃が当たらない……」

少年の拳を障壁を張って必死に防ぐネギと、それを追って必死に『ハマノツルギ』を振り回すアスナが、その真後ろを通過した。

更にページを捲る。

「そこっ!あっ惜しい、止められちゃった……ネギ先生、後ろっ後ろですーーっ!」

少年は背後のアスナの振り下ろした『ハマノツルギ』を振り返りもせずに腕で受け止め、正面のネギを蹴り飛ばす。

―――彼らがいかに慌しく駆け回ろうとも、本に意識を注いでいるのどかが気付く事は無かった。


             ◇◆◇◆◇◆


戦場は、再び休憩所へ。

「ちょこまか逃げんな、このチビ助!」

掬い上げる様に放たれた掌低が、とうとうネギの頬を捉えた。
くるくると踊る様に宙を回転し、彼の体は石段に叩き伏せられた。

「う……」

切れた口内から、血が吐き出された。

「ネギ!!」

遅れてアスナが駆けつける。
うつ伏せの状態から力無くも立ち上がろうとするネギを目撃し、彼女は悠然と構える少年を悔しげに睨みつけた。

「ア、アンタねっ、魔法使いじゃなくて戦士なら戦士って最初から言いなさいよっ!!」

憤りに任せた子供じみた抗議を、首の後ろで腕を組んだ少年はそよ風と受け流す。

「そんなん知らーん。そっちのカン違いやろ」

「あとネギばっかいじめるのやめなさい!私が相手よ!!」

「戦いは男の仕事や。俺女殴るのややし」

興味無い様に適当に答えると、立ち上がろうと努力するネギに嘲笑を向けた。

「ハハハやっぱ西洋魔術師はアカンな、弱弱や。このぶんやと、お前の親父のサウザンなんとかゆーのも大したことないんやろ、チビ助」

「……!」

自分のみならず、父をも侮辱。
ふざけるなと、叫びたかった。

しかし火で焙られているかの様に痛む口は動か無い。
代わりに、きっと睨み付ける。

しかしそれは、牽制にすらならなかった。

「そろそろ、お終いやッ!!」

少年の靴底が石段を弾く。
大きく弧を描き、拳を振り上げながらネギに肉迫する。

「ネギッ!!」

少年を阻止するには、アスナと二人の距離は遠過ぎた。

「くっ……」

避ける事も防ぐ事も叶わない一撃を、ネギは尚も睨み付ける。

彼の頭上を、一筋の烈風が通り過ぎたのはその時だった。

「ぐあっ!」

この戦いにおいて初めて、少年の悲鳴が上がる。
『何か』が、彼の胸板を貫通した―――そう錯覚した。

「えっ?」

ネギが思わず声を漏らした時には、少年は背中から石段に叩きつけられていた。
彼を撃墜した『何か』の正体を悟るのに、ネギは数秒を必要とした。

棍棒だ。

自分の身長を優に超える長大な棍棒。
それが頭上を越えて突き出されている。

振り返るまでも無く、その持ち主は分かった。

「―――まあ少しくらい、仕事しとくかね」

激は棍棒を手元に引き戻して肩に担ぐと、淡々と言い放った。


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