声は無い。
横目で、微笑ではなくなったその表情で出現したソレを確認している嶺峰さんが居て、相変わらず生き物としての領域の違い。そも、存在しているであろう地点がまったく異なる存在に対する威圧感しか感じていない私が居るだけ。
そうだ、アレは存在している領域、地点が違うもの。
地平線の向こう側、と言うのかな。
私たちは、あの地平線の向こう側を思考する事しか出来ない。
でも、どれだけ積み重ねようと思考は思考だ。真実にはなりえない。
地平線の向こう側は常に変異を繰り返している。
確認しに向かっていっても、地平線の向こう側って言うのは、どこのどの場所から見ても確実に存在しているんだ。
アレは、ソレに似ている。
何であるのかを思考する事しか出来ない。そして、その思考があたっている可能性は限りなく低く、解っているのは、アレがレッケルが言うとおりの生き物であると言う、信じがたい事実だけ。
その姿は先日見たときの姿とは大きく違う。
先日見たときは蜘蛛にも似た、多脚的なシルエットを持った、節足動物のような外見だったのだけれど、今目の前を悠々と、しかし、一切の振動、一切の干渉と言うそぶりを見せずゆくその姿は、蜘蛛と言うよりは、恐竜のような外見に近い。
でも、恐竜とは違う、四脚で移動し、その外見が鎧竜の様に似ているだけであり、実際としてのその姿は、まるで生き物との接点が存在しない、異形の姿形。
全体が流線型の銀壁装甲で覆われている。
頭部に当たる部位を含めて、全身も全身。
生身と言えるような部位など、一切外気に触れさせないかのように全身を銀壁で覆いつくしたソレは、巨木の陰から、相変わらず、先日同様さほど機敏とも思えないような動きでその場から離れていっている。
昨日ほど私が危機的な状況に陥っていないから、結構頭の中は冷静を保てていた。頭の中は、だけどね。
身体は指先一本でさえも動かせない。いや、動かせないと言うよりは、動かない。
蛇に睨まれた蛙と言う諺を知っている。
それは捕食者に睨まれて死を覚悟した蛙が何一つ行動を起こせないと言う状況を指しているのだと知っているけど、私の今の状況はソレに近く、同時にまったく違う状況なのだと理解している。
目の前のアレは、私たちなんて眼中にも無い。そも、アレにとっては私たちなんて取るに足らない存在に他ならない。
居ようが、居まいがどうでもいい。いや、アレから見れば私たちなんてさほど気にも止まらないような矮小な、そも、矮小と言う判断さえも持たれない様な、まさに存在していないもの、としてしか認知もされてない。
だからこそ、身体が動かないのかもしれない。
何とか動けって思ってはいるんだけど、まったくもって動かない。
私はどれだけ強大な相手であっても相対したのなら、必死で生き残る術を思考して身体を動かそうとする。
だけど、アレはどこかが違う。
人間と言う生き物では、最早アレの強大さ、存在感の恐ろしさに定義を当てはめる事はままならない。
あれは、人間と言う、現行地球上で一番知能がある、知能だけは一番発達している生き物である人間でさえも理解する事は出来ない、圧倒的なまでに理解不能としか言いようの無い存在だった。
人間が思考する最強でさえも、アレには遠く及ばない。
人が生み出す幻想では、アレにはたどり着く事さえも出来ない。
人では、もう、アレに至る事なんて出来ないんだと、見た瞬間に思い知らされたんだ。
だから、身体が動かない。
魔法なんて言う、一般社会においても相当異常な技術を扱っている魔法使いやっているって言うのに、目の前で悠々と歩き続けているコレは、そんな私たち魔法なんて言うものでさえもまともであると思わせるほどの異常感しか感じさせない。
存在自体が異常。存在していると言う事時点で、私たちの存在が塗りつぶされるかのような、虚無的な感触が、全身を這っている。
でも、どこか同じ感触を、私は味わっていたような気がしていた。
最近、極最近にこれと同じ、圧倒的な存在感に、自分が消えていくかのような錯覚は、そうだ、今目の前で立っている黒から銀へと染まったロングヘアを夜風に靡かせている、嶺峰湖華と言う人の笑顔を始めて見た時の、嶺峰湖華と言う女(ひと)と対峙した時のあの自己の存在が希薄になっていくかのような、そんな、あの時の消失感に余りに似通っていた。
巨体を揺らしながら、銀壁の存在が行く。
先日の夜の焼きまわしのように、圧倒的なまでの銀壁の外状の巨体が悠々と歩み続け、私はそれを見守れているだけだ。
唯一違うのは、目の前に立っているのは巨体だけじゃなくて、銀髪の魔法少女がいると言う事だけ。
嶺峰さんはやや悲しげな眼差しのままで、ソレを見送っている。
止めるような気配でもなく、押し留めるような気配もなくて、風に銀髪と魔法少女の服装を靡かせているだけ。
その姿は幽玄と言えば幽玄と言える光景なんだけど、でもこのままほおっておくってワケじゃ、まさかないわよね。
「心苦しくは思いますが、致し方ありませんわ。アーニャ様、参りましょう」
唐突にそう告げたか否や、嶺峰さんの左手が私の右手を掴む。
柔らかな、本当に暖かい、ふくよかな感触の手なんだけど、どこか冷たい印象を持った、硬い鉱物みたいな雰囲気を醸し出している手で私の手を掴まれたまま、あの異形、地面に突き刺さった多角錘の物体の方へと歩み寄っていく。
強く引かれている訳じゃないのに、嶺峰さんに引かれていっている私の身体は、軽い羽根みたいに軽く動いていっている。
「しっかりと掴まっていて下さいませね。少々荒っぽいのですが、あの方の前に回るにはコレしか方法がありませんので...予め謝っておきますわね。申し訳御座いません」
「え、ちょ」
真っ白い手が、その多角錘に添えられる。その後は、本当に驚くような動きだった。
嶺峰さんがその多角錘に手を添えて、僅かに引いただけだって言うのに、その多角錘が踵を返すかのように添えられた、私の手を握る嶺峰さんの手の方とは逆の右手へ底面が、文字通りに装着され、その異常なまでの大きさを感じさせないかのように、高らかに天上へと向けて掲げ上げられる。
多角錘を真下から見上げている。
嶺峰さんが掲げている多角錘は真下から見ると、何だか色々な機器が取り付けられている円状の底面が眼に入った。
嶺峰さんの右手は、その底面の中に付属されている吊り輪みたいなものをしっかりと握り締めているんだけれど、驚くのはその異常さだ。
私と同じぐらいの細さの手で持ち上げられている異常。
どうして持ち上げられるのかが理解出来ない。
先ず、その多角錘が一体なんで構築されているのかが理解出来ない。
どんな物で出来ているのか解らないからこそ、嶺峰さんが持ち上げられているんだと思いたいのだけれど、でもでも。
「では」
嶺峰さんの右手が捻られる。丁度、コンロの火をつけるときのソレに似た動き。
それに連動するかのように、掲げ挙げられた星型の多角錘の底面角に変化が起こる。
丁度鍋底のようになっていた底面。その四方向。東西南北方向から現れたものが、また度肝を抜かせるようなものだったからとんでもない。
一体何処に収納されていたんだかは知らないけど、ロンドンで修行中にTVで見た、ロケットの発射の時に見たあれと同じだ。
そう、大量の爆音と爆風、そうして爆炎を巻き上げて上空へと上がっていくロケットエンジンそのもの。
多角錘が斜め上方へ傾けられていく。同時に、何を仕出かすのかを理解してしまった。
一体何に使うものなのかずっと気にはなっていたんだけど、真逆、こんな使い方をするだなんて、一体誰が予測できるって言うのよ。
低い空圧音が高鳴っていく。周辺の空気を大量に吸い込んでいるのか、耳の奥が何だか痛くなったと同時に。
「参りますわ」
右手が引かれる。撃鉄を引く様にも似た、その様相。
その動きと同時に身体が一気に引っ張られた。
空を飛んでいるのか、いや魔法使いだから飛ぶことは良くあるんだけれど、こんな急激な動きで空を飛ぶことは無いって言いますか。
兎も角、その飛翔速度がとんでもなく速い。
何しろ、ジェットエンジンのようなもの四つがかりによる飛翔だもの。
周辺の光景が進むのが早く、身体に感じている風もかなり強い。
けれど、何故だから身体に感じられる風が勢い以上に弱く感じる。
一体時速で何キロが出ているのかは解らないけど、女とは言っても人二人を持ち上げてのこの速度。ソレがどれほどのなのかは、想像するに難くは無い。
だからこそ、変な違和感がある。
身体に感じる風圧が余りに弱い。
圧迫はすごいんだけど、風圧は低いと言う、その意味。
その訳は何となく解る。この多角錘の形状が、その謎の意味を見出してくれる手がかりだ。錘と言う形状である以上、この星型多角錘は空気を文字通り切って進んでいる。
それゆえ、まるでモーゼの十戒の如く、私たちが飛ぶ先の空気がどんどん左右へ分かれていっているんだ。だから、身体に感じる風圧は驚くほどに少ない。
世界の動きにもだいぶ慣れてくる。
急激な風景の変化にも、眼がやっと追いついていく。
巨木より高いところを飛んでいた。いつの間にかジェットエンジンの機能が半停止していて、中空に片手をしっかりと握られたまま浮いている。
ものの数秒しないうちに落ちるだろうと言うのに、不思議と恐怖心は無い。
それは、きっと、見上げている私の手を柔らかに包み込んでくれている女(ひと)が本当に嬉しそうに微笑んでいるからだと思う。
眼下に広がるのは星の瞬きにも似た町並みの光と、相変わらず銀光を弾き続ける、あの巨体が控えていた。
身体が急激に重力に引かれる。堆積を持ったものは皆そうだ。等しく重力に引かれて落ちていく。
私たちだって、勿論例外じゃない。ましてや嶺峰さんは、あんなでっかいおかしなものを持っているんだもの。全体の体積が重ければ重いほど、落下速度って言うのは速くなる、ってそういえば重力比率って重量に関係ないんだった。何を混乱しているんだかわたしゃ。
けど、どーゆー事か私たちの落ちていく速度がとんでもなく速く。心臓の異常な高鳴りが、今私がどれほど緊張しているのかをリアルに表現してくれていた。
理由は一つ。何時の間にか四つのジェットエンジンが上方に向けられて、空から地面へ向かって加速するようになっているんだ。
高鳴っていく心臓の高鳴り。でも、その高鳴りも、恐怖心からの高鳴りじゃない。
壮絶なまでの新鮮さ。感じた事も無いような事に対する、純粋な気持ちの高ぶり。
そうだ、不安なんて無い。だって手を握っていてくれる銀髪の人は、あと数秒で地面へ接触するって言うのになお微笑み続けているんだから―――
身体が横へ流れる。可動式のエンジンの横方向への急始動。
そのまま一気に地面が近づいてきて、星型の多角錘の頂点と、地面が接触する。
耳を劈くほどの轟音。多角錘の頂点が地面を抉って行く。
落下速度に加えて、地面と接する瞬間にエンジンが切れたとはいえ、双方の加速を伴っている物体だ。コンクリートの地面と接触すれば、その破壊力がどれほどのものだなんて理解出来ないほどお馬鹿じゃない。
だと言うのに、私をしっかりと抱きとめている上に、嶺峰さんは絶妙のバランス感覚で底面の部分にしゃがみ込み、しっかりと体重をかける事によって吹き飛ばされないように多角錘へとしがみついている。
いや、しがみ付いているんじゃない、これは確固として操っているんだ。絶妙なバランス感覚で、嶺峰さんはこの多角錘、地面との接触でガタガタに揺れているこの多角錘を完璧に操りきっている。
コンクリの地面を抉っているからか、多角錘の上は酷く揺れている。
飛行機が地面に着地したときを思い出す。
あの時と似たような揺れだけれど、最大の違いはその音と、衝撃の近さ。
飛行機の時とは違って、今、轟音と衝撃は真下。底面の真下で、飛行機が着地した時以上の轟音と衝撃が身体を襲っている。
だと言うのに、見上げている嶺峰さんはしっかりとした眼差しで、細められた、あの深紅の眼差しでいつの間にかに通り過ぎていたあの、銀壁の巨体を見据えていた。
そして、そんな嶺峰さんに抱えてる私も。振動も衝撃も一切気にはなっていない。不思議と、飛行機が着地したとき以上の安心感で、しっかりと腰から回された細い、真っ白な肌の手にしがみついている。
漸く、それこそ、100mちょっとは進んだだろうか。その場所で巨大な多角錘はその動きを静止させる。
私は嶺峰さんに抱えられ、抱える嶺峰さんは一心に、停止したことに気付いていないんじゃないかってぐらい、まっすぐにあの銀壁の巨体を見つめ続けている。
と、同時に、銀壁の巨体の頭部らしき部位に該当する場所が八つの輝きを放つ。
ソレはそのように発光する眼なのか、それとも、周辺の生き物に自己は危険な生物であるのだと知らしめる威嚇信号なのかは判断出来ない。
そも、生まれて始めて相対する存在だ。どんな行動を取ったと言っても、それが何を指し示すのかなんて理解できるわけが無い。
尤も、今のこの状況からすれば、銀壁の巨体の行動も、どこか危険を知らせるかのようなものに見えなくも無いんだけれどね。
巨体が大きく身を捩じらせたかと思うと、その前身に当たる箇所が前足と思しき部位に押し上げられる。
ライオンとか、そう言う肉食系の動物が。吼える直前に前足で大地を踏みしめ、天空へ向けて咆哮する前動作にも近いような、その行動。
だが、一つだけ違う事がある。八つの輝きが爛々と輝いている場所、恐らくは頭部であろうそこが、上下へ二分割される。
口を開ける動作に近い。開かれた口のような箇所の奥は、無限の暗闇だ。
あの巨体だから、一体口と思しき箇所が何処に続いているのかは見当もつかない。
いや、それどころか、口の向こう側は、まったく別の世界になっているんじゃないかってぐらいの不安感さえ与えてくるようなそんな開口。
その手前の空間が、口と思しき場所が開かれて、その状況を思考して、一体何をする気なのかと考えている間に、僅かに歪んだような気がした。
「認知されてしまいましたわ。アーニャ様、私(わたくし)の背後へお隠れ下さいませ。少々生身には酷であります」
軽い動きで嶺峰さんが動く。片手にあの巨大な多角錘を構え、かつ私を抱いたままで地面へ降り立ち、私を背後に回した後、多角錘を両手で構えるように持ち直して、しっかりと両足を地面へ接面させる。
そうして、縦に構えられていた嶺峰さんの両手が平行となったと同時に、銀壁に起きた変化同様、嶺峰さんが持っていた多角錘にもまた、変化が訪れる。
嶺峰さんが持っている多角錘をもう一回説明すると、それは今私が立っている、嶺峰さんの背後の方から見ると、ちょうど円形に見えている。円形状の土台と思える場所があって、その内側には多他の機器が取り付けられ、きっとそれを操作する場所なんだと思う。
それで、恐らくは、今銀壁が立っている、と言うか、存在している方向から見ると、まさしく多角錘と呼んでも差し支えない。八角の星型。
漫画とかである、五角の星型があるけれどその五角の星型の左右下に三角形を取り付けたような形、そう言う形となっている多角錘の先端が、銀壁の方へと向けられているようにも見えるでしょうね。
多角錘は恐らくは八片からなる菱形二等辺三四角錐の集まりで構築されている。
その一片一片が、嶺峰さんの手が平行に構えられたと同時に、各方向へと展開していく。
花が開くかのような、そんな工程にも似ている。
一点へ向けて終結していた花弁と言う名の菱形二等辺三四角錐。
それが、嶺峰さんの僅かな動きで各八方向へと展開し、見た感じでは、巨大な雪の結晶のような形へと変貌する。
その形状は、まさに盾。
ここに来て漸く判明した。
コレは、今嶺峰さんが真っ向に向けて構えているコレは、疑いようも無く、正真正銘の、楯、だと言うのだ。
そう確信できるのには訳がある。
さっきまでの風圧を切り裂き、身体に感じる風圧を極限まで鈍らせる作り、加えて、今、こうして八方向へと展開すると言う機能。
何より、ドリルにも似たような外見だと言うのに一切回転をせず、まさに槍の矛先だけのようなこの物体の正体は、まさしく、攻防一体、八片が一点に集中している時は突撃用の槍のような役割を持ちながらも立てとしての機能は損なわれず、かつこうして展開されても、外周へ伸びた八片はその鋭利さを失っていない。
つまり、防御に特化した形状であっても、膂力を尽くして振り回せば――実際、嶺峰さんがこんなものを振り回せるのかどうかはわからないけれど――
それでも、巨大な回転のこぎりの様な、または武器としての役割を十分に果たすような形状。
変化はまだ終わらない。外周八方向へ伸びた八片。その頂点同士から放電現象が発生して、八つの頂点それぞれの間に水かきのような放電による電撃の幕を構築していく。
それで完成なのか。目前に立った嶺峰さんが一回だけこちらを振り返り、嬉しそうな、こんな時には場違いのような、相変わらず眼を背けたくなるほどに綺麗な微笑で、私に笑いかけてくれた。
そうして、仕上げと言わぬばかりの奇声が耳に入る。
本当に私と、嶺峰さんにしか聞こえていないのか。世界は風に揺れ、夜の静寂と言うものに包まれているのに、頭の中へ直接声が響き渡る。
違う、これは声と言うよりは音だ。
聞いた事も無い音。
今まで十年ちょっとの間でも、一度たりとも聴いたことも無いような声音が耳を劈いてくる。
それが、目前の銀壁の巨体から発せられたものなのだと判断するが早いか、巨体の開口の前面の歪みが水に落とした波紋のように広がって、伸びる。
槍のように、鉄砲水のように、そして何より、理解する事が出来ない確固たる"異常"足りうるものとして、一直線にこっちへ伸びて来た。
目視は出来ない。
空間の歪みだけが、音も無くこっちへと空間から空間へ伝わる波紋のようにこっちへ一直線になって伸びてくるだけ。
避ける事なんて出来ない。空間から空間へ直接伝わる"ソレ"は、きっと回避行動にさえも反応して踵を返すでしょうって事が、否応なしにも理解出来てしまう。
あれは私たちにとって、理解不能なモノ。きっと、何が起きたって、私たちの想像を上回る事象に他ならない―――
それがぶつかる。音も無く、どれほどの勢いで直撃したのかも理解出来ないけれど、目前に展開されていた、巨大な"楯"となった多角錘が、私と嶺峰さんの目前でソレをかき消していく。
いや、かき消すって言うのとはちょっと違うかな。その工程は、かき消すと言うよりは、見えない何かと拮抗している、と言う表現がしっくり来る。尤も、こんな状況下じゃあ、もぉしっくりとかの意味も無いような気がしてならないんだけどね。
火花を散らして"楯"が"何か"と拮抗している。
轟音は無く、眩しいだけの発光現象が、私の視界を完全に支配しきってる。
それでも、身体が動かないのは恐怖心からとかじゃない。
誰だって、こんな意味のわからない、理解する事さえも不可能な状況に立たされたら身体が萎縮して動かなくなるかもしれないって言うのに、私の身体が動かないのは、どうも萎縮して動かないんじゃないらしい。
身体が動かないのは、何でもない。さっき、嶺峰さんにちゃんと言われた、あの一言。後ろに居るように、と言う一言にとんでもなく、安心しきっているからみたい―――
夜風が頬に当たって気持ちいい。騒々しさは無く、眼を覆わんばかりの発光現象も、もはや眼にはつかない。
ただ、月の光が結構まぶしいぐらいで、後は大きく花開いたかのような楯が、低い駆動音を立てつつ展開しているのと、銀壁の巨体が、相変わらずの意味不明さで佇んでいるだけ。本当に、それだけ。
一瞬の拮抗も何も無かったかのような静寂に身体をゆだねて、汗一つかいていない身体を、静かに夜の深闇、月に照らされ、僅かに照っているような深闇に預けきってる。
「今夜はここまでにして頂けると私もアーニャ様も嬉しいのですが」
やや困惑したかのような小さな声。
到底、銀壁の装甲に身を包んだソレには届かなく、人間の言葉なんて通用しようも無いって言うのに、巨体が静かに天を見上げた。
最早、私たちに構っている暇などない、そも、私たちなんて知覚していないかのような動きで天を見上げたソレの、背中の装甲の一部が羽根のように大きく広がった。
伸びる羽はオーロラじみて綺麗。虹色の光沢を放つ翼を広げても、僅かな風すら起こらずして、ソレは、月下に飛び立っていった。
その時の事は結構後になっても覚えていると思う。
あんなに激しい存在だったのに、去り際は穏やか。
理解出来ないものとしての存在感が成せ得る事なのか、圧倒的な存在感であった筈のソレは、一切の存在感も残さずに、月下へ飛び、ものの数秒で、視界から消えていった。
月に融けるように。夜空の星になるように。何より、手の届かない、地平線の向こう側へ帰るように。
楯が閉まる。
小さな駆動音だけを立てて、楯は、元のドリル状の多角錘型へと戻っていく。そうして振り返る、いつの間にかに戻っていた黒髪の女(ひと)。
笑っていた。何時もどおりの笑顔。私が始めて会った時と同じの、二度目に会った時とも同じの、あの笑顔。
小さな微笑。深紅の眼差しに、薄く開かれた唇。深い虚を湛えた、血まみれの井戸のような深さを持った眼差しでありながら、母親のように暖かな、何時も感じているあの笑顔で、嶺峰さんは笑い続けていた。
私を見つめて、私を、二度とは手に入らない、尊い大切な宝物のような、いや、それ以上の眼差しで、しっかりと私を見つめている。
それが何であるのか。理解できないと繰り返してきたけど、やっと理解できた気がする。
つまりは本当に何でもないこと。普通のことなんだ。
彼女は喜んでいるだけ。嬉しいから笑っている、楽しいから笑っている、一緒に居てくれる人が居るから、笑っている。
だって、あの教室で窓の外を眺めているとき、彼女の表情はどうだったのか思い出せない。
あの時は、少なくとも笑っていなかった。
一人ぼっちで、周辺の人は誰一人として彼女を見ていなくて、そんな拒絶の世界で世界の外だけを見据え続けていた。
それが悲しいとか、苦しいとか、辛いとかの感情はなかったかもしれない。ひょっとしたらそう言うのを自覚できないのかもしれない。
それでも、あの時までは彼女は一人で、何故、誰も自分へと言う疑問で満ち満ちていたんだと思う。
でも、そうして出会った。初めて自分を見てくれた人。それが、私だっただけ。
偶然、レッケルが喋っているところを見られたから、そんな事を面白半分でも話されたらとんでもない事になるから、私はソレを解決に向かっただけだった。
それが出会いで、こうして、ここまで来た。
そうして、今は笑っている。嬉しそうに笑っている。一緒に居てくれているから、一緒に居るから、喜んでいる。それが、この笑顔なんだ。
「みゅ、みゅー」
っと、レッケルが泣きながら胸元から顔を出してくる。そりゃあ吃驚するわよね、私も吃驚してる。
何せ、変なものに乗った、いやアレは運ばれた、か、まぁそんなんだけじゃ飽き足らず、あの銀壁の巨体も、見た事もないような動きを見せたもんだから、レッケルでなくてもそりゃ泣きたくもなるわね。
尤も、かく言う私はそんなんでもない。魔法使いなんだから慣れているのかもしれないけど、それでも刺激が無かったわけじゃない。
なら、どうしてあんまり驚いたり、困惑したような節とかが見えないのは、きっと、きっと彼女なら、彼女と一緒なら大丈夫だっていう、奇妙な確信があったからかな。
「驚かせてしまいました。レッケル様、アーニャ様、申し訳御座いません。
あの方も今日は此方での活動はなさらないようですし、今夜はこれまでで」
胸元から頭を出したレッケルを両手で向かい入れ、自分の顔の真正面へ持ってくる嶺峰さん。
ぷるぷる震えるレッケルはなんだけど、それを優しげに見つめ、両手で暖めてあげている嶺峰さんの優しさに、ちょっぴり感謝。
こう言う人なんだわね。どんなに小さな命でも大事に出来る女(ひと)。
外見や行動、その内面は私たちとは領域の違う、まったく異質なものとしてなってしまっているから、私たちじゃどうしようもなく、拒絶とか拒否の行動でしか示せないけど、それでも、本当は優しくて、こんなに素敵な人だったんだ。
普通の女(ひと)のような憧れを抱いているかのよう。
普通に生きていければいいと、周辺の人たち同様に、友達と笑い会ったり、語り合ったり、一緒に登下校できたり。そんな生活を望んでいるだけなのかもしれない。
ただ普通に、ただ、ただいつまでも変わらない、けれどもいつかは変わっていく並々とした生活を望むのかもしれない。
それが、いつかは終わると知っているから。それは、いつかは二度と手に入らない場所へと言ってしまうのだと言う事を知っているからか。
だから望んでいた。
普通にお話できる人を、普通にお話できたりする時を。
少し違う形で叶えてしまったかもしれないけど、彼女にとってはあんまり関係ないのかもしれない。いや、きっと関係はない。彼女にとっては、普通に近くに居てくれる人が居ると言うだけで嬉しいのだろう。
だから、ホラ、笑ってる。
小さなレッケルの頭をなでながら、お母さんみたいな綺麗な、儚い、でもどこか深い虚を混ぜえた深紅の眼差しの、あの異界的な、人の世にはあってないような、小さな微笑。
ちょっとだけ後悔している。
彼女の為に、魔法使いとして出来る事をしてあげたいと言う私自身の想いに、小さな自責の念をぶつけている。
彼女は今、私と居て喜んでいる。
彼女からしてみればはじめて今まで自分を避けていた筈の他者が始めて深く関してくれたのが、私なんだろう。
でも、私は何時かはここを離れていく。
きっとネギよりは早く、一年も経たないうちに此処から去って、世界を回るマギステルの一員となっている。
そうなれば、もう殆ど自由は無い。
勝手な行動は許されないのがマギステル。常に困難へ、常に混迷へ立ち向かっていくのがマギステル。
比較的平和なこの国にこれるのは、余程の事でもなくっちゃ無理だ。そうなったのなら、もう、彼女に会うこともないと、思う。
深く、関しすぎたのかもしれない。
私はマギステルだから、魔法使いだから、魔法使いとして他者に必要以上に関わっちゃいけない筈だったのに。
でも、ほおってはおけないって言う私情もあった。
周辺の人が、彼女を無視しざるえない理由も判る。その理由を知っていたけれど、それは改善すべき、改善する事は出来ない、生まれながらにおいての最早彼女の存在そのものだ。
だから、それを治す事はなくとも、彼女が多くの人と笑い合えるように。
そんな風に出来たら、それが出来たら彼女から私の記憶は消して、仲の良い友達関係だけを残してあげればいいと、そう考えていたのが本心。
でも消せるのかな。
こんな笑顔を向けられている。きっとご両親以外にこんな笑顔を向けてあげたコトなんていままでなかった筈。
いや、居たとしても、誰も、それは直視できない、耐え難いものであった筈。
私が始めてそれを直視して、こうして再び彼女の前に立った。
二度でなく三度、四度とこうして彼女の前に立ち、彼女の笑顔を見続けてきた。
そんな私が、帰り際に、彼女の記憶を消す事なんて、はたして出来るのか。
しなければならない。出来ないなんて言うことは、認められない。
私は魔法使いで、彼女は普通の人とはちょっと違う程度。
今まで一般社会に生きてきた、けれど少しだけ異なった成り立ちで、異なった事をしてきただけの、私とさほど変わりない。
でも、生きていく場所が大きく違う、この女(ひと)の記憶から、やっぱり、同じようにアーニャ=トランシルヴァニアという人間の存在を、初めてここまで魔法使いであることを曝け出した彼女の裡から、私を消す事なんて、本当に私、できるのかしら。
「さ」
差し伸ばされた、細く白く、綺麗な手。
片手ではレッケルを抱き抱え、もう片方の手で差し伸ばされている、その手。
それを前にして、考えるのを止める事にした。
まったく、とんでもない心境の変化だわね。私はもっと慎重派で、考えは大きく纏まるまでは決して行動には起こしたりしないタイプだって思っていたけど、これが吃驚、以外とそうでもないみたい。
でも、まぁいいかなとも思っていたりもする。笑顔は綺麗だし、月も綺麗だし、星も綺麗だし。
何より、久々に誰かに安心して付き合えた夜だもの。少しぐらいは、何も考えなくたっていいじゃないの。
――――――
夜の学校の中は暗かった。
まぁ、基本として学校って言うのは真昼が主だものね。夜の学校に残っているのって言ったら、宿直の先生か、あとはアレだ、幽霊とか妖精とかの人外魔境が集う夜の集会場。
どうしてそう言う人間外が学校とかに集まりやすいかって言いますと、彼らは基本として人の多い処には寄り付かない。伊達に夜の住人、日陰で生きていく事を選択した命らだもん、そう言う生き方を選んだ以上は日向に出る事は許されない。
それでも、日向への憧れは消せないのか、彼らは日中日向となっており、かつ、日中に蓄えられた多くの人たちの想いの残照に惹かれるように集いだす。
それが、日中人の多く、日没人が極端に少なくなる場所なのよね。つまりは、学校とかって事だ。
でも、実際そう言う考え方をする妖精・幽霊は人間よりの存在だ。自然界よりじゃあない。
物の妖精とかは森の奥深くにのみ姿を潜め、魔法使いであっても滅多には視認する事も出来ない究極の隠者なのだ。
かく言うレッケルの同じ。彼女は私と会うまでは自然界よりの精霊だった。
人の多い処に集うんじゃなくて、自然界の魔力、自然魔力が多く集まるところにだけ姿を現すんだわね。
ま、魔法使いも時折そう言うところに行っては自然魔力から魔力を吸って魔力系の回復とか復調に当てたりもするんだけれど。そのお陰でレッケルとも出会えたわけだし。
と、そう言うことを言っている場合じゃない。
兎も角、今私は魔法少女ルックの嶺峰さんと一緒にある教室の前に立っているんですよ。
夜中だって言うのに煌々と電気のついている一教室。何だか教室の前は臭いし、しかも、生きていくうえではどんな人間も一回はぐらいは嗅ぐ匂い。病院の消毒液の匂いだ。
朝もそうだったけど、夜に来ても相変わらず教室から発せられている。
いや、夜だからこそ一入なのかもしれない。朝以上の拒絶の意志。夜の言う不確定要素の来訪を拒絶するかのような、深夜の獅子が煌々と眼を光らせるかのように、ここの教室もまた、そんな拒絶の光を廊下へ露光させていた。
傍らの嶺峰さんは語らない。見上げてみると、あの優しげな、でも今のこの状況下では恐ろしいほどに不釣合いな笑顔でこっちを見送ってくれる。
どうして何もしないのか。どうして、ここの前に着たのか。その理由は大体判っている。
今朝、でこっ子綾瀬さんが言っていたじゃないの。ここには用事のある人しか来ないって。
ならば、彼女も用事があると言う事。でも、私には用事がない。かと言って彼女が私を此処に置いたままで用事を果たしに行くとは考えられないから、つまりはこう言うことだ。
彼女は、私の意志が固まるまで待っているんだ。
この教室に入る心の準備。
この教室の放つ威圧が指し示す意味を知っているからこそ、彼女は、私の意志が固まるのを黙して待っている。
この教室、生物準備室の向こう側は既に結界、動物が作るのと同じ"縄張り"って言う領域と同じだ。
入ったが最後、どんな眼にあうのかは判らないし、知らない。
まさか八つ裂き、何てことは嶺峰さんが一緒に居てくれるから無いとは思いたいけど、何しろ中から感じる気配が半端じゃなく人間的じゃない。
動物園の檻の一歩手前。足を踏み入れれば、獣性に満ち満ちた獅子や虎が待っていたっておかしくないような気配。
どうして普通の日本の学校にこんな領域結界を張る事が出来る人間がいるのよなんて、考えているような余裕も無い。
もぉ死なばもろともだ。心休まるような事は無いとは思うけど、いつまでもこんな所に居るわけにもいかない。
まったく、こっちに来てから心労がかさばる事ばっかりのような気がしないでもないんだけれど、もぉここまできたら覚悟を決めなさい、アーニャ。自分へファイトよ。
「宜しいでしょうか?キノウエ先生は私に手を貸してくださっている方ですので...いつも此方の教室を貸していただいているのです」
「あ、うん。そなんだ。Ja
ich verstehst.行きましょ」
細めの手が私の手を掴む。
ゆっくりと開かれた扉。開かれると、一気に視界が明るくなると同時に、あのあまり嗅ぎなれていないいやな匂い。病院の消毒液と、加えて全然嗅ぎなれていない多くの薬品の混ざり合った臭いが鼻を突く。
その中を進んでいる。
嶺峰さんにはもう慣れたものなのか、見上げた顔は何時もどおりで、時折こっちを見ては、静かに笑いかけてくれている。
それに目を逸らして周辺を見渡そうとしたんだけど、やめる。だって、見ていいものとかが散らばっている場所じゃないと確信した。
積み上げられているのは書類とありえない色をした薬品液のこびり付いたであろう空瓶の数々。明らかに数年以上は放置されっぱなしの、片付けというものを一切してはいない、荒れ放題の教室であることを理解する。
ソレと同時に、あの病院の消毒液の匂いがこの数多くの薬品の残り香を相克するためにばら撒かれている匂いであると理解する。
ここまで荒れているんだ、いやな臭いが周辺へ漏れ出しても可笑しくないって言うのに、それでも外部へ漏れ出していたのが、それも廊下を限定して匂いが充満していたのは、この匂いを完全に抹消するために噴霧されたであろう、消毒液の匂いの方が強烈だからだ。
でも、思いの外中の方が空気が吸いやすい気もする。いや、見た感じでは鼻で息はしたくない、口で息するにしてもマスクが欲しいと思うような環境なんだけど、鼻で嗅いでも、口で嗅いでも、匂いは僅かな廊下よりも弱い消毒液の香りだけしかしない。
そうして、どれほど歩いたかな。
いや、歩いた距離で換算するのなら恐らくは一分程度も歩いては居ないと思う。生物準備室だもの。幾ら物であふれているとは言っても、その規模は知れている。最奥までたどり着くのにはそう時間はかからない。
いや、時間がかかり過ぎるのも嫌だけどね。案内してくれる場所が在るって言うのなら、早めに着いた方が良いには決まっている。
けど、ここだけは違う。ここではその最奥に控えている存在に会うのだけは勘弁したかった。
もぉ後四、五、六歩前へ踏み出せば、その人の背中だ。
向けられている背中は黒く、生物教室にも似通っているようにも見え、同時に嶺峰さん同様に理解する事が出来ない生き物の雰囲気を醸し出している。
その人の周囲もここまで来るの同様、物で溢れ、一体あの机、と思しき場所で何が出来るのかの判断すら出来ない。
「キノウエ先生」
嶺峰さんの言葉に反応して、その人が首を返す。
その顔を見て、同じものだと直感した。彼は、嶺峰さんと同じなんだと言う事を理解したくも無いのに理解できてしまった。
なんのことはない、今こっちを振り返った、ざんばらに切乱れた黒髪を携えた、細められ鋭いまでの眼光となっている、しかし、人間的な温かみと言うものを一切以って感じさせない、無表情というものを淘汰しての石の様に無機質な顔立ちの、美形と言うものとは180度異なった顔立ちの男の人は、嶺峰さん同様に理解することは一生涯において不可能であろう存在である事を理解したんだ。
顔立ちから年齢が読み取れない。二十代は確実に過ぎてはいるけれど、そこから先が読めない。私的推定年齢は28歳ほど。
あんまりにも顔が蒼白で、ほぼ白んだ石膏のような顔。細められている眼光が鋭いから、睨んでいるかのようにも見えなくは無い。
でも、それにしたって畏怖とかは感じない。あるのは、ただ、余りに無機質だと言う事だけだ。
そう、今目の前に居るこの人は、無感情ではなく、無感情とかそう言うものに該当しない、石の様な不変の感情。
まさに無機質、と言う言葉が一番しっくり来るとしかいえないような、そんな、人間的とはいえない人間だった。
「お着替え、宜しいでしょうか?」
魔法少女姿の嶺峰さんの言葉にも反応は無い。言葉を話す事が出来るのか出来ないのかさえ曖昧。
ただ一度、黒目だけを動かして部屋の端、物が絶妙に積み上げられてあいたスペースの奥に、カーテンで仕切られた場所があった。
今の黒目の動きはそこを指す動きだったのかな。だとしても、口に出せばもっと判りやすいのにどうして。
「では、お着替えさせていただきますね。アーニャ様、暫くこの椅子でお待ちを五分ほどで終えますので」
近場の椅子に座らされる。
正直、立っていたかった。だって、あんまりにも異常な気配だ。直ぐに行動できるように立っていたかったんだけど、嶺峰さんのお勧め上、断るわけにもいかなかった。
そうして、嶺峰さんはそのままデパートメントに設置されているかのような試着室状にカーテンが取り付けられた一角へ消えていき、部屋の中には無機質にまた机へ向かうキノウエなる人物と、私だけが残される。
無機質に時計の針の進む音だけが聞こえている。
机に向かって、丁度、背中を見るような形になっているキノウエなる人物は、相変わらず机の上で何をしているのかも判らず机に向かっている。
正直、私など眼中に無いかのように、正直に、あまりに正直すぎるまでに私という存在そのものを意識に入れてはいない。
身体が煮立つ。
嶺峰さんと出会った時は、その存在感ゆえ、自分が消えていくかのようなそんな不安感を目の当たりにして身体が泡になっていくかのような錯覚を覚えたけれど、この人の前ではまた違った感情を彷彿とさせざる得ない。
即ち、知覚されないが故、自分の存在理由を否定されているかのような不安感。
居ても居なくても、関係ない。どちらにしても、変わりない。
そう言うかのような背中。
元々私は魔法使いで、こっち側にとっては居ても居なくてもいい存在には違いない。
でも、あの人はソレでさえ否定するかのような雰囲気を醸し出している。
即ち、どちらにしても関係ないと言うかのような、全否定。
居る意味じゃなくて、在る意味を無視されるかのような、そんな不安感。
それに堪えられないわけじゃない。
堪えられないわけじゃないけど、あまりしたくは無い事ではあるのだけれど、今、この場に嶺峰さんが居ないと言うのなら、この場で聞いておきたい事は聞いておかなくっちゃいけない。
彼は、あんな格好の嶺峰さんを見ても顔色一つ変えなかった。
ソレは、少なくとも彼は嶺峰さんの事を重々承知の上である、と言う事だと思う。
嶺峰さんも言っていたじゃないの、手を貸しているって。そうれなら、聞きたい事を聞けば、応じてくれなくも無いかもしれない。
ただし、重要なのは第一声だ。
このタイプの人間はまったく理解出来ないと同時に、第一声が重要になる。
今日の昼時、キノウエなる人物はことの要点しか語りたがらないような偏屈な人物だと知っている。
早乙女画伯や、でこっ子がそんなようなことを話していた以上、此処での生活が長い彼女たちの言葉のほうが正しいと思う。
下手な先入観を持つよりは、そう言う先達者の意見を参考にした方が良い結果が得られる、と言う事だ。
何も知らないなら、知っている人の言葉のほうが正しいと言う事。自分の考えを貫くのも悪くは無いけど、それは状況が不確定のときだ、こんな風に特定の状況、特定の固有存在相手にするのなら、もとより知っている人の方の意見の方が重要にもなる。
そう言うわけで、第一声。
目の前の背中の人物が一番興味を引いてくれるような、かつ、嶺峰さんにも関係して、私も魔法少女のような格好であの銀壁のなんたるか相手に何をやっているのかを知れるような質問。
一言で核心を突くというのは中々に難しいかもしれないし、偏屈な人物相手だと言うのであればそれさえ無視されつくされる可能性だって考慮できないわけじゃない。
だけど、だからこそ、そう言うのにはチャレンジする意味があるというものだもの。
「―――あの銀色の変なのって、知ってるんでしょ?何?」
聞くならばコレしかないと思った。無礼な口調かとも思ったけど、まぁ、こんなタイプだもの、気にしないと思ったので無視して口を訊く。
嶺峰さん自身の事は、彼女から聞けばいい。
問題は彼女は彼女がやりあったアレをやり合っているというにも拘らず、知らないと答えたと言うこと。
彼女が何故アレを知らないのかは、知らされていないらという可能性が高い。となれば、知っていない筈が無い。
何故生物準備室に居る人間が彼女に協力しているのか。アレが生物だと言うのなら、生物準備室に篭っている、生物準備室と言う場所を縄張りにしている、この"生き物"が、知らない筈は無い。
「鋼性種」
高くも無く、低くも無い、声でさえも無機質としか言いようの無い。そんな偏屈な声であった事を記憶する。
デジタル信号の様な声にも聞こえたかな。一度テープに録音した声を壊れかけのラジカセで再生したような、そんな声。
こちらに顔さえ向けないのは別にいい。
重要なのは返答したと言う事だ。返答したと言う事は興味を引いたということに他ならない。なら、聞ける事は一気に聞いておくべきだ。
「コウセイシュ?何よソレ。生き物なの?いや、生き物なのは知っているわ。一体どんな生き物なの?
そも、世界中の人たちはアレの存在を知っているの。どうなのよ」
「鋼性種は動物界全門の何れにも該当しない新生物である可能性が高い。よって該当としては何れにも該当しない"第101門"と言う架空の動物界の系統を製図、そこに取り込む事に決定した。
自己見解による正式分類するのであれば鋼性種は『新生類(鋼)・永続類(目)・真命類(類鉄鋼亜門)・鋼性類(最上科)・鋼性種』に分類されると思われる生物の総称とする。
ただし、これは確定ではなく仮定である。発生・生誕起源の一切は不明。恐らく推測ではあるが通常の動物界とは別系統での進化を遂げた、文字通り新生類に分別されると仮定出来る。
時代的な進化は発生当初より行っていないと思われ、その起源は通常の動物界の起源である第1門・原生動物若しくは生命起源において最も有力である生命の起源から推測される炭化水素の窒素得手によるたんぱく質への変質、その後コルセルベートになり始原動物へと生物化したとの説と同期に発生した永続的な存在を可能とした一種の初期進化完了種の一種であるとの仮説が立てられる。
この生命体、以下は鋼性種として呼称する生命体は非常に特殊な生態を保持しており、かつ現行人類の科学力ならびに全記録を酷使したとしても解読できるものではないとされ、依って暫定的ではあるが自身の見解によって解説を行う。
この鋼性種なる生命体は知覚能力が愚鈍であり、然しながら知覚しない存在に関しての干渉能力が極めて微弱である事が、これまでの遭遇で確認されている。
これは初期進化完了種の特徴的な保持生体機能の一種であると思われ、自己防衛本能の一科が特化したものであると考えられる。
なお、この見解は現在までに確認された全鋼性種全てに見られた特徴からの推測であり、解剖、ならびに分解による生物実験による確証ではない。
然しながら確定の可能性は上の上。究めて有力であると判断は可能。
なお蛇足だが、現在までにおいて鋼性種の死亡等は確認されず。特化した生存能力により、最も生き残る事に特化している事が確認されているのでこの情報の信憑性は高いと判断される。
鋼性種は生命体としては節足動物(門)・昆虫類に似通った外見的特長を保持している。
これは鋼性種が身を包む外骨格が昆虫類の外骨格と同意義である可能性が高いためである。
ただし、昆虫類の外骨格が硬質化たんぱく質であるキチン質で覆われているのに対し、鋼性種の外骨格は現行地球上最硬度である金剛石より上位に属するであろう構成成分で形成されている事が明らかとなっている。
なお、この外骨格の構築物質は単一分子である可能性が高い。即ち、単一性元素肥大式である。
追伸として語っておくが、これは仮定要素であり確定要素ではない、よってこの件についても不明と言う形を当てはめざる得ない。
現行において鋼性種と言われる新生命体、正確には古生命体に該当するこの生物に関する情報は限りなく少なく、生態サンプルの搾取がなければ詳しい確信、確定を得ることは不可能と考えている。
因みに、この事は未だ全世界に対しての公表は行われていない。大きな理由を挙げる事はいくつかは可能ではあるが、最も単純な理由としては"不確定"である為である。
この鋼性種は世界中で確認された最大個体数を挙げたとしてもその数実に三十七体。個体数としては余りに少ない。また、この内の数体は重複の可能性も考慮出来る。
よって、全世界に確定として発表するにはあまりに情報不足である。よって公表は向こう十数年は行わない事としている。以上」
......怪訝な顔をしていると、自覚する。
あんまりだった。あんまりにも与えられた情報が多すぎる。
無口なくせに、こう言う得意分野というか、興味を持った事には一気に答えるって言うやつはあんまり好きにはなれない。好きにはなれないんだけど、でも得られた情報は多く、同時に余りにも少なかった。
要は、何もわかっていないも同じって事。キノウエって人は、そういっていたも同じ事だった。
どれもこれも、最後につけられるのは"仮定"。"そうではないか""そうなるのではないのか"と言う、とんでもなく曖昧で、確信というものがまるで無いようなものだった。
でも、ほんの少し解る気もする。違う、ちゃんと解っている。
あんなものをどうにか確定できるなんて、出来る方がおかしい。
アレは理解する事が出来ないもの。理解するに至れないもの。
今の言葉の中にも、節々にそう言う感じが伝わってきた。
理解できないものに当て嵌められる理解できる言葉の羅列。それにどれだけの意味があるのかは解らないけれど、それも、この人もきっと、必死なんだと思う。
必死だったからこそ、ここまで仮定をつける事が出来たんだ。私は、そう思いたい。
「それ、嶺峰さんは知っているの?」
「教えていない。教える必要は無い。不確定な情報を与えて先入観を持たせるよりは何も知らずにやれる事をやらせておいた方が良いと判断する。よって嶺峰湖華に対し、この情報の一切は明かしていない。
唯一固有名詞である"鋼性種(暫定)"のみを嶺峰湖華に対し提供している。
なお、嶺峰湖華が持つ突貫楯ホライゾンを構成している八角部は鋼性種同様単一性元素肥大式を用いたものとなっている。
彼女が鋼性種を相手にしている理由もソレが関係している可能性が考慮可能。なお製作時期は不明。詳しい事は彼女から聞け。アレに関しては彼女の家系の方が熟知している。己は知らん。以上」
それで話は尽きたのか、此方を一度たりとも向かずに、キノウエと言う人物は話を切った。
きっと、もう何をしたって、多分真後ろで炎を立ち上らせてもこっちを振り向く事は無いと思う。今の口調、話し方からそう判断できる。
伊達に心理分析とか師の元で学んでいたわけじゃないけど、こう言うときには無駄な労力を割かなくて済むのは正直ありがたい。
目の前に居座っている男性がどんな人物なのか、七割五分程度は判断できた。もう、私が何をしようが、彼の知覚範囲内には私は居ないし、そも話し終えた時点で私は彼の思考からはずされている。
いや、外されていると言うのなら初めから外されていたでしょうね。つまりは、アレだ。
彼は、私の質問に対して返答しただけで、別段、私に対して質問の答えを告げたに過ぎないって事だ。
柱時計の音かな。何処にあるかは判断できないんだけど、何処からかコチコチと言う独特の音だけが響いている。
それが妙に心境を和ませてくれて、もう、ここに居ても特に何も感じる事はなくなっていた。
入って、一人にされたときはどうしたもんだかとも思ったんだけど、こうしていると、不思議と大した事は無い。
要するに、アレだわね。私の知覚しなければいいだけの話だ。居ても居ないものとして扱えば良し。
良しには良しなんだけど、完全にはやっぱり無理みたい。だって、この存在感は消しようが無い。この領域に居る以上、私は網にかかった魚も同じ。感覚には、この圧倒的なまでに異質的な存在感を味わい続けてなくっちゃいけない。
あ、ちなみにレッケルはもぉ私の胸元でおねむだ。
やっぱり色々あったからなんでしょうね。私だって結構眠たい、と言うかこの時間帯はロンドンやウェールズではとっくのとっとに眠りこけている時間帯だわよ。そりゃあ眠くもなるってものよね。
あ、こうやって違う事考えているとキノウエって人の存在感はちっとは薄れるかも。今度からこうしよ。
「お待たせいたしました」
と、ここでお待ちかねの人の登場。はっきり言って、今日ほど誰かの帰還を待ちわびた日は暫くは無かったかもしれないって思うわね。いや、人恋しくなっているとか、そういうのじょないけどね。
で、振り返って、ちょっと唖然としているんですよ、私。
服装が朝見た制服姿でもなければ、さっきまでの魔法少女ルックでもない。
いやいや、着替えに行ったから魔法少女ルックであるのは当たり前なんだけれどね。
でも、着替えてきた格好が、これまた良く似合っているって言うか、なんって言うのかな。すんごく綺麗。
一言で言うのなら、ロングスカートのワンピース。それも、真っ白い、月の光の下に出たならそのまま光を反射して淡く発光するんじゃないかなって程に真っ白い、淀み一つ無いワンピースに身を包んでいる。
特徴的なのは、そうかな、肩が出ているってところ、つまりはノースリーブってとこなんだけど、姫袖になっているところかな。
脇の辺りから姫袖に当たる部分が縫い上げられていて、腕を通すってタイプ。肩、脇は見えるけど、二の腕は袖に隠れる変な服。
相変わらずの着こなしで、私だって恥ずかしいんだけど、ほっぺたが赤くなっているのを自覚できるぐらい顔が赤い。まず、ホントに惚れちゃうかも。
尤も、それはあの笑顔で笑いかけられているからって事であって欲しいって思っているわよ。
何時もどおりのあの笑顔。一番苦手で、一番不安になって、一番綺麗で、一番、好きなあの笑顔。
そうよね、こんな笑顔でこの格好なら、笑いかけれたら誰だって顔が赤くなったってしょうがないわよね。
兎にも角にも、これで漸く此処から脱出出来るってものだ。
正直な意見、彼女のこの格好はここの場所には似合わない。
こう言う格好は、夜の月の下とかで見てこそ栄えるってものなのよね。こういった、物で溢れて、消毒液の匂いがするような場所には似通っちゃいけない格好よ。
「うん、お帰りなさい」
「はい。唯今帰りましたわ。それでは、キノウエ先生、私たちはこれで」
物言わぬ背中に礼儀正しくお辞儀をする嶺峰さんさえ無視するように、キノウエなる人は相変わらず机に向かったままで動かない。
声も無ければ、帰りの労い、帰宅の挨拶もありゃしない無愛想と言うか、無機質な態度のまま変わらず、嶺峰さんの言葉を聞き届けている。
「参りましょう。アーニャ様」
私の手が引かれる。そんな、無機質の態度にも何ら体裁を崩す事も無く、嶺峰さんは何時もの通りに、私が知りうる何時も通りの、あの笑顔で私の手を引いていく。
それを受けて歩いていくんだけど、やっぱり、ちょっと反感がある。
嶺峰さんはあの、キノウエって人が協力してくれているって言っているけど、私から見たらとてもそうは見えない。
なんだか、一方的過ぎる気がするのだ。
嶺峰さんは頑張っているのに、協力していると言われているあの人には、そう言う節がまるで見えない。
いや、そういった節を感じさせない性質なのかもしれないんだけど、それでもやっぱり、無責任と言うか、無骨すぎる気がしてならないのよね。
幾つもの積み上げられた物の山を潜り抜けるようにして、外を目指す。
ほんの僅かな反感と、変わらない手のぬくもりから伝わってくる優しげな雰囲気を胸に。
その教室を出るまでの間、私は笑顔の女(ひと)と、背中の男(ひと)を見比べ続けていた。