気付けば、鬼の軍勢は当初の半分にまで数を減らしていた。
だがそれに比例して、刹那とアスナの体力も相当に減少してしまっている。 外傷こそ掠り傷が精々だが、激しく上下する両肩がその消耗具合を示していた。
神鳴流の剣士として実戦経験のある刹那はまだしも、アスナはこの前まで一般人だったのだ。 剣弾飛び交う実戦による精神的疲労は、計り知れない。
戦場が川である事も災いしていた。
激しい攻防により巻き上がった水が身体を冷やし、体力の減少を手伝っている。
鬼達にしても、一体どれだけ召喚されたのか。 確かに数は減ったが、それでも刹那達をぐるりと囲み、視界の端から端を間隙無く埋め尽くしている。
輪の外からは、絶え間なく怒号や爆音が響いてくる。 視認は出来ないが、爆や激達が戦っているのだろう。
「(さすがに、キツイか)」
眉間に皺を寄せた刹那だったが、内心の弱音は口に出さない。
背後には、アスナがいるのだ。
こんな地獄に居るかのような戦いに巻き込んでしまった同級生が。
怖いだろうに、歯を食い縛って、傷だらけになっても戦っている友が。
なのに、何故自分が自分だけが泣き言を言えるだろう。 口から吐き出すのは、気合の一声のみで良い。
敵は大勢で、爆の助力は期待できそうに無い。 だが、それで良い。
この程度の苦境など鼻歌交じりで乗り越えられなければ、彼の隣に立つことなど許されない。
「―――奥義、雷鳴剣!!」
水飛沫を上げて襲い来る異形に向けて、腰溜めにした《夕凪》を地から走った稲妻の速度で斬り上げる。
白銀の刀身は青白く放電現象を起こしていて、一瞬、世界が漂白された。
技名に違わず耳を劈くような雷鳴が轟いた時には、高熱の刃に胴を断ち切られた鬼は絶叫を上げて消滅している。 攻撃の余波は川の水を蒸発させ、気化した水分が白いカーテンの様に刹那達を包み込んだ。
「大丈夫ですか、アスナさん」
首を後方に向けて捻ると、アスナの背中は思いの外間近にあった。
殆ど背中合わせの状態だ。
「大丈夫、いけるよ……」
アスナは口端を釣り上げてみせたが、息は荒く、疲労の色はその血が微かに滲んだ顔から見て取れる程に濃い。 それでも健気なまでに笑顔を崩さない彼女に、刹那の胸は痛んだ。
瞬間、水蒸気の白い壁が縦に割れる。
アスナが本能的に『ハマノツルギ』を掲げていなければ、放たれた銀色の弧月は彼女を頭頂を断ち割っていたかも知れない。
「きゃ!?」
衝撃で、アスナの身体は大きく後退する。 少女を襲ったのは、黒い大柄な影だった。
彫刻のような筋骨逞しい肉体には、簡素な腰布しか巻かれていない。 背中を覆うのは、背外套を思わせる漆黒の翼が一対。 頭部は、無論人の物である筈が無く、首の上には鋭い嘴が伸びた烏の頭が乗っかっている。
続いて容赦なく注がれる連撃に、アスナは更に更に追い詰められてゆく。
「アスナさん!!」
刹那自身、余所見をしている場合では無かった。
彼女に向けて、弾丸のように駆けた小柄な影がある。 頭部の上半分を隠した女の姿をした妖魔の両腕には、トンファー状の刃が装備されていた。
「くっ!」
首を刈り取られる寸前に正眼に構えた《夕凪》で受け止めるが、同時に背後で上がった悲鳴がある。
「あうっ!」
交戦の僅かな間隙に振り返ると、全身に浅い刀傷を作ったアスナが、背中から岩に叩きつけられていた。
致命傷を受けていない事に安堵すると同時に、彼女と相対する敵手の戦闘力の高さに歯噛みする。
まだ力任せに太刀を振るうことしか知らないアスナには、まだ重荷だ。 必殺のハリセンも当たらなければ効果は無い。
「今行きます、アスナさ……」
殺気。
背筋が凍える感覚。
殆ど本能的に、刹那は野太刀を水平に掲げていた。 刀身に凄まじい衝撃が走ると同時に手首から力を抜き、受け流す事で刃が砕けるのを防ぐ。
間を置かず、身体を横に反転させつつ後退。 襲撃者を目視する。
『神鳴流の嬢ちゃんの相手はワシらや』
それは当初から奥に引っ込み、小鬼達に指示を出していた独角の大鬼だった。
鋼を捩り合わせたかの様な筋肉はもはや鎧と呼んでも遜色は無く、更に手に持つ獲物は、金棒というよりも建築素材として使われる鉄骨だ。
それを二メートルを軽く越す巨躯と剛力から繰り出されれば、如何に気で鎧っていようとも血煙と化していたに違い無い。
「(こいつらも別角か……!)」
「おいおい、あっちの方やべーんじゃねーか?」
間延びながらも何処か危機感を孕んだ激の声に、爆は襲い来る敵を薙ぎ払いつつ振り向いた。
視界を埋める妖魔の群。 その僅かな狭間に、爆は刹那の姿を認めた。
頬から血を流し、双肩を間断無く上下させている少女は、恐らくは鬼どもの首魁であろう大鬼と対峙している。
その様子から否でも死の気配を感じてしまって、爆は慄然とした。
千草は召喚した妖魔達に不殺を命じていた。
だがそれでも、大切な存在が傷ついている姿を見て、放って置けるものか。 この位置からではアスナがどんな状態か確認出来ないが、刹那ですらあの様では無傷ではあるまい。
「激、雹。この場は任せた」
邪魔だ、と大剣を縦に横に振り回して這い寄る雑魚を蹴散らし、刹那に向けて駆け出した。
だが、それを上方から遮った白い影がある。
「そうはいきまへんよ」
視界を塞ぐ、銀色の十字。 鋭利な輝きの交差点に、爆は咄嗟に大上段からの斬撃を叩き込んだ。
夜に、熾烈な火花が咲く。
白い影は反撃の威力に逆らわずに宙を舞うと、行く手を阻むように爆の正面に降り立った。
「……またお前か、月詠」
戦闘者らしからぬ、純白のレースが散らされた華美なドレスに身を包んだ少女は、忌々しげな青年とは対照的に、端整な顔に淫蕩なまでの喜悦を浮かべた。
「うふふー。今度は刹那センパイもおらへんし、いっぱいいっぱい戦えますなぁ」
あぁもうたまらへん、と感極まったその笑みは、戦いに魅入られた狂戦士の表情。
無論、付き合ってやる気は毛頭無い。 弱点は分かっているのだ。
「(とりあえず、眼鏡を握り潰して(非道)……ん?) 」
爆は、今まで月詠を構成していたパーツが欠損していることに気付いた。 形の良い鼻の上に乗っけられている筈の眼鏡が、無い。
だが、それでも彼女は今までのように視力を失う事無く立ちはだかっている。 つまり―――
「はっ! お前さてはコンタクトレンズを!?」
コンタクトレンズとは、角膜に密着させて近視・遠視などの矯正に使われるとてもとても便利な道具なのである。 主に爆以外に対して。
「あはは、似合うでしょーかー?」
「むう、余計な所に頭を働かせおって……」
流石に眼球を潰すのは、例え敵であろうとも気が引ける。 真っ向から斬り合ったとしても敗北は無いが、今はその時間すら惜しい。 説得しようにも、この戦闘狂を説き伏せる言葉は思い当たらない。
何にせよ、既に二振りの白刃を胸の前で交差させている月詠が、爆の都合など考慮してくれる筈も無かった。 薄い色合いの唇が、歌うように言葉を紡ぐ。
「ささ、愛し合いましょー」
その無邪気なまでの微笑みは、この戦場において酷く不釣合いな物に思えた。 その内に潜む、血の色をした狂気を除くのなら。
結局、戦うしか選択肢は存在しないのか。
諦観と共に大剣を正眼に構えた、その時。
爆の視界に、白い翼が滑り込んだ。 誰だなどと正体を問うまでも無い。
「爆君と愛し合う権利は僕だけの物だーッ!!」
何とも気持ち悪い台詞を声高に叫んで、雹は双刀を振り翳し、月詠に突進する。 鋭い金属音を上げて絡み合う大小四本の刃。
色々と言いたい事はあった(主に雹に)。 だが、今は刹那達の援護が最優先だ。
「よし、そいつは任せたぞ雹。 出来れば同士討ちの方向で!」
変人と変人の。
途端に斬撃に力を入れ始めた雹は、どうやら後半の言葉は聞こえなかったらしい。 なんとも都合の良い聴覚だが、やる気は出たらしいので問題無し。
一瞬の迷い無く、爆は斬り合う剣士達の頭上を飛び越えた。
◇◆◇◆◇◆
夜気を切り裂き振り抜かれた五爪を、ネギは魔力で鎧った腕で受けた。 一撃を防御されたと見るや、小太郎は後方に大きく跳ぶと、四つん這いの獣が如き姿勢で着地する。
「どうしたぁ! 本気で来いやネギ!!」
「ど、どいてよコタロー君!!」
立ち塞がる小太郎は、徹頭徹尾ネギの前進を許そうとしなかった。 引こうが押そうが一定の距離を保ち、脇を擦り抜ける隙を作らせない。
「いやや。つれないこと言うなや、ネギ」
口端を釣り上げ、発達した犬歯を剥き出しにした彼は、もはや自分との戦いしか頭に無い様に見えた。
こうしている間にも、一秒、一分と時間が過ぎているというのに。
夜を貫く光の柱は、もう手が届きそうなのに。
激や爆程の実力があれば、小太郎を軽く蹴散らして走り去ることも出来ただろう。 それが実現出来ない、今の自分が堪らなく悔しい。
それどころか、付け焼刃の肉体強化の所為で戦闘手段である魔力すら枯渇してしまいそうだった。
息苦しいまでの焦燥を振り切るように、ネギは叫ぶ。
「何で、何であのお猿のお姉さんの味方をするの!? あの人は僕の友達をさらってひどいことしようとしてるんだよ!?」
小太郎もまた叫び返した。 炎のように、熾烈に燃え盛る闘争心を持って。
「ふん! 千草の姉ちゃんが何やろうと知らんわ! 俺はただイケ好かない西洋魔術師達と戦いたくて手を貸しただけや! けど……その甲斐あったわ!!」
その人差し指が、真っ直ぐにネギに突きつけられる。
「お前に会えたんやからな、ネギ!! 嬉しいで!! 同い年で俺と対等に渡り合えたんはお前が初めてや! さあ、戦おうや!!」
何と身勝手な―――苛立ちを覚えたネギだったが、よく考えなくとも彼は敵だ。 こちらの都合などどうでも良いに決まってる。
言葉による説得は放棄。 荒ぶる狼には、あまりに無意味だ。
「(戦うしか、ないのかな……?)」
思えば、あの千本鳥居での戦いも決着がついた訳では無い。 あの時一撃を与えられたのも、小太郎が自分を無力と油断をしていたからだ。
それなのに、また逃げるのか、と。
教師を務めているとはいえ、ネギはまだ十歳の子供だった。 大局よりも、己の意地を優先させてしまう程度には幼い。
だが―――
『木乃香を頼んだぞ、ネギ』
杖に跨って飛び立つ寸前、耳元を掠めた爆の言葉。 ネギにとって、爆という青年は父親に並ぶ一つの指針だった。
その心は、名匠により叩き鍛えられた刃金のように強い。
その両腕は、人を守り敵を叩き潰す盾であり剣。
今はまだ遥か遠き背中であり、それでも何時かそう成りたいと願う雄々しき姿。
そんな彼が、頼み事をしたのだ。 他の誰でも無い、自分に。
こんな小さな自分を、信頼して頼んでくれたのだ。
思考が、急速に冷めてゆくのを感じる。 そうだ、何も悩むことは無い。
最初から、自分がすべき事は一つなのだから。
「……わかった」
肩に乗ったカモが「兄貴!?」と叫んだが、意に介さない。 「へっ」と愉快気に笑った小太郎が、顔を獰猛な喜色に染めた。
右手を前方に突き出して、ネギは術式を紡ぐ。
「光の精霊11柱、集い来たりて敵を討て、連弾光の11矢!!」
詠唱が終了する。 召喚された光の精霊はネギの意思を受け、十一本の光り輝く矢となってこの世界に顕現した。
それらはそれぞれの軌道を描き、白光の尾を引いて小太郎へと殺到してゆく。
「今さらこんな小細工!」
打ち振るわれた両手の鋭利な爪が、難無く光の矢を撃墜する。
だが、それで構わない。 元々低威力の魔法だ、ダメージは期待していなかった。
ただ、一瞬だけ隙が生まれさえすれば。
光の矢が小太郎に届いた瞬間から、ネギは走り出していた。 彼に肉弾戦を挑む訳では無く、ただ前進して、木乃香を助けに行くために。
魔力によって強化された脚力は、ネギの体を軽やかに運び、ちょうど魔法の矢の撃墜し終えた小太郎の脇を擦り抜けた。
「ッ! こいつ!!」
まんまと騙されたことに気付いた小太郎は、慌てて身を反転させる。 実戦経験を積んでいる分それなりに予想外への対応は速く、獣の俊敏さでネギの背中に掴みかかった。
「(くっ、駄目か……!)」
逃げ切れない事を悟って、ネギが歯噛みした時だった。
闇色に染まった天空より、小太郎の五爪の先端と少年の背中の間に割り込んだ影が在る。
黒装束を身に纏い、長大な棍棒を肩に担いだ男が在る。
「よお、がんばったじゃねーか、ネギ」
それは、激という名の男だった。 |