ぱん、という軽い音が、何処からかアスナの耳朶に届いた。
映画に良く出てくるような音だなと彼女は思ったが、それが銃声であるとは気付かなかった。 すると、突然アスナの首を締め付けていた手の力が弱まって、ぱしゃりと川の中に尻餅を突いてしまう。
眼の中に入った水を拭い見上げると、最前まで自分を宙吊りにしていた鳥人間の姿をした妖魔が、額を押さえ、苦悶に満ちた呻き声を上げている。
地獄の底から響いてくるようなそれに若干気圧されながらも、アスナは見た。
妖魔の額に、一円玉分にも満たない小さな風穴が空いているのを。 まるでトンネルのように向こう側の風景が覗けた。
『―――新手、かッ!?』
それは致命傷だったらしい。
既に妖魔は消滅を始めていて、その輪郭は陽炎のように歪み、崩壊した肉体が無数の白煙の帯と化して流れ出ている。
異変は続いた。
アスナの視界の端を、黒い円盤が横切る。 豪風を巻き上げて飛来したそれは、よく見れば巨大な十字架。
しかし縁が刃となったそれは、神が使わした聖なる使者では無く無慈悲に敵を駆り立てる死神の鎌だ。
夜に、凄烈な火花が散る。
同時に響き渡った金属音は、今まさに刹那を一撃しようとしていた大鬼の棍棒が、半ばから断ち割られた証だった。
「―――らしくない苦戦をしてるようじゃないか?」
冷静。 それでいて、何処か呆れを含んだ声。
「―――まったくでござるな。……それにしても何で刹那殿ばかりかまわれて……」
続いた声は、何故か拗ねていて。
聞き覚えのあるそれらを辿れば、川岸に立っていたのは見慣れた人物達。
龍宮真名。
長瀬楓。
そして平均よりも長身である二人の背中からひょっこりと顔を出したのは、古菲と綾瀬夕映の二人組み。
―――ここは、何時からクラス会の会場になったのだろう?
ぼぉっとした頭の片隅でそんな事を考えたアスナは、直後驚愕に絶叫した。
「……えええぇ〜〜〜っ!?」
目の前に広がる光景を見て、爆は心臓が止まりそうになった。
今まさに刹那を襲おうとしているのは鬼の棍棒では無く、どういう訳か真名の二挺拳銃と楓の巨大手裏剣なのである。
「……?」
眼の錯覚かと思って、数度瞬き。 視線を戻す。
それらは間違いなく彼女の額と首に突きつけられていた。
ドス黒い殺気を撒き散らす二人の腰に腕を捲きつけるのは、古菲と夕映だ。
「真名、落ち着くアル!」
「長瀬さん、気を確かに!」
必死に呼び掛ける二人。
しかし悲しいかな。
真名も楓も、耳の周辺が真空状態にでもなっているのか一顧だにしない。
その傍らでは、どうしていいか分からないアスナが右往左往していた。
どう考えても好機である筈なのに、周囲の妖魔達が少女らに襲い掛からないのはこの修羅場に巻き込まれたくないからだろう。
爆だって嫌だった。 火山口に飛び込む方がまだマシと思える。
だが、状況は沈黙を許してはくれなかった。
一刻も早く妖魔達を殲滅し、ネギの手助けに向かわなければならない。 夜空を貫く光の柱を見る限り、木乃香の救助は成されていない様だ。
その前に、銃殺と同時に斬殺されるという貴重な体験をしそうな刹那を救助しなければならないが。
「真名、楓、何をやってる!?」
呼びかけると、一瞬肩をびくりと震わせた二人はほぼ同時に振り返った。 そして爆の顔をみるや、さあっと顔色を変える。
見事な青色に。
「ば、爆さん、これは違うんだ」
「そ、そうでござるよ。決して独占の代価を血で払ってもらおうなどとは……」
古菲と夕映を振り払い凶器を背中に隠す真名と楓だったが、拳銃はともかく身長を超える巨大手裏剣は完全にはみ出ていた。
弁解はどうでも良い。 というか、刹那を亡き者にしようとした理由を聞いた瞬間精神が崩壊する気がしたからだった。
「ところで、お前―――夕映だったか、何でここにいる?」
それは別段咎めるための言葉ではなかったが、青みがかった長髪の少女は僅かに肩を震わせた。
瞳に映る恐怖と不安に、爆は眉を顰める。
彼女からしてみれば、今やこの森は非日常の塊だ。 幼い頃聞かされた御伽噺に登場した妖怪達が実在するなど、今まで想像すらしなかったに違い無い。
自分はとうの昔に異形への恐怖心など忘却してしまったが、考えてみればその方が異常なのだ。
言葉は選ぶべきだったか、と今さらながらに爆は後悔した。 彼女に必要なのは問い質す言葉では無い筈なのに。
「……のどか達は無事だ。全員石化を解いてある」
僅かながら語調を緩めて、爆はそう言ってやる。 夕映は、それに少しだけ安堵した様だった。
物言わぬ石像と化してゆく友人達背せを向けて一人だけ逃げるのには、どれ程の勇気と決断力が必要だったか。
「楓、こいつを頼む。近くに屋敷がある筈だ」
こんな所に長居はさせまいと指示を飛ばせば、使命された楓は素早く動いてくれた。 頷いた彼女は即座に夕映の肩を抱くと、僅かに地を蹴る音だけを残し、まるで幻であったかの様に姿を消す。
最近主に凶器を用いた奇行が目立つ楓だったが、いざと言う時は頼りになってくれる―――彼女に限った話では無いけれど。
◇◆◇◆◇◆
「……またアンタか、オッサン」
目の前に悠然と立ち塞がる黒衣の青年にを、小太郎は忌々しげに睨み付けた。
だが、不敵に笑う激はたじろぎもしない。 まるで岩山の様に不動。
その余裕の正体に気付いてしまって、小太郎はぎりりと歯噛みした。
―――敵として、認識されていない。
例えば、敵意を向けられたかといって、子犬を警戒する獅子はいない。 そんな次元なのだ。
その事実を受け入れるのは、あまりに屈辱的で。 小太郎はかっと牙を剥いた。
「男と男の決闘、邪魔すんなやッ!」
激の眼に、鋭さが宿る。 黒瞳からの視線が、まるで矢の様に小太郎を射抜いた。
「そりゃ、てめえの都合だろ? 抜かすなよ、餓鬼が」
顔は依然前方に向けながら、彼は背中越しにネギに語りかける。
「おいネギ。ここはいいから、嬢ちゃん助けに行ってやんな」
「え……でも」
「いいから」
食い下がるネギを、言葉だけで促す。 少年はそれでも不安げにしていたが、逡巡は数秒にも満たない。
手にした杖に跨ると、浮遊用の力場を生み出して飛行の体勢に移った。
「! 待っ……」
それを見逃せる小太郎では無かった。 手を伸ばし、駆け出そうとする。
そしてその行為もまた、見逃される事は無かった。
ぴたりと、喉下に棍棒の先端を突きつけられる。 石像のように硬直し、冷や汗を頬に感じた小太郎は、結局夜空へと飛翔したネギを捕らえることは出来なかった。
魔法使いの背中はあっという間に遠ざかって行ったが、恐怖で凍りついた頭は肉体を動かしてはくれない。
時間にすれば、一分も経っていまい。
それでも棍棒が引かれた時、小太郎はまるで何時間も立ち尽くしていたかの様な疲労感に襲われた。
このまま倒れ込んでしまいたい。
全身に圧し掛かる重さに任せて。
けれど、小太郎の誇りはそれを許容しなかった。 自己を支える支柱であった実力ですら、足元にも及ばない。 その上にそんな醜態を重ねてしまえば、自分は完全に負け犬になってしまう。
小太郎の膝を立たせたのは、そんな思いだった。
「何で、何で邪魔するんや!?」
絶叫。
それが怒りによるものなのかそれとも別の理由があるのか、自身にも分からなかった。 だが、それは冷たく切り捨てられる。
「邪魔もなにも、俺はネギの手助けをしただけだぜ。前に進むっつーな」
言ってから、激はへらりと笑った。 おどけるような表情が、非常に気に触る。
「大体、決闘てのは両者合意の下にやるもんだ。一方通行じゃ成立しねぇんだよ」
淡々と叩き付けるような声音に、小太郎がぐっと唸った。
自分の身勝手さなど、わざわざ言われなくとも重々承知している。 ネギの置かれた状況を理解出来ぬ程、小太郎は愚鈍では無かった。
それでも、それでもなお、身を突き上げる衝動がある。
心を熱く焦がす、真っ赤な炎がある。
狗族と、人間の間に生まれた異形の身体。 それ故どちら共に疎まれ、気付けば独りで。
どうせ大切な物など無いのなら、自分の為に生きる。
そう決めたのだ。
「だったら、まずアンタと戦るまでや」
右手の爪を立て、上着を引き裂く。 簾のように無残な姿となった学生服が、草の上に落ちる。
露となった上半身は、既に白銀の毛並みに覆われ始めていた。 迸る闘争心に応じるように、爪は鋭く伸び、頭髪は根元から白に変色してゆく。
胸奥から湧き上がる高揚感が、例えようも無く心地良い。
「―――仕方ねえ、付き合ってやっか」
担がれていた棍棒が、ひゅん、と唸りを上げて回転する。
今はもう、それだけしか見えない。 飛び去ったネギも、千草がしようとしている事も、もはやどうでも良かった。
「おぉおおおおおおッ!!」
獣染みた咆哮を上げて、銀影は黒影に飛び掛った。 |