第三十六話



「な……何や、オッサン?」

棍棒の一撃を受けた胸元を押さえながら、少年が立ち上がる。
彼が睨み付けるかの様に見上げてくるのに対して、黒い長髪の青年は大きく肩を竦めた。

「オッサンてお前……俺そんなに老けてっか? ちょっとショック」

げらげらと仰け反るようにして豪気な笑声を上げる激は、少年から見て酷く無防備に思えた。

「―――笑ってる場合やないでッ!!」

そう言って犬歯を剥き出しにした時には、少年の靴底は石畳みを弾いて主を跳躍させていた。
同時に翳した拳を、激の頭上に振り下ろす―――それより僅かに疾く彼の脇腹を打ったのは、横薙ぎに一閃された棍棒の柄だ。

「ぐぅッ!」

少年の小柄な体が、風にさらわれた木の葉の如く吹き飛ばされる。
最前のネギの様に竹蜻蛉を思わせる横回転をしながら、地面に叩きつけられた。

「敵の目の前で簡単に跳ぶんじゃねーよ。空中じゃ、攻撃避けれねえからな」

長大な棍棒を肩に担いで少年に歩み寄る激の口調は、まるで出来の悪い生徒に勉強を教える教師のそれである。

激は、今この少年を倒す気は無かった。
そうでなければ、彼の攻撃を二度も受け続けていられる筈が無い。
ネギを救った際の一撃目で意識を刈り取られているだろう。

その理由としては、この千本鳥居に張られた結界の解き方を聞きださなければならないのと―――それにもう一つ、目的があった。
そう、極めて重要な目的が。

「ぐ……なかなかやるな、オッサン」

立ち上がった少年の声は苦悶に満ちていたが、その表情は対照的なまでの喜悦に彩られていた。
どうやら、戦いを嗜好とするタイプの戦士らしい。

「でも、まだ負けてへんで」

少年の顔に不敵な笑みが刻まれた時―――彼に異変が起こった。

「!?」

五指の爪の先端が、短刀の如く鋭利さを帯びる。


肉体が、学生服の上からでも分かる程に膨張を始めた。


黒髪が、根元から白の漣に侵食される。


釣り上がった口端に生える犬歯が、牙の如く長くなった。

「これが、俺の本気……」

「あ、それはいーわ」

「―――へ?」

激にまるでセールスで勧められた商品を断るかの様な軽い語調で返されて、少年は期せずして間抜けな声を漏らしてしまった。
それに同調するかの如く、肉体の変形も止まる。

皿の様に目を丸くして硬直する少年の間隙を突いて、激は大きく後方に跳躍した。
そして、ネギの背後に着地してその肩を腕で包み込むと、

「そんじゃ、また後でな」

親しい友人にする様に軽く会釈した次の瞬間、青年はその場から姿を消した。
無論彼だけでは無く、ネギも、アスナも、雹も、ちび刹那も、まるで幻であったかの如く消え去ってしまっている。

「………はっ」

激がテレポーテーションで逃げてから、たっぷり一分後。
それまで呆然としていた少年はやっと我に帰ると、事態を把握し―――やがて怒りの咆哮を上げた。

「こっこの臆病者ーーーーーッ!! 俺から逃げてもこっからはでれへんねんでーーーー!!!」


            ◇◆◇◆◇◆


「あーもー何よあの生意気なガキ! あったま来るわねー!!」

清水の流れる涼やかな音を、アスナの苛立たしげな怒鳴り声が覆い尽くした。

激がテレポーテーションしたのは、休憩所からそれ程離れてはいない小さな滝のある岩場だった。

「変な耳なんかくっつけてバッカじゃないの!?」

先程の少年の態度が余程腹に据えかねたらしい。
足元でカモが諌めるのも聞こえないようで、岩の上で仁王立ちするアスナの怒りが鞘に収まる様子は一向に無かった。

『あの子は狗族ですね』

そう答えたのはちび刹那だったが、対するアスナは更なる疑問に顔を顰めている。

「クゾク?……って何よ」

『狼や狐の変化―――つまりは妖怪の類ですが』

「何よ、また化け物の敵って訳? ホント迷惑よねーまったく」

やれやれと嘆息したアスナの背中に、海底から響いて来る様な低い声が投げ掛けられたのはその時だった。

「悪かったな。化け物で」

振り向くとそこには、長い足を折って岩の上に座り込んでいる雹の横顔があった。

「あっ……ゴ、ゴメン」

自らの失言に気付いたアスナは、恥じるように顔を伏せる。
銀髪の青年もまた、人間ではなかったのだ。

その氷の様な無表情からは読み取れないが、良い気はしなかったに違い無い。
仮にそれがGSとして針の塔に属していた頃の雹の耳に届いていたのなら、彼女は問答無用で切り捨てられていただろう。

しかし爆と出会ってからは多少温厚になったらしく、特に怒気を見せはしなかった。

「まあ、それはいいさ……それよりも」

無造作に立ち上がった雹が見据えたのは、傍にいた黒い装束の青年―――激だった。

「激、お前、何で手加減したんだ? お前なら、一撃で倒せただろう?」

「「「!!」」」

アスナとちび刹那、そしてカモの視線が一斉に激に集中した。
彼女達が喉奥から言葉を吐き出す前に、再び雹が問い掛ける。

「何故だ? 激」

その声音には糾弾する様な気配は無く、純粋に彼の意図が気になっているだけらしい。
それに対し、胡坐の上に頬杖を突く激はゆっくりと応じた。

「まあ、たしかにそれも出来たな」

「じゃあ……」

更に問い質そうとした雹を遮って、激が声を投げ掛けたのは先程から黙り込んでいるネギだった。

「なあ坊主」

「……あ、はい。何ですか?」

余程思惟に耽っていたのか、即答というには間が開き過ぎていた。

「お前、悔しかったか?」

『浄化』の術によって傷は癒えたネギの顔が、途端に強張る。
彼が凝視してくるのにも構わず、激はいっそ淡々と続けた。

「あの犬耳の坊主、お前より大分場数踏んでんな。技はまだまだ未熟だが、実戦慣れしてやがる―――二人がかりでも余裕なくらいにな」

普段の享楽的な青年は、そこにはいなかった。

「ちょ、ちょっと!」

「待て」

容赦無く事実を並び立てるのをアスナは止めようとしたが、それは雹の手で制された。

「……」

パートナーとは対照的にただ俯いているだけのネギに向けて、激が更に言葉を紡ぐ。

「二択だ。一つは、俺があいつをぶっ飛ばす。これが一番速くて確実だ。んで、二つ目が―――」

そこで一旦言葉を切り、軽く息を吸ってから、再び口を開いた。

「もう一度、お前と嬢ちゃんとで戦う。ま、リベンジマッチって奴だな」

「!!」

ネギの、眼鏡の奥の瞳が揺れる。

「でも正直、これは勧められねえ。また負けて、無駄に苦しむだけかも知れない」

やおらに岩から腰を上げた激は、肩に担いでいた棍棒のその先端を少年に差し伸べ―――問い掛けた。

「どっちを選ぶ? これは試合じゃねえんだ、今度は殺される可能性だってある……一つ目を選んでも、誰も責めやしねえ」

それきり口を固く引き結んだ激は、ネギの返答を待ち受けている様だった。
静寂が舞い降りた空間を蹂躙するのは、唯一小川の流れるささやかな音のみだ。

「―――僕が戦います」

しばしして沈黙を破り、冴え渡ったのは、決意に満ちた声だった。

「たしかに、僕は未熟です……激さんが戦った方が良いのかも知れません。でも―――」


それでは、意味が無いのだ。


負けたままで、西洋魔法使いの誇りを貶められたままで先に進む事など、許される筈がない。


自分の力でそれを取り戻さずして、父と同じ場所に立てる筈がない。


―――あの少年に、勝たねばならない。

ネギが、アスナの方を振り向く。

「その……アスナさん。もう一度、一緒に戦ってくれませんか?」

僅かに躊躇いながらも、真摯に懇願するネギだったが、しかしそうするまでも無く、彼のパートナーである少女の意思は疾うの昔に固められていた。

「……あのね、さっきも言ったでしょ。十歳のガキが危険なことしてるの放っておけないって……それに、悔しいのは私も同じよ」

アスナが何処かはにかむ様にそう言った所で二人の耳朶を叩いたのは、手と手が打ち鳴らされる音だ。
その発生源である激は先程の怜悧さを忘れたが如く、普段の彼に戻っている。

「うしっ決まりだな! んじゃま、ぼちぼち行こーか!」


            ◇◆◇◆◇◆


「ネギ先生、カッコ良いなあ……」

アーティファクトの本によりネギ達の会話の一部始終を覗いていたのどかが、陶酔したかの様なうっとりとした声を漏らした。

好きになって良かったと再認識する―――その時、背後の竹薮が風も無いのに擦れ合い、叫喚を上げ始めた。
同時に、何かが接近して来る気配を感じ取る。

「ア、アベアット!」

少女が慌てて本をカードに戻したのと、竹薮の向こうから小柄な影が飛び出したのは、果たしてどちらが速かっただろうか。

「見っけたでーーーーっ……ってあらーーーー!?」

上方から飛び掛ってきた学生服の少年がのどかの姿を認めて上擦った声を上げるも、空中では蹴る地面も無く身動きが取れない。
のどかも、格別反射神経が優れている訳ではない。
むしろ平均を下回っている。

まあ要するに、お互いに回避不能なのである。

「うぎゃ!」

「ぷ!」

案の定、待ち受けていたのは正面衝突。
しかも何がどうなってか、倒れたのどかのスカートの中に目を回している少年の頭が突っ込まれているという有様だ。

「にゃあああっ!?」

こんな状態になって悲鳴を上げない女子は、恐らく天文学的に少数である。
無論のどかも一般常識を心得る極健全な少女であり、雷光の速さで少年をどけるや、瞳一杯に溜めた涙越しに睨み付ける。

「ああっ! わざとやないスマン! 人違いや!」

それは敵手と間違えてしまった事に対してなのか、それともセクシャルハラスメント・略称セクハラを働いてしまった事に対してなのか。
飼い犬に手を噛まれた様な眼差しを送ってくるのどかに、少年は死刑を言い渡された罪人の如く弁明を叫ぶ。

「……ありゃ? よく見ると、さっきのゲーセンのお姉ちゃんやんか」

何とか誤解を解き、尻餅をついているのどかに手を差し伸べた所で、少年が思い出したかのように首を傾げた。
それに釣られるかの様に、少女もあっと声を上げる。

「あ、あなたはあの時の……」

「(しもた……ついて来てたんか)」

内心で舌打ちをする。
一般人避けに、一応千本鳥居の入り口に立ち入り禁止の看板を立てて置いたが、効果は無かったらしい。
ここは一つ、穏便に対応しなければ。

「あんな、今この辺でケンカ中やねん。ウロウロしてると危ないで」

「(ケンカ中……?)」

のどかはその言葉に、何か引っ掛かる物を感じた。
それに気付いた様子も無く、少年は続ける。

「後でワナ解いて、こっそりお姉ちゃんだけ出したるわ。それまでここで大人しくしててな」

「(ワナ……!? こ、この子は?)」

ふと脳裏を過ぎった、本の中でネギを圧倒していた少年の絵。
それと目の前の少年の姿が、一致した。

「(ど……どうしよう―――)」

突如湧き上がってきた恐怖に、動悸が早鐘の様に鳴り響く。

どうするべきか。

様々な感情が織り交じった混乱に呑まれた思考を叱咤し、必死に働かせる。
このまま少年の言う通りに大人しくしていれば、無傷でここから脱出する事も可能だろう。

だがそれは、ネギを――やっと、思いを伝える事の出来た人を見捨てるに等しい行為だ。
それはネギは元より、告白の後押しをしてくれた、あの青年をも裏切る事になる。

「(……ネギ先生、爆さん、私は私に出来る事をやります)」

のどかは決意を込めて、固唾と共に恐慌を嚥下した。
手中の契約カードを手首の裏に隠す。

「あの……ちょっと待ってください」

少女は、渾身の勇気を持って少年が身を翻し立ち去ろうとするのを呼び止めた。

「ん?」

何事かと、少年が振り返る。

「あのっ……私、宮崎のどかです。あなたのお名前は……?」

「名前? う〜ん……」

聞かれて、彼は顎を摘んで思案顔をしていたが、

「名乗られたら返さんのは礼儀に反するなあ……小太郎や。犬上小太郎!」

結局名乗ると、今度こそのどかに背中を向け、鳥居の奥へと走っていった。

「イヌガミ……コタロー君……そんなに悪い子じゃなさそうだったけど……」

彼の姿が完全に消えたのを見計らって、隠していたカードを自らの胸の前に差し伸べた。
口唇が、小さく呪文を紡ぐ。

「アデアット!」

直後、光が発せられ―――少女の手に、一冊の本が顕現した。


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