長瀬楓は忍者である。
忍者とは、言わば道具だ。
その身に感情は必要無く、主君の命令をならば親兄弟だろうとその命を断ち切る。
心には感慨も無く、眼には涙すら無く。
その身に誇りは必要無く、目的の為ならば手段は選ばない。
例え、卑怯だ下衆だと罵られようとも。
その身に命は必要無く、目前で仲間が斃れようともその死体を踏破してゆく。
そして、自らも同じ運命を辿ることを覚悟する。
中忍というまだまだ未熟さを拭えぬ立場にある楓も、それを旨として十五年間を生きて来た。
しかし。
だがしかし。
最近では、その思想が一部変わってきていた。
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「……これは何だ?」
白い紙箱に収められた藍色の浴衣と、それを差し出してきた楓(何故か満面の笑みだ)を交互に見詰めると、爆は怪訝顔で訊ねた。
「浴衣でござるが?」
「いや、これが何かは知ってる。昔『セーブン』で見たことがあるからな」
だが、問題点はそこでは無い。 怪訝顔を崩さぬまま、いやそれを更に深めて爆は再度問い掛けた。
「俺が聞きたいのは、何でここにあるのか何だが」
「それは拙者が爆殿のために買ってきたからでござるよ」
「何のために?」
「夕方から行く夏祭りのために」
言われて、頭の中から思い当たる記憶を引きずり出した爆は「ああ」と声を上げた。
どういう訳か、麻帆良学園には『夏祭り』がある。
他の学校で行う『祭』と付く行事など学園祭や体育祭くらいだが、この学園はそれだけでは物足りないらしい。
そこが麻帆良クオリティと言うべきだろうか。
やる事と言っても精々露店を出す程度だが、それでも学園中を上げて行われるのだからそれなりの規模となる。
基本的に騒ぐのが大好きな生徒達は、後に控えた学園祭の前哨戦と非常に活気付いていた。
購買では、浴衣が格安で販売されている程である。
ただいま爆の目の前にある一着の出所もそこだった。
「どんな柄にするか迷ったでござるが、どうでござるか?」
「いやどうと言われても」
返答に困る。
そもそも、柄の好みを聞くくらいなら何故密やかに購入したのだ?
「そうでもしなければ、爆殿は普段着で夏祭りに行く気だったでござろう?」
図星であった。
基本的に、爆は衣服について頓着しない。
この世界にやって来た時の服装も何の飾り気も無い白シャツと長ズボンのみだったし、たまに買っても代わり映えはしない。
楓が浴衣を買いに行こうと誘ったとしても、このままで良いと拒否していたに違いない。
「しかしだな……ッ!」
尚も食い下がろうとする爆だったが、それ以上舌が動いてくれなかった。
何故ならば。
「……迷惑だったでござるか?」
楓が、上目遣いで顔を覗きこんできたからである。 それは的確に、そして完璧に男ろいう生物の弱点を突いた攻撃であった。
―――嗚呼、滅多に開かない両目に溜まった涙がいけない。
―――嗚呼、その庇護欲を掻き立てる何処かしおらしい声がいけない。
健全な男子ならば、百人中百人がノックアウトされる絶大な、あまりに絶大な威力。 これで「迷惑だ」などと答えてしまえば、男として、いや人として終っている。
朴念仁を地で行く爆とはいえ、これは効いた。 だらりだらりと、滝のような冷や汗が頬を滑り落ちてゆく。
会心の一撃だった。
そして、長い長い長い葛藤の結果、爆は敗北したのである。
凶暴な怪物にでも無く、ましてや遠い星にいる好敵手にでも無く、内心では作戦成功とほくそ笑んでいる少女にだった。
それも、完膚なきまでに。
◇◆◇◆◇◆
昼頃から既に開催されていた夏祭りだったが、混雑の度合いは夕暮れ時とは比較にならない。
足の踏み場も無いという言葉の意味をしみじみと実感出来るというか、見ているだけで酸素欠乏症になりそうなくらいだ。
群集の高揚した歓声と、何処からか聞こえて来る囃子が重なり、凄まじい喧騒を生んでいる。 所々に釣り下がった赤提灯が、ぼんやりとした光を放ち始めている。
「……」
そんな中、天に昇る夕日によって朱に染まった顔を、更に不機嫌で上塗りした少女がいた。
長瀬楓である。
首から下を浅黄色の浴衣で包んでいる彼女だったが、人込みに埋もれていて目立たない。 いやいや、彼女が不機嫌なのはそれが理由では無かった。
「ほら、風香、史伽。危ないから手を離すなよ」
「「はーい!」」
原因は、これである。
楓の前を先行する爆の両腕には、それぞれ風香と史伽が引っ付いているのだ。 平均よりも身長の低い彼女達が迷子にならないための、青年の配慮であった。
さすがに彼等を恋人同士と見なす者は皆無だろうが、双子の爆への好意を知っている楓は気が気ではない。 忍者たる者、例え隕石が降ろうとも冷静であれと教わったが、目の前の光景に比べれば隕石落下など全くの小事である。
そもそも、今回楓が爆を夏祭りに誘ったのは、彼との距離を少しでも縮めようと企んでのことだった。
同居人である楓を差し置いて、何だかよく分からない内にどんどん増えてゆくライバル。 「初めまして」こそ戦いで始まってしまったが、最初に出合ったのは他ならぬ自分なのだ。
体型云々については、真名はともかくそこらの有象無象に負ける気はしない。
風呂上りでタオルを巻いただけの身体に、風香と史伽は羨望の眼差しを送ったものだ。(爆には真顔で「風邪ひくぞ」と言われ撃沈)
戦闘における実力でも、ライバル達に遅れを取ることは無い筈だ。
問題は、爆の亀が如き鈍感さ。
もはや生半可な手は使うまい。 自分の気持ちを伝えるためならば、ABCどころかDとかEとか行き着く所まで行ってやろう。
まずは暗がりにでも連れ込んで(以下、自主規制)。
ぐっと拳を握り締め、そんな覚悟を決めた楓だったのだが、そういう時に限って邪魔が入るのが人生というものである。
「あっ、爆さん!」
横合いから、聞き慣れたボーイソプラノが飛び込んできた。
首を向ければ、そこにはクラスメートの神楽坂アスナと、担任にして声の主であるネギスプリングフィールドが露店の前に立っていた。 それぞれ、あまり飾り気の無い赤と青の浴衣を着ている。
「おお、ネギにアスナか。ん? 木乃香はどうした?」
そういえば、何時も二人と一緒にいる黒髪の 少女が見当たらない。 爆が首を傾げると、アスナとネギは揃って沈痛な面持ちになった。
「それが……「爆さんどこーーーー!?」とか言ってどっか行っちゃった」
「首引っ張られてた刹那さん、大丈夫かなあ……」
「猪かアイツは。」
最後の呆れたような声は爆である。
ちなみに、この時に及んでまで木乃香や刹那達と遭遇しなかったのは、楓が色々と画策した結果である(同居人である鳴滝姉妹からは逃げられなかった)。
だが本腰を入れて探し回られたら、さすがに逃げ切るのは難しい。 少なくとも、夏祭りのメインである七時半からの花火まで、誰にも邪魔される訳にはいかないのだ。
ただいま七時。
風香と史伽の対策は後に考えるとして、とりあえずこの場から離れよう。
「あの爆殿、あっちの綿飴は……」
「おっ、爆じゃねーか!」
またしても横合いから掛けられた威勢の良い声に、楓は頭から地面に突っ込みそうになった。
ネギ達の反対側を親の仇でも見るような目で睨みつければ、そこには露店。 すぐ傍に立っている黒い旗には、白抜きで大きく『射的』と描かれている。
四丁のライフル型のコルク銃が並んだ台と、小さな人形や駄菓子の箱が置かれた棚。 その間に、男は立っていた。
「……激。こんな所で何をしている」
簡素な黒装束に、額に巻かれた赤い鉢巻。 戦闘時には刃の鋭さを見せる顔に柔和な笑顔を浮かべて、激はコルク銃を手に取った。
「んーまあ、バイトみたいなもんだ。それよかやってかねーか? 坊主もほら、一回分オマケしてやっから」
「わぁ、ホントですか?」
「ふむ、それだったらやっていくか」
そう言ってコルク銃を手に取るネギと爆に、楓は焦燥心を隠し切れなかった。 表情こそ常日頃の笑顔を保っているが、冷や汗が額から頬に掛けて半透明の線を作る。
何故こうも邪魔が入るのだろう? 爆は何か、体内で人を引き寄せるフェロモンでも分泌しているのだろうか? 胸の内側から、ざわりと苛立ちが這い登ってくる。
三年間の学生生活の中で、まさか初恋を経験するなどとは、楓自身予期しなかった事態であった。
恋愛など忍者には不必要だと断定し、いずれ到来する筈の結婚にも、漠然としたビジョンしか抱いていなかったからである。
そんな自分が、たった一人の男の心を手に入れるために必死になっているのだから、人生とは実に分からないものだ。
時々級友の雑談に出てくる話だが、初恋というものは得てして実らぬものだという。 だが、楓はそれに準ずるつもりは毛頭無かった。
苦難上等、欲しいモノは己の力で手に入れる!
そんな訳で、これ以上邪魔が入る前にこの場から離れたかった。
「あのぅ爆殿。そろそろ行かないでござるか? 花火もあることでござるし」
「まあ待て、これが終ったら―――」
銃口にコルクを詰め、ボルトハンドルを手前に引き、銃床を肩口に押し当て、引き金に指を引っ掛け、狙いを定め―――そこで、爆は硬直した。 楓も凍り付いた。
景品棚の、ちょうど銃口の真正面。 そこで、戦国時代の晒し首が如く、艶やかな銀髪の青年が怜悧な美貌を覗かせていた。
雹である。
「さあ爆君、その引き金を引くんだ。そうすれば僕の身も心も全て君の物ッ!」
その清々しいまでの笑顔に、楓は、気付いたら十字手裏剣を投げていた。
とすっ、という小気味の良い音が、雹の額で慎ましやかに上がる。 ぶしゅう、と傷口から鮮血が噴出する姿は、まるで鯨のよう。
直後、ぐったりと首が折れた。
「ああしまった。拙者の番ではなかったでござるな」
楓の表情は、毛ほども揺るがない。
「あの……あれコルクじゃなくて凶器じゃ……」
「ネギ坊主もああなりたいでござるか?」
「いいえ……」
悲しげな眼で、ネギは首を左右に振った。 良い判断だ。
今の自分は、邪魔をするならば例え相手が無限に広がる大宇宙を司る神であろうとも虐殺できる自信がある。
くるりと踵を返すと、楓は爆と向き直った。
「爆殿、もうここを離れるでござるよ。アレが蘇る前に」
アレとは、ただ今血の滝と池を作り風香に棒で突付かれている鳥人のことを指す。
「まあアレについては否定せんが……今日のお前、何か変だぞ」
爆は怪訝そうに眉間に皺を寄せた。 恋愛以外についてならば、この青年は実に鋭い。
「そそっ、そんなこ、事は!!」
咄嗟に返した答えにも、楓は動揺を隠し切れていない。 一度乱されたペースを直すのは、至難の技だった。
「いっそ分かりやすいくらい動揺しとるな……本当にどうした?」
熱でもあるのか?
そう言った爆の気遣わしげな顔が近づいてきて、次の瞬間、額と額が優しく重なり合う。
「……ッ!」
唐突に、楓は呼吸が出来なくなった。
ああ、何でこの人は全くの躊躇無しにこういう行動が取れるのだろう?
少しは脈があるのか、それとも女として認識されていないのか。 嬉しいやら悲しいやら恥ずかしいやら何がなにやら。
しかし、楓には苦悩する暇も与えられなかった。
「僕の爆くんから離れろッ!!」
景品棚が倒れる雑多な騒音と、ヒステリックな咆哮との歪な二重奏が響く。 地面に敷き詰められた石畳を、赤い雫が禍々しく装飾した。
早くも復活した雹が、額から鮮血を零しながらも立ち上がったのだ。 毎度の事ながら、凄まじい生命力だ。
「チィッ、無駄にがんばりやさんめ……」
誰にも聞こえない様に小さく舌打ちして、楓は両腕を軽く振った。 「いざと言う時」の為、浴衣の袖に仕込まれていたクナイ手裏剣が両手に収まる。 未だ彼に勝利した経験は無いが、今の自分ならば殺れる自信があった。
「ほう、僕とやる気か……良い度胸だ!」
日が落ち、漂い始めた薄闇に走った二条の銀光は、雹の腰から抜き放たれた二振りの長刀だ。 切れ長の両目には、紛れも無き殺意の炎。
アスナとネギは慌て、鳴滝姉妹は縮こまり、爆と激は呆れ返る。 しかし今は他人の事など意識の外で、対峙する両者が思考するのは如何にして敵手を打ち滅ぼすかのみ。
要するに―――「地獄に落ちろ」。
「ふっ!」
地を蹴りつけ跳躍した楓は、低空の浅い軌道を描いて雹に肉迫せんとする。
銀髪の青年も、即座に長刀の刀身を半ばで交差させ、迎撃の体制を組み立てる。 そして長い両脚を畳み、接近する敵手に向けて飛翔した―――しようとした。
がつん。
鈍い音が上がったのは、雹の膝頭からだった。 脚が伸び上がった瞬間、コルク銃の置かれた台と衝突してしまったのだ。
「しまっ……」
当然、跳躍は果せない。 それ所か身体が前のめりに倒れ、そこに致命的な隙が生まれる。 冷静さを欠いていた雹に、地形を考慮に入れる余裕は無かったのだ。
そしてそれは、楓も予期せぬ事態であった。
真性の変態ではあるが、戦闘においては達人級の雹が、よもやそんな初歩的な失敗を犯すとは誰も思わない。 激烈な空中戦を予想して力を溜めていた両腕の筋肉は硬直し、虚空瞬動のために楓の脚を覆っていた気は散開する。
ごづん。
再度上がった鈍い衝突音。 無防備状態のまま突っ込んだ楓の額と体勢を崩した雹の額が激突した音だった。
頭に走った激痛に、ぐらりと視界が揺らぎ。
そのまま、意識は闇に飲み込まれた。
◇◆◇◆◇◆
「………う」
暗い暗い穴の底から、強制的に引き摺り出される感覚。 楓の意識が、現実世界へと浮上する。
目蓋を薄く開くと、ぼんやりと霞んだ世界が眼の中に飛び込んで来た。
「(ここは……?)」
少なくとも、雹と激突した場所では無い。 かなり地上から離れた場所に居るらしく、遠方に散ばる宝石のような輝きは、街を照らす人工の光。
そういえば、何故だか身体が温かい。 まるで、誰かに抱きすくめられているかのような……。
「気付いたか、楓」
その声は、すぐ耳元で聞こえた。
首を曲げるまでも無く、瞳を僅かに左斜めに動かせば、そこに爆の横顔があった。 二十cmも離れていない、極間近に。
「ばばばばば、爆殿!?」
羞恥の余り、赤面した楓は飛び退こうとし―――そこで、己の置かれている状況を理解する。
「おい、暴れると落ちるぞ」
世界樹の枝。 そこに、自分達は腰掛けているのだ。
枝と言ってもその縦幅は通常の樹木よりも一回り程太く頑丈で、まるで大地その物のようだった。
「良いなあ楓ねえ……」
爆越しに、風香と史伽が羨ましげな眼差しを送ってくる。
気付けば、肩には爆の腕が回されていた。 自分が気絶している間、転落しないように支えてくれたのだろう。
「しかし、何故ここに?」
「花火が見たかったんだろう?」
爆の前方を見据えたままの返答に、楓は疑問符を浮かべたまま頷く。
「そろそろ始まるぞ」
爆の言葉が合図だったかの様に、世界が虹色に輝いた。
打ち揚げ花火だ。
次いで、二発目、三発目が打ち上げられる。
豪快な七色の光が、夜空に巨大な菊の花を咲かせた。
美しいと、楓は思った。 他に言葉を尽くしようが無い。 青年も同様の感想を抱いた様で、その口唇は弦月を描いていた。
自分の視線に気付いたらしく、爆の黒い双眸が向けられる。
「また、来年も見に来るか」
それは、青年にしてみれば何の事は無い言葉だったのかも知れない。 だが、楓にとっては大いなる誓いとなり得る。
―――また爆と一緒に花火を見るためなら、例え岩に齧り付いてでも生き延びてやる。
夜空に、また一つ閃光が散った。
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