ネギ補佐生徒 第1話




「ネギ先生、今日は身体測定ですよ」

 眼鏡をかけた美人の教師の言葉が、澤村の頭に響いた。ちなみに眼鏡をかけた美人、とは澤村の見解である。

「3−Aの皆もすぐに準備してくださいね」

 準備、という言葉に澤村は、首を傾げた。自分の身体測定はどうなるのだろうか。隣の席の女子に聞こうかと、右を向いた刹那、

 ―――――冷水を浴びたかのように身体が冷めきった。

 金髪の幼女と言っても違和感のない女子は、なんだかイヤなオーラが漂っていた。冷たい雰囲気。ずっと見ているのが不快に感じてしまうようないやな空気が澤村の身体を包み込んだ。
 この子に関わってはいけない、と本能が言っている。
 今だに冷えていく身体と比例して、額に汗が流れ出した澤村の顔をちらりと自分と同じ青い瞳が見た。瞬間、音が立つほどの勢いで澤村は正面を向いた。
 身体が小刻みに震えている。 
 その体のまま、なんとかこの雰囲気から逃れようと澤村は目の前の女子生徒の背中をつついた。

「どーかした?」

 澤村は目の前の女子が振りかえった反応を見て、ほっとした。隣にいるような女子ばかりだったら、きっとすぐにでもネギの補佐生徒をやめていただろう。
 黒い髪が肩まであり、片方だけ軽く縛っている。明るく元気なイメージを澤村は頭に植え付けた。
 ちなみに彼女の横にいるロボには話しかけなかった。そういう服や趣味を持っている人かもしれないが、もし話しかけてまったくのロボだったらやっていく自信がなくなりそうだったからだ。

「身体測定って教室でやるの? 俺、どうすればいいのかと思ってさ」

 澤村がそう言うと、困った表情を女子は浮かべた。

「身体測定は教室でやるけど……澤村君の身体測定のことは知らないなぁ」

 生徒が澤村の身体測定のことなど知るよしもない。澤村は、ネギに聞くしかないと諦めた。

「そっか。ありがとう」

 いえいえ、と明るい笑顔を澤村に向けた。少しは自分を受け入れてくれる女子もいることを実感した澤村は、なんとかやっていけると思った。

 「あ、私、明石裕奈。澤村君のことは、亜子から聞いてるよ」
 「え、和泉から?」

 澤村にとってそれはかなり意外だった。
 亜子は今年卒業した先輩のことが好きだったはず。告白したが、その想いは叶わなかったというのは、澤村も知っていた。あれからまだ1ヶ月ほどしかたっていない。それなのに他の男の話をするなんてことがあるのだろうか?
 第一、部活で接することはあるが、それ意外で亜子と会話したことなど澤村にはなかった。
 いったい自分のことをなんて話していたのだろうか。澤村は詳しく聞こうと口を開いたが、

「ネギ先生のエッチ〜!」

 なんていう楽しそうな女子の声で遮られてしまった。澤村が目を向ければ、半泣きで教室から出て行くネギの姿。
 それを見て、自分もそろそろ出て行かなければいけないと知る。
 ネギならあの程度で済むが澤村相手にそんな軽いノリの対応などするわけがない。

「俺も教室からでるよ」

 と澤村は苦笑して裕奈に言い、後ろの扉から教室を出る。裕奈は、じゃーねーと笑顔で手をひらひらとさせていた。
 澤村は、ネギが前の扉の前にいたので歩み寄り、自分の身体測定がどうなるのか聞こうとしたが、

「先生ーーっ! 大変やーーーっ!」

 2度目の妨害を受けた。それも聞き慣れた声に。

「まき絵が……まき絵がーーっ!!」

 体操服姿の亜子の言葉に、豪快な音をたててネギと澤村背にあった扉が開いた。
 当然、ネギと澤村は、驚いて後ろを向く。

「何!? まき絵がどーしたの!?」

 ――――――そこには、ネギと澤村を叫ばせるのに十分な光景があった。

「わぁーーーーーっ!!」

 下着姿の女子達を目の前にして、ネギと澤村の叫び声が廊下に轟いた。





  ネギ補佐生徒 第一話 いざ、女子寮へ





 隣の幼女――――エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルは、澤村を思いだし鼻で笑った。
 自分を見ただけで冷や汗を流し、目が合えばものすごい反射神経を発揮して顔を逸らすのだ。ただの臆病者である。
 そんな男がしばらくとはいえ、自分の隣の席に座っていることに、苛立ちを感じた。
 エヴァンジェリンは不機嫌そうに溜息をついた。
 きっとこの男から感じた魔力のようなものは、勘違いだろう、と。
 そんなものを感じたのは、本当に一瞬だったから。





「それで、佐々木さん……だっけ。その子は大丈夫だったのか?」

 身長を計る台に足を乗せながら澤村は亜子に聞いた。彼女は、保健委員なので澤村の身体測定をやっているのだ。亜子の身体測定は出席番号が早いので既に終わっている。

「うん。ただの貧血やて」

 トンと澤村の頭に測定するための板が落ちた。澤村は同じ学年のサッカー部の中では、背が一番低い。彼の密かなコンプレックスだ。
 下着姿の中には、自分の身長を超すような女子がいた気がして、そのコンプレックスは更に強まりつつある。
 ちょっとだけでも背を高くみせたいが故に、澤村はかかとをあげるが、亜子に睨まれてあえなく断念した。

「背伸びしなくても伸びてるで」

 苦笑して言う亜子に澤村は目を輝かせ、叫ぶ様に問う。

「何cm!?」
「165.8cm」

 澤村は、がっくりと肩と頭を落とす。1cmしか伸びていなかったからだ。まだ中3だから見込みがあるかもしれないが澤村としては、せめて170は今の時点で欲しいところ。
 しかしその夢の170にはまだ4.2cmもの壁が聳え立っている。

「そんな伸びてないじゃないか……期待させないでくれよ」

 急に重くなってしまった足を台から下ろして視線を上げると、澤村の言葉に亜子は首を傾げていた。なぜ、そんなに身長のことを気にしているのだろうか、といったところだろう。

「そんな気にする必要ないと思うんやけど」
「男は気にするもんなんだ」

 ムキになっている澤村の姿がなんだかおかしくて亜子はくすくすと笑っている。澤村は気恥ずかしくなり、目と話題を逸らした。

「そ、それより、明石さんに俺のことなんていったんだ? 俺のこと、和泉から聞いてるって言ってたんだけど」

 変なことじゃないだろうな、とジト目で澤村は亜子を見た。が、亜子はにっこりと笑って言う。

「フォワードで先輩が抜けた分、頑張てるて話しただけ」

 関西弁特有のイントネーションと言葉遣い。そんな亜子特有の言葉に澤村は納得した。
フォワードだった先輩は亜子の好きだった人だから、きっとそれ関連で自分の名前が出たのだろう、と。

「ったく、びびったじゃないか。俺、目つきが鋭いから、何か悪い話でもされてるのかと思った」

 そんな事を言いながらも、澤村はこうやって亜子とまともに会話をしたのは初めてだということに気がつく。怖がられているのかと思っていたのだが、そうでもないようだ。
 以前、先輩に振られて凹んでいる亜子の姿を見たとき、澤村は自分なりに彼女を気遣ったのだが、それはどうも失敗に終わってしまったらしく、彼女はなんだか自分を避けている気がしたのだ。自分の勘違いだったということに安堵しながらも澤村は、体重計に乗る。
 針が音を立てて回り始めたが、それはすぐに止まった。

「もー、ウチをなんやと思ってるん? ……よし、終わったよー」

 亜子の言葉を適当に流しながらも澤村は、体重計を降りる。澤村の身体測定もこれで全て終了だ。

「そういや澤村君、ネギ君の補佐するんやろ? 具体的には何するの?」

 二人で保健室から出て言った亜子の言葉に、澤村は頭をかいた。

「んー、簡単に言うとネギ先生の相談役って感じかな。あとは、ネギ先生の体格とかで学園内で困ることがないかとか、そんな感じだな」

 それは曖昧な内容だった。確かに教師になったばかりなのだからいろいろ不便なこともあるはずだ。それはわかるなのになぜ、高畑とかではなく自分を選んだろうのか、と澤村は疑念を抱いている。
 現実離れした無理矢理な展開。何かとてつもないイヤな予感。実際に今でもこの置かれた状況に澤村はいまいちついて行けていない。

「澤村君?」

 亜子の問いかけに、澤村は我に返る。亜子は心配そうに澤村を見ていた。

「あ、ああ……悪い。ちょっと考え事してた」

 笑って誤魔化す澤村に少し気になりつつも亜子は、そか、と返した。





 男子寮に帰ってきたとき、男子から反感を買っていたことに気付く。それも当たり前だ。男子が女子と一緒に学校生活を送れるのだから。それに加えて、

「お前、女子寮にしばらく住むんだろ?」

 恨めしそうなルームメイトの言葉。
 澤村は口をぽかんとあけて、

「はぁあ?」

 素っ頓狂な声を上げた。そんなこと聞いていない。
 ルームメイトはそんな澤村を怪しげに見つめている。

「え、ちょっと待てよ。俺、確かに女子校にしばらく通わさせられるけど、女子寮に住むなんて一度も聞いてないぞ!!」

 その様子に慌てて両手を広げて言う澤村に、ルームメイトはしらばくれやがって、と悪態をついた。
 中等部に入ってからの2年間付き合いの有るルームメイトの態度に、澤村は少しだけ怒気をこめて言う。

「俺だって好きで行くわけじゃない」

  それは澤村の本心だった。女性に興味がないと言えば嘘だが、女子寮に行きたいほどでもないし、それ以前にこの学園にいる自体正直いやだと思っている。中等 部を出たら、とにかく職についてこの学園都市から去り、学園長にそれまでの費用を返そうとこの学園に入学してから決めていた。今やっているサッカー部も、 今のうちにやりたいことはやって、中等部をでたら働き倒すという考えがあるからだ。
 特に、イヤな予感の発信源に近いあの女子中等部3−Aに放り込まれたことに関して澤村としては、不幸だと思っている。
 鋭い目をさらに鋭くさせて言ってくる澤村にルームメイトは、ニッと笑った。その顔に毒気を抜かれた澤村は、ポカンと口をあける。

「わかってるって、皆お前のことは。ただ、ちょっと羨ましかっただけだ。まぁ、本当に妬んでいる奴もいるかもしれないけど、気にすんな」

 さっきの態度とまったく正反対の態度に澤村はまだついていけない。
 いつだってこの男は、自分を驚かす。

「荷物はさっき学園長に頼まれて俺ら男子中等部3−Aが運んでおいた。女子寮にも行けたし、お前に感謝している奴もいるぜ?」

 はぁ、と澤村は気の抜けた返事をする。いまいち状況がわかっていないといったところだ。そんな澤村の両肩を掴んでぐるりと彼の身体を回した。

「しばらくとはいえ、ルームメイトがいなくなるのは寂しいが……女子寮の方で問題を起こさないで帰ってくることを祈ってるぞ」

 ルームメイトの冗談混じりの言葉を背中に感じながらも澤村は、振り返り短く答えた。

「おう」




 
 夕焼けで赤く染まった桜通りを歩きながら澤村は、なぜ女子寮に行くことになったのか考えた。
 女子中等部になんて男子寮からでもいけるし、女子寮にいっても無駄に問題が増えるだけではないのだろうか。
 そもそも、女子寮と男子寮の距離なんて差ほどない。
 面倒なことになった、と澤村は痒くもない頭をがしがしとかいた。
 女子校に通うことになってから、澤村は“何か”に近づいているような気がしてならなかった。女子寮に寝泊りすることになって、“何か”への距離はいっそう縮まってしまった気がする。
 そんなもやもやを振り払うかのように、澤村は空を見上げた。空が燃えあがっているかと思わせるほどの赤さだった。
 進めていた足が無意識に止まった。
 何か、違和感を感じる。澤村は、時を忘れて夕焼け空を見つめ続けた。
 こんな、燃えあがるような赤を見た覚えがあった。

 ――――――何時、何処で?

 わからない。ただ、これを見ていると言い知れぬ恐怖が蘇るようだった。手足が震える。心臓が暴れる。思考と視界が赤く染まる。
 澤村は、このまま自分は壊れた人形のように崩れてしまうのではないのだろうかと思った。
 でもその変わりに、何かがわかるはず。
 それでも澤村はこの夕焼けから目を逸らしたかった。きっと何かわかったら、今の生活には戻れないという漠然とした予感があったからだ。何かがフラッシュバックかのように現れようとした――――その瞬間、どさりという音が耳に届く。
 びくりと澤村の身体が跳ねた。ゆっくりと視線を落とすと、そこには澤村が持っていたはずのスクールバッグ。
 澤村は、大きく息を吐いてそれに手を伸ばす。震えは既に収まっていたので、難なく拾うことが出来た。
 今まで、夕焼けを見てさっきのようなことは起こらなかった。なのに、今になってなぜだと澤村は疑念を抱く。
 そしてあの違和感。何か頭に引っかかる。いや、何か思い出せそうだった。
 ザァっと風が吹いて、桜の花びらが舞う。桜の木が並ぶ道の奥には、女子寮が見えた。
 もう一度夕焼けを見ることしようともせず、澤村は女子寮に再び足を進めた。





「澤村君、女子寮に住んじゃうんだー」

 大事をとって学校を早退して来たまき絵と、

「うん。さっきも男子が空き部屋に荷物運んどったから、嘘やないと思う」

 たまたま部活が休みで早く帰宅し、制服から私服へと着替えている亜子が、自分たちの部屋で澤村について話していた。
 まき絵は、満面の笑みで言った。

「ネギ君以外の男の子で、亜子の知り合いかぁ……。楽しみだよ! 早く会いたいなぁ」

 そんなまき絵をよそに、私服へと着替え終わった亜子は、キッチンへと行く。
 夕飯の準備をしようと思ったのだ。

「どうせすぐに会えるて。きっと挨拶にくる思うよ」

 変なとこ生真面目だから、と亜子は冷蔵庫を開ける。

「お、亜子詳しいんだね」

 着替え終わり、意味ありげな笑みを浮かべてカウンターに肘をつくと、まき絵はそういった。亜子がそのまま冷蔵庫の中をあさりながらも平然と答える。

「ウチ、サッカー部のマネージャーやで。詳しくて当たり前」

 本当のことだった。他の部員と比べると、さほど交流はないかもしれないが、少なくともまき絵達よりかは、接している。

「ふーん」

 亜子の反応が期待していた物と違っていたので、まき絵はつまらなそうに口を尖らせた。あった、と声を上げて何かを取ろうとしている亜子に、まき絵は何をつくるのか聞く。すると亜子は、

「肉じゃが」

 と短く答えた。手には、パックに入っている肉がある。パタンと冷蔵庫をしめると他の材料を出し始める。
 手際良く料理をはじめた亜子の姿を、まき絵はにこにこしながら見ていた。
 その時、

  ピンピンピンピンピンポーン

 連打されるインターホン。
 亜子とまき絵は首を傾げてお互いの顔を見る。いったい誰だろう。
 亜子は料理を作っているからと、まき絵は玄関へと足を進めた。はーいとまた鳴り始めたインターホンに答えながらも扉をあける。
 そこには――――

「え?」

 見知らぬ男子が息と髪を乱して鋭い目をまき絵に向けていた。





 恩人である学園長を頼みを受け入れたことを心の底から澤村は後悔していた。今、女子寮内を走り回る彼は、ネギの補佐生徒でもなければサッカー部部員でもく男子中等部の学生でもなかった。
 ただの変質者。だから彼は追いかけられている。
 女子寮に住む、女子に。
 不幸の始まりは、あの双子の小悪魔と出会ったことからだ。
  ・
  ・
  ・
「あ、澤村君だー」

 聞きなれない声に名を呼ばれて澤村は振り返った。だが、姿が見えない。

「下です、下」

 少しだけ視線を下へずらすと、同じ顔が二つ並んでいた。
 首を傾げる澤村。皆に自己紹介をしてもらったのだが名前を全員きちんと覚えていないのだ。しかも名前を覚えていても、顔と名前が一致しないという始末。それを察した双子が、

「ボク、鳴滝 風香」
「鳴滝 史伽です」

 と、二人仲良く頭を下げてくる。
 双子だから印象には残っていたが、それだけしか頭になかった。澤村は、今度は忘れない様にしようと名前を頭に叩き込んで、こんにちは、とどこか戸惑い気味に双子に言った。
 なぜだろう、この双子からイヤな感じがしてならない。それは、女子中等部に行くよう、学園長に頼まれたときなどのイヤな予感とはまったく別だった。ただ、よくないことが起こるんだろう程度の予感。
 だから早くこの場から去ってしまおうと思った。

「はい! 澤村君、これボクたちからのプレゼント!」

 しかしそれは叶わず、立ち去る前に唐突に何かを手渡された。有無を言わさず澤村は双子の釣り目の方から物を掴まされる。
 鳴滝姉妹から渡された物を見て、澤村は思考が停止させられた。そりゃそうだ、いきなり女子からブラを渡されたら余程の変質者か冷静な人間でなければ対処できないだろう。

「―――――――――」

 澤村の全てが真っ白に染まっていく。
 風香が笑いながらもやはりこのいたずらに踏ん切りのつかない史伽をひっぱって、颯爽に走り去っていた。
 今だに思考が止まっている澤村。ブラを持って見つめている男なんて、変質者でしかない。
 早くそのブラを手放すかすればよかったのだが、その前にとある人物に見つかってしまった。

「あなたっ……! 何をやってるんですの!?」

 ばっとブラから視線をはずして前を見ると、前列の席にいたストレートで金髪の女子が、顔を真っ赤にして澤村を見ていた。
 この女子の名だけは、ネギに事前に聞いたこともあり、澤村はしっかりと覚えていた。
 雪広 あやか。3−Aの委員長。今日1日彼女の行動をみて、澤村はショタコンなのだろうかと疑った人物でもあった。

「いや、その……」

 なんて言えばいいのだ。目の前にいる女子は、双子から渡されたと素直に言っても信じてくれそうにもない。
 澤村は、ブラを持った手と空いている手を顔の前でぶんぶん振ってみせる。

「あなた……ネギ先生の補佐するというのを利用して、そんな下心を……っ。ネギ先生の純粋な心を騙しましたのね!」

 なぜ下着をもっていることでネギの純粋な心を騙したまで事が発展するか、澤村にはさっぱりだった。さすが3−Aのトップ。成績優秀でも、どこかずれている。
 しかし、ネギの純粋な心なんたらは抜きにしても澤村が変質者に見えるのに変わりはない。

「待ちなさい!」

 気がつけば、身体が動いていた。
 走り出す澤村をあやかは追いかける。いくらあやかの運動神経がいいとはいえ、澤村は男で現役の運動部。追いつくことはないのだが、澤村についていくだけの速さはあった。
  ・
  ・
  ・
 現在までに至る経緯はこうである。
  二人とも一定の距離を保ったまま、走る。さすがの澤村の体力の限界が近づいていた。それはあやかも同じで、息をぜぇぜぇいわしている。二人が走っている場 所は5階で、出会った場所は6階である。この事からわかるように、彼らは、5階と6階を数回にわたり行き来しているのだ。
 澤村は、足をうまく使って90度に曲がり、階段を上った。あやかもそれに続く。
  いい加減、逃げ道を見つけなければ捕まってしまう。それだけは願い下げだった。きっとあの委員長は、自分の話など聞いてはくれないだろう。事情を説明すれ ばなんとかなりそうだが、あの双子が自分のことを嫌っていたら、しらばっくれるに違いない。そしたら自分の人生は終わったも同然だ。とにかく今は逃げ切る しかない。逃げ切ってから後のことを考えよう。そう思い、澤村はちらりと後ろをみると、あやかとの距離が随分と離れているのに気がついた。
 ただ、彼女はまだ諦めていないらしく、何か言いながら走っている。
 澤村は廊下の角を曲がると見なれた名前を見つけた。
 和泉亜子、佐々木まき絵という表札がある。

 ――――和泉!

 澤村は、衝動にまかせてインターホンを連打した。ピンピンピンピンピンポーンという澤村と同じように切羽つまった音が奥で扉の向こうで鳴っている。
 すぐには扉は開かなかった。あやかの声が近づいてきている。澤村はもう一度今度は祈りを込めて連打した。
 すると、はーいという声が聞こえてきた。亜子ではない。
 音をたてて扉が開く。

「え?」

 軽く二つに結っている女の子が目を瞬かせた。澤村も教室ではみていない顔で目を思わず細めてしまう。
 あやかの声が更に近づく。澤村は声のする方を一度だけ見て、

「ごめん!」

 無理矢理部屋に押し入った。
 扉を閉める。しばらくして、どこにいきましたの、と言うヒステリックなあやかの声と足音が過ぎ去って行った。
 澤村はその場にへたり込む。

「き、君……だ、誰?」

 すっかり怯えきってしまっている佐々木 まき絵が、澤村を問う。

「あ、えと……」

 息絶え絶えのまま、慌てて説明しようとした澤村に、

「まき絵、どないしたん?」

 救世主が現れた。エプロン姿の亜子がひょいと顔を除かせていた。
 澤村は、走りすぎてがくがくしている足で立ちあがり、靴をぬいで亜子に歩み寄った。

「澤村君っ、汗びっしょりやで」
「え? あ……」

 そう亜子に言われて、初めて自分が汗を滝の様にかいていることに気付く。制服で汗を拭うが、目に入ってしまう。

「待ってて、今タオル持ってくる」

 ぱたぱたと部屋の奥へと入っていく亜子を見た後、もう一度澤村はまき絵を見た。
 澤村と目が合うと、まき絵はびくりと身体を震わした。一番初めに見た、澤村の形相がとても怖かったのだ。
 亜子からまき絵と呼ばれたところから澤村は、彼女が佐々木 まき絵だと理解した。なんだか第一印象をとても悪くしてしまったかもしれない、と澤村は頭をかいた。
 しかしこのまま黙っていてもそれは変わらないので、気まずいのを我慢して澤村は口を開く。

「は、はじめまして……。ネギ先生の補佐として女子中等部3−Aに入ることになった、澤村 翔騎です」

はは、と乾いた笑いを浮かべる澤村を見て、まき絵は少しだけ肩の力を抜いた。だがまだ話せる余裕はない。
すると澤村は、あ、と声を上げて言う。

「佐々木さんだよね? 貧血で倒れたって聞いたけど、もう大丈夫?」

 まき絵を見るのは今がはじめて。まき絵は早退してしまっていたので、澤村はまき絵とは会っていない。まき絵は、澤村をじぃっと見つめた。
  確かに目は鋭くぱっと見怖いが、今の彼は小首を傾げて自分をまき絵を苦笑して見ている。彫りの深い顔立ちと初め見た強張った表情を見てしまって気付かな かったが、亜子と接しているときは、表情に柔らかさがあった。現に今まき絵に話しかけている彼は、歳相応と言った感じだ。

「う、うん。大丈夫、だよ」

 戸惑いは隠しきれていないが、そう答えたまき絵に澤村は、よかったねという。
 行った時と同じようにぱたぱたと音をたてて亜子が戻ってきた。慣れた手つきで澤村にタオルを渡す。
 澤村はありがとうとそれを受け取り、汗を拭く。その一連の行動をまき絵はぽかんと見つめていた。

「って、澤村君、何持ってるん!?」

 びしっと指差す亜子の指先にはブラ。澤村もそれに気付き、うわっと声をあげてそれを手放した。
 まき絵も今まできづかなかったが、確かにそれはブラだった。
 しかも……

「それ、私のブラーーー!!??」
「えーー!?」

 まき絵の半泣きでの叫びに、澤村は飛び退いた。そして直ぐに両手を顔の前でぶんぶんふって早口で捲くし立てた。

「誤解だ!! ちっちゃい双子の二人に渡されて、それでその、びっくりしてたら、雪広さんに勘違いされて、ここまで来たわけで……俺は、無実だ!! っていうか被害者だ!」

 知り合いの亜子がいるおかげか、ブラの持ち主が前にいるおかげかはさて置き、澤村はあやかの時とは違って、事実を伝えられた。
 説明してみて、という亜子の言葉に澤村はほっとした顔をして事の経緯をきちんと話す。
 その話に亜子も初めは驚いていたが、双子の話入った時には苦笑いを浮かべていた。帰る途中、妙ににやにやしている双子と擦れ違ったからだ。まき絵のブラをどう入手したかわからないが、この手のイタズラは彼女たちぐらいしかしない。

「災難やったね。いいんちょからは、ウチが説明しとくわ」

 まき絵のブラを拾いながら言う亜子の言葉に、助かる、と澤村はほっとしたように言った。
 とりあえず、入寮して直後に退寮ということにはならなそうだ。

「ねぇねぇ、澤村君。何号室に住むの?」

 自分のブラの事はもういいのか、まき絵は澤村にぐいっと顔を近づけて聞いてくる。彼女としては、同い年の男子に興味があるが故の行動だったのだが、澤村としては対応に困るわけで。
 少しだけ体を逸らしながらも澤村は部屋の番号を言った。するとまき絵は、目を輝かせて言う。

「ネギ君たちとお隣さんだ!」

 いいなぁと言いながら澤村を見るまき絵に亜子は苦笑した。そんな亜子の耳に部屋の置くからコトコトという音が入ってきた。

「あかん、鍋に火かけたままやった!」

 きょとりとした顔の澤村とまき絵を背に亜子は鍋の火を止めに行く。すぐに気がついたおかげか、大惨事は免れた様だ。そのまますぐに戻ろうとしたが、亜子はちょっとした考えが浮かんだ。すぐに棚の皿に手を伸ばす。
 ちょっとした用事を終えた亜子が戻ると澤村は、いい加減部屋に戻ろうと靴をはき始めていた。

「亜子?」

 まき絵の視線は、亜子が持っている皿に注がれる。ちょっとねと答えて、靴をはきおえ振りかえった澤村に声を掛ける。

「澤村君、これ肉じゃが」

 差し出された肉じゃがの入った皿に澤村は目を瞬かせた。が、それも一瞬のことで、

「さんきゅ」

 ニカリと笑ってそれを受け取った。その様子にまき絵は意味ありげな視線を亜子に向けている。そんなまき絵に気付かぬまま、亜子は澤村に笑顔を向けている。まき絵が思うような感情を亜子は抱いていないのだが、端から見たらそうみえるのだろう。
 きわめつけに、

「3−Aの皆に挨拶に行こうかと思ってたんだけど……今日はいかないほうがいいよな」

 苦笑して言う澤村にまき絵は、亜子の言った通りだと亜子を見た。まき絵と目があった亜子は、言った通りでしょとまき絵に微笑みかけていた。
 澤村はそんな二人の様子に首を傾げている。亜子は気にしないでと澤村に前置きしてから言う。

「今日はやめといた方がええね。いいんちょに広められていたら大変やし。ウチが今日説明して回っとくわ」
「このかりは、いつか返します」

 冗談まじりだが苦笑して言う澤村に亜子は笑った。澤村は、亜子との会話に一段落つくと、今度はまき絵の方を向き、

「佐々木さんも突然を押しかけてごめんな」

 と言った。

「ううん、全然!」

 それじゃ、学校でという言葉を最後に、玄関の扉が澤村によって閉められた。
 この後、亜子がまき絵からどういうめにあったのか言うまでもないだろう。





 ようやく自分の部屋に辿り着いた澤村は、座布団に上に腰をどかりと下ろした。
 今までキチンと絞めていた制服のネクタイを緩め、ボタンも第2ボタンまであけてしまう。
 大きく溜息をつくと、澤村は確かめるように呟いた。

「今日からしばらく、この部屋で生活か……」

 二人用の部屋なので少々広いが、男子寮となんらかわらなかった。見まわしても、壁の色やトイレ等のちょっとした物の位置が違うくらいで困ることもない。ルームメイトには悪いが、むしろ一人で快適だ。
 家具もクラスメートがやってくれたおかげで綺麗に並べられている。
 もし並べられていなかったら、今日はぐちゃぐちゃの部屋の中で澤村は寝ることになっただろう。
 今日はあまりにも出来事が多すぎて疲れてしまった。
 金髪の幼女から感じたイヤなオーラに鳴滝姉妹のイタズラ、委員長からの逃走。そして、桜通りのあの感覚。

「あつ……」

 今日1日を思い返していると、急に澤村は暑さを感じた。
 季節が春のわりには、妙にこの部屋は暑かった。使ってないからと窓を閉め切りにしていたのだろう。
 重い腰を上げて窓をあける。少しだけ冷たい風が澤村の頬をなでた。だが、夜の割には目に入ってくる光の量が多い気がした。なんだろうと澤村は無意識に空を見上げた。

「お、満月だ」

 澤村の目にまん丸の月が飛び込んでくる。綺麗だった。
 しばらくそれを眺めていたが、綺麗な満月にそぐわない音が澤村のお腹から聞こえてきた。
 蛙の合唱のように彼のお腹は鳴っている。そんな自分に苦笑して、亜子からもらった肉じゃがを食べようと部屋の奥に行こうとした。
 しかし、

「え……っ!?」

 満月に黒い影が通りすぎた。一瞬だが、黒い影は何度も満月を通りすぎることから、幻覚ではないことを示していた。
 窓から身を乗り出して、影を追う。満月のおかげか辺りが少し明るく、その影をみることができた。距離がありすぎて誰だかわからないが、人間が棒のようなものに跨って空を飛んでいる。

「おいおい、嘘だろ?」

 引きつった顔でそう口には出すものの、それは自由自在に空を飛んでいた。
 棒に跨っている人間の先には、大きなこうもりのような物が飛んいて、棒に跨っている人間は、それに向かって手をかざし数本の光の線が走らせていた。
 それはまるで、

「――――魔法使い?」

 そんなこと、現実的に考えて存在しないものだ。だが、口にだしてみるとそれはまるで実在するかのようにも思えた。
 視界から二つの影が消えた瞬間、澤村の身体は無意識に動いていた。

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