最近は説教臭くなって困ると、爆は無闇によく回る自分の口を呪った。 何が困るといえば、気を落ち着かそうとした千草を、その意図に反し泣かせてしまったことだ。
腕っ節が強いだけではどうにもならないという点では、泣く女は高ランクのトラブルモンスターより遥かに手強い。 悔しいが女性の扱いに関しては、地球上に住む他の男達の中でもっとも劣っているだろう。
「(……子守なら、したことがあるんだがなぁ)」
GC時代に出会った壺の妖精に思いを馳せつつ、爆は無為に宙空に漂わせていた視線を腕の中に移した。 そこでは多忙の母親から押し付けられた赤子の代わりに、彼よりも大分年上の女が落涙している。
こんなところをピンクに見られでもしたら、また喃喃と嫌みを言われるのは明白だった。 何かと口出ししてくるのは、七年前と少しも変わらない。 言えば彼女は否定するだろうが、年を積む度に、祖母のシルバに一歩一歩近付いている。
その時、爆の鼓膜を鋭く貫く破裂音が高らかに上がった。 発生源を辿ろうと首を振り出した爆は、間近に迫った半透明の障壁に瞠目する。 押し退けられた湖水が波となって白い飛沫を上げ、無関係の爆に抗議するかのように降り掛かった。
「な、何だ!?」
爆は慌てて湖面を蹴り付け、広がる波紋を置き去りにその場を離れた。 障壁はその波紋をも飲み込んで、さらにさらに膨れ上がってゆく。 足は止めず首だけを後方に向けると、しばしして成長を終えた障壁はリョウメンスクナを中心に据え、ドーム状に展開している。
距離が開くにつれ視界も広がり、直立する大鬼神の傍に火を吹いて浮かぶ人影があることに気付いた。 それは、緑色の髪をした少女の形をしていた。
「あれは、茶々丸か?」
呟きが爆の口を衝いて出る。
彼女がいるということは、その主であるエヴァンジェリンもまた、この場所の何処かにいるということだ。 宿舎で別れてからそれきりで、何をしているのかと思っていたが、この巨大な障壁――いや、結界か――は彼女たちの仕業か。 麻帆良学園に閉じ込められていた積年の鬱屈も込められていたのだろう、膨大な術の余波で全身ずぶ濡れである。
くしゃみを一つ夜気に叩きつけ、鼻を啜った爆はリョウメンスクナに視線を移した。 六十メートルの大鬼神は身動ぎもしない。 四本の剛腕は力無く肩から垂れ下がり、四つの眼は何処か彼方を見据えて虚ろ。 木乃香の魔力に制御されていたとはいえ意志が無いではないだろうに、己を包み込む結界に対して何の抵抗も見せないのは何故だ?
考え出してしまえば、不安は心中に止め処なく降り積もった。 このままでは、まずい事になる。 直感にそう告げられて、爆は千草を抱えた腕に力を込め、ネギ達と別れた大橋に足を向ける。 重い何かが水面を叩く音が耳朶を打ったのは、同じく靴底で水面を蹴ろうとした瞬間だった。
「!?」
ぞわりと悪寒が背を這いずり、爆はリョウメンスクナに首を振り遣った。
山が如き巨体が、震えていた。 振動は湖全体にまで影響を及ぼし、荒々しく波打っては湖面に立つ爆の足を掬おうとする。 水が弾ける音が、また一つ、二つ、三つ。 鼓膜の残響を辿り視線が落ちて、リョウメンスクナの腰元で止まった。
「岩が……!」
爆は瞠目した。 リョウメンスクナを封印していた楕円形の巨石が、罅割れて崩落している。 死人の肌に似た灰色の欠片が、水面を割って沈んでゆく。 巨石の崩壊が進むとともに、大鬼神の背が、少しづつ伸びていることに気付いた。
いや―――正確に言えば、奴は取り戻そうとしているのだ。 己の、本来の身長を。
冷や汗伝う爆の顎が、ゆっくりと上がってゆく。 石の欠片が落ちる音に合わせて、少しづつ、少しづつ。 結界が弾け霧散するその様は、爆に小鳥が卵の殻を突き破る光景を連想させた。
音が止み、顎も止まった時、リョウメンスクナには、下半身が在った。 今や影も形も無く砕け散った巨石に封じ込められていた両脚が、天地繋ぐ柱が如く上半身を支えている。 元より雲を突かんとして巨大だった身長は、既に百メートルを超えていた。 神の名に恥じぬ荘厳なる気配を放つ巨躯は、爆をして畏敬の念を感じずにはいられない。
完全なる復活を遂げたリョウメンスクナが、周囲の空間を押し退けるように大きく四本の巨腕を広げた。 口が開き、尖塔を無数に植え付けたような牙が剥き出しとなって月光の下で白く輝く。
―――グォオオオオオオオオオンンン!!!
雷鳴が如き咆哮が、地より夜天に駆け上った。 それは大地を揺るがし、森を震えさせ、湖面を荒し、聞く者全ての心に恐怖を刻み込む。
瞳には、怒りがあった。 自分を石ころに封じ込めた、小さき者どもへの怒りだ。 声には、喜びがあった。 これより自分の手で生み出す、阿鼻叫喚への喜びだ。
リョウメンスクナの右腕の一本が、宙空に差し伸べられる。 そのたった一動作が大気を割って、風さえ巻き起こした。
「何をする気だ……?」
爆の呟きに答えた訳でもないだろうが、リョウメンスクナの掌に光球が生まれた。 湖面が白く眩ゆく染め抜かれる。 まるで、太陽が朝になるのを待ち切れずに舞い降りてきたかのようだった。
開いていた五指が、速やかに拳に転じる。 応じて、光球が粘土のように潰れて変形した。新たに生まれた長槍が、細く鋭く光輝を放つ。 リョウメンスクナの腕が、高さを変えず背中に回される。 力を溜めているようだった。 何が目的かなのか、その槍が何をもたらすものなのか、その時点で知れた。
「くっ!」
爆が風となってその場を離れるのと、リョウメンスクナの手より長槍が離れるのは、ほぼ同時だった。 一筋の閃光が夜天を裂き、直後に轟音。 音速を超えた大鬼神の投擲。
光の長槍が、彼方の森に吸い込まれ―――爆音が轟いた。 赤々とした火柱が夜空を貫き、爆風に巻き上げられた木々が灰となって舞い散って大気を白く汚した。 爆心地には黒煙が大破壊の余韻としてたなびくのみで、何も残っていない。 森の中に直径二十メートル程の穴が、ぽっかりと開いていた。
「ッ!!」
爆は一瞬、息を詰まらせた。 それから、長槍の着弾地が楓達が戦っている場所から遠く離れていることに安堵し、息を吐きだした。 あれ程の破壊力は、爆でさえなかなか出せるものではない。 神の名を冠するだけはある、ということなのか。
「な、なんや、あれは!?」
胸元で、上ずった声が上がった。 千草である。 未だ涙の残る眼が、極限まで見開かれていた。 リョウメンスクナに驚愕していることは明らかであったが、彼女が召喚したかったのも、そのリョウメンスクナである筈だ。
「どうした?」
「うちが聞いたよりも、でこうなっとる。封印されとる間に、魔力を溜めたんか……?」
千草の声は、震えていた。 要するに、触らぬ神に祟りなしという諺は本当だった、ということなのだ。 寝た子を起こすなでもいいだろう。 では、再び眠らせるにはどうすれば良いのか。
「千草、封印の仕方は知ってるのか?」
爆の問いに、千草の首が横に振られる。
「……うちが調べられたんは、復活の儀式までや。たぶん、長しか知らへん」
そうか、と爆は短く答えると、リョウメンスクナに視点を戻した。 己の生み出した破壊を誇るように、大鬼神が咆哮する。 凱歌にも聞こえた。
封印できないのならば、やるべきことは一つしかない。 リョウメンスクナを倒す。 だが、あの巨体と破壊力に、果たして太刀打ちできるのか。
「(いや、違うな)」
爆は内心で苦笑を漏らすと、たった今浮かんだ思考を打ち消した。 久々の大物に、何時の間にか弱気になってしまっていた。 戦いは、勝てるかどうかなどではない。
―――やるか、どうか、なのだ。
「まあ、炎の奴よりは、簡単な相手だろうさ」
再戦を誓った男に思いを馳せて、爆は夜天を見上げた。 そうだ。 たしかにリョウメンスクナは山のように巨大だが、自分の目指す男は、それより遥か高みにいるのだ。 山相手にまごついている暇などない。
右肩のジバクくんに目を向ける。
「いくぞ、ジバクくん。モンスター退治だ」
ヂィッと威勢の良い返事を耳朶に残し、爆は背中の大剣を抜こうとした。 それから、腕の中で呆然としている千草の存在を思い出して、
「……とりあえず、こいつを置いて来てからな」
ヂィ……と応じた鳴き声は、少し情けなかった。
◇◆◇◆◇◆
「死ねッ!」
罵声とともに放たれた拳大の氷塊が、屈んだ爆の頭上を行き過ぎた。 続く第二弾第三弾も、体を開いて悠々回避。 目標を見失い、失速しては湖面に飲み込まれ、小さな波紋を広げる氷塊の群。
「ええい、大人しく喰らえこの誘蛾灯男!」
怒鳴るエヴァンジェリンは動悸も荒く、広げた掌を銃口にように突き付けてくる。 周囲ではネギやアスナ、刹那に茶々丸に木乃香、駆けつけてきたカイとピンク達が固唾を飲んで――一人はにやにやとして――爆を見守っていたが、助けは期待できそうになかった。 背中に隠れる千草は問題外。
「お前に殺される理由は無いぞ」
爆はそう言って、飛来した第四弾を右の正拳で粉砕した。 千草を置きに祭壇に戻ると、そこにいたエヴァンジェリンが火山噴火もかくやという勢いで大激怒。 金髪を振り乱して襲いかかってきたのである。 ここ数日間殆ど相手にしてやらなかったことを除けば、落ち度らしいものは見つからなかった。
その時、爆の向こう側に立つ刹那と、激しく上下するエヴァンジェリンの肩越しに視線がぶつかる。 しかし彼女は口をへの字に曲げるや、ぷいと顔を明後日の方向に反らしてしまった。 爆は味方を探して首を振りたくると、何事かぱくぱくと口を動かすピンクが目に入った。 声にこそ出てはいないが、その唇の動きから、何を伝えたいかは理解できた。
すなわち。
『こ・の・ロ・リ・コ・ン』
その隣のカイは、泣いていた。 堕ちた友を哀れむ、悲しみの涙だった。
「……っだぁあああああああッ!!」
場の空気を打ち壊すように、爆の喉奥から意味不明の絶叫が迸った。 驚いたエヴァンジェリンは一瞬目を丸くしたが、すぐさま目尻を釣り上げて怒鳴り返す。 突きだされた人差し指が、真っ直ぐに千草の顔を指した。
「叫びたいのはこっちの方だ馬鹿たれ! 何なんだそいつは!? また新しい女を作ったのかッ!」
「論点はそこなのか。それとその言い方はやめろ。多大な誤解を招く」
「何が違う!? どう違う!?」
うぅ〜ッと白い牙を剥いて唸るエヴァンジェリンの姿はまるで金毛の子犬のようで、場違いに微笑ましい。 とはいえ、彼女の赫怒の程は十分に伝わってきた。 ならば受ける方も、不真面目に取り合う訳にはいかない。 爆は溜息とともにしゃがみ込み、エヴァンジェリンと目線を合わせた。
「俺が悪かった。そろそろ機嫌を直してくれんか」
言われてエヴァンジェリンは、それでもむすっとして頬を膨らませていたが、
「……明日一日、私の奴隷」
「……まぁ、仕方ない」
苦虫を噛んだような爆の表情は、とりあえず彼女を満足させたようだった。 傍の茶々丸が、機械故に感情を映す筈の無い瞳を輝かせていたように見えたが、おそらく勘違いだと思われる。
「爆さーん!」
呼ぶ声が耳朶に届くが速いか、脇腹に衝撃を受けた爆はくぐもった呻き声を上げて転倒した。 視界の端で長い黒髪が宙に踊り、襲撃者の正体を彼に教えた。 近衛木乃香である。
「ドレイなんてあかん! 不潔やインモラルや!」
「……元気そうだなお前」
不様に横たわる最強のGSに対し、それに縋り付く少女に疲労の色は少しも見当たらない。 むしろ以前にも増して活発になっているようでさえある。 首を擡げて木乃香を見遣ると、彼女は頬をほんのりと紅く染めていた。
「そんなにヒドイこと、されへんかったかし……それにその、ちょっと気持ち良……あぅぅ」
恥ずかしさを吹き飛ばすように、木乃香の首が黒髪を波打たせて左右に振られる。 魔法についてそう博識でも無い爆には推測するしかなかったが、おそらく魔力が解放されたことが原因なのではないか。 例えば契約執行時のアスナのように、魔力というものは人にある種の快感を与えるようである。
それにしても、と爆は木乃香を剥がし、立ち上がりながら千草に目を移した。 その視線に気づいてか、彼女の唇が固く結ばれる。 その表情を生み出す感情は、後悔以外にはありえない。 それが向かう所は、きっと後に与えられる処罰などでは無いのだろう。
どうにかしてやりたい、とは思わない訳ではなかった。 だが犯してしまった罪科は、力で、それも他人が左右できるものではない。 武力の及ばぬ事に関しては、爆はどうしようもなく無力だった。 といって、この場においてならば、できることはある。
「さて……いい加減、こいつをどうにかしなければな」
そう言って爆が振り仰ぐと、その場の全員がそれに続く。 幾多の視線が集中する先に、リョウメンスクナの威容があった。 不覚にも封印された時の苦い記憶を思い出しているのだろう。 光の槍を放った後、動かなくなった大鬼神は、黙然として爆達の出方を待っているようだった。 だが、この状況が長々続くとは思えない。 こちらに封印の手立てが無いと悟れば、すぐにでも暴れ出すに違いなかった。
「爆さん、僕も行きます!」
手に杖を携え、ネギが勇敢にも進み出る。 が、足取りは弱弱しく、膝は疲労故か震えていた。 心技体で一つならば、心強く技そこそこであろうとも、体がこのあり様では死にに行かせるようなものである。
「無理するな、休んでいろ。刹那、木乃香たちを連れて森の楓達と合流してくれ。ここも危険になる」
言われて、刹那の顔に不安が浮かんだ。
「しかし、爆さんだけでは……」
続く言葉は、その喉奥に朧として消えた。 何も知らぬ者から見ても、爆が巨象に立ち向かわんとする小蟻と思えるに違いない。 まして、刹那は大鬼神の破壊力を目の当たりしたのだ。 その時、二人の間に鈴の音のような笑声が割って入る。
「何も心配する必要はないぞ、桜咲刹那」
ぐい、と爆の腕が白魚のような手に引かれた。 その腕の先で、エヴァンジェリンが薄い胸を張る。
「何せ、この私が手を貸すのだからな。ほれ、有象無象はとっとと去ね」
のら犬でも追い払う仕種そのままにしっしと左手首を動かし、右手で爆をより近くに引き寄せた。 まるで、自分の物だ、と誇示するかのように。 祭壇のあちこちから、殺気が炎のように立ち昇る。 その筆頭である刹那の双眸が、カッと黄色く煌いた。 ネギとアスナが息を呑んで後退する。
「……あなたとは一度決着をつけるべきだとつねづね思ってました」
《夕凪》が鞘より解き放たれ、死神の鎌よりも鋭く光った。 エヴァンジェリンも牙を剥いて威嚇する。
「こんな時に仲間割れするなお前らーッ!!」
爆の叫びが木霊した時だった。 野太刀を構えかけた刹那の両脇から陶器に似た色合いの腕が生え、そのまま彼女を羽交絞めにする。 肩越しに、揺れる緑髪が見えた。 茶々丸である。
「爆さん、マスター。お急ぎを」
機械仕掛けの少女は、暴れる刹那を物ともせずに引き摺って行く。 躊躇いつつ、ネギ達もそれに続いた。
「はははは。ごくろうだ茶々丸。そのまま湖に放り投げてもいいぞ、邪魔だから」
主の笑い声に、茶々丸の返答は無い。 その代わりに、ぼそりと小さく言の葉が落ちた。
「……一週間、葱の味噌汁とガーリックライス……」
今後一週間苦しめられることになる献立に腹で茶を沸かしているエヴァンジェリンは気付かず、それを聞き留めたのは、爆一人だけだった。 何も聞かなかったことにしよう。 そう頭を振って、再びリョウメンスクナの高層ビルに匹敵する巨体を見上げた。
通常の生物のように頭が弱点かは知らないが、頭頂部までが高過ぎる。 全力での跳躍でも届きはしないだろう。 エヴァンジェリンは飛べるが、今のところ爆は地面を這いずる他に移動手段はない。
いや、正確にはある。 あった、のだが。
「くそっ。あいつがいれば、空も―――」
風を切る音に、鼓膜が震える。 音源を捜し頭上を仰ぐと、巨大な影が砲弾の勢いで落下してきた。
「どわぁっ!?」
避ける間もなく直撃を食らい、爆は吹っ飛ばされた。 ジバクくんが転げ落ちてヂィッと怒りの声を上げる。 リョウメンスクナの攻撃か、と立ち上がりかけると、影の落下地点でピィと鳥に似た鳴き声がした。
それは全体として、珍妙な生き物だった。 黄色いペンギンに似たずんぐりとした体は、人が三人は乗れるほどの大きかった。 その上、頭頂部には橙色のトサカ生えているのだから、奇妙奇天烈極まりない。
だが、爆もジバクくんも、それが何と言う名を持っているかを知っていた。 知らない筈がなかった。
「チッキー!?」
青年が泡を食って名前を呼ぶと、その生き物はピィピイと嬉しそうに鳴きながら、あるいは泣きながら彼に擦り寄った。 彼の名はチッキー。 ツェルブワールドに住むドライブモンスターの一種であり、七年前には爆を背に乗せてGCの活動を手伝っていた。 そのペンギンに似た姿に反して、空を自由に舞うことができる。
「そうか、ピンクとカイが連れてきたんだな」
頭を撫でてやると、チッキーは心地よさげに目を細めた。 先刻カイが空から降ってきたから変に思っていたが、これが理由か。 数百年の人生の中で初めて見る生物に、エヴァンジェリンは怪しそうに眉間に皺を寄せる。
「……何だそいつは?」
「これで、俺も空が飛べるということだ」
自信満々に、爆が答える。 その肩にジバクくんがよじ登った。 今宵、最大の戦いが始まる。
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