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第9話:穏やかな夕暮れ 投稿者:物書き未満 投稿日:04/21-21:31 No.356

二時間目終了の鐘と共に校舎が生徒達の喧噪に包まれる中、廊下を歩く男が一人。

壁を隔てた向こう側から響く、或いはすぐ隣を通り過ぎて行く少女達の声を聴きながら、新田は老眼鏡を押し上げた。

何時の間にか、新田が教職に就いてから三十余年の月日が経過していた。

気付けば自身は初老に差し掛かり、定年退職までの秒読みも既に始まっている。

三年生の教室の引き戸の前で立ち止まり、新田は小さく息を吐いた。

老化による体力の衰えが本格的に始まったのか、或いは気の早過ぎる五月病か、鉛のような気怠さが新田の身体に圧し掛かってくる。

まだ一日どころか午前中の半分しか終わっていないというのに、まだ新学期が始まったばかりだというのに。



その時、突如新田の目の前の引き戸が乱暴に開け放たれ、白い手袋に包まれた指先が突き出てきた。

白い指先は引き戸の縁を握り潰すかのように鷲掴みし、その傍らからは金色の頭髪がゆっくりと姿を現していく。



「エ、エルリック君……?」



引き戸の向こう側から這い出るように姿を現したエドワードに、新田は思わず顔を引き攣らせた。

エドワードの顔は憔悴一色に彩られ、黒いスーツは草臥れ、金の瞳は死んだ魚のように光を失っている。



「だ、大丈夫かねエルリック君?」



引き気味に問う新田にエドワードは、焦点の揺れる金の双眸をゆっくりと向ける。


「……ネギは、何所だ?」



生気を欠いた瞳で新田を見上げ、エドワードは抑揚の無い声で短く問った



「エ、エルリック君? 一体どうしたのかね?」

「ネギは何所だ!?」



困惑する新田を無視して、エドワードは同じ問いを再度口にする。



その時、一つの小柄な人影が新田の視界の隅に入り込んだ。

藍色のスーツの身を包み、眼鏡を掛けた赤い髪の少年。



刹那、エドワードの瞳が鋭く煌めいた。それはまるで天空から獲物に狙いを定める猛禽のように。

本能的に危険を悟った新田が静止の声を上げるよりも僅かに速く、エドワードは新田の視界から姿を消していた。

ほぼ同時に、ネギのいた辺りから何者かの怒号と悲鳴が轟き渡る。



「うわわわわっ! エドワードさん一体どうしちゃったんですかぁぁぁーーーっ!?」

「問答無用! お前のせいで俺は、俺はぁぁぁぁっ!!」



気付けば廊下の真ん中で何やら騒いでいるネギとエドワードの姿に、新田は思わずこめかみを押さえた。





鋼の錬金先生

 第9話:穏やかな夕暮れ





一日の授業が総て終了し、ネギは明日菜と廊下を歩いていた。



「はぅぅぅ、状況が更に悪い事に……。」



午前中の騒動を思い出し、ネギはさめざめと涙を流す。

エヴァンジェリンとの件だけでも大問題だというのに、加えてエドワードまで怒らせてしまった。

これではパートナーの件はおろか、協力して貰えるかどうかすらも疑わしい。

……と言うかパートナー協力云々よりも、謝りに行って生きて帰って来れるかどうかが怪しい。



「……ウェールズのお姉ちゃん、先立つ不孝をお許し下さい。」



胸の前で十字を切り、ネギは祈るように両手を組んだ。



「あんたちょっと心配し過ぎだってばー、ネギ。エドワード先生だって人間なんだし、いきなり取って喰ったりしないって。」



大袈裟とも言えるネギの行動に吐息を零し、明日菜はネギの頭に片手を乗せた。



「私も一緒に謝ってあげるから、元気出しなさいよ。」



そう言って頭を撫でる明日菜を不安そうに見上げ、ネギは瞳を揺らしながら眉尻を下げる。



「アスナさんはあの人を怒らせた時の恐ろしさを知らないから、そんな風に楽観的でいられるんですよぉ。もしまかり間違ってあの人の逆鱗に触れちゃったりなんかしたら……。」



昨宵の一件で垣間見たエドワードの戦闘能力、それが自分達に牙を剥く可能性も大いに有り得るのだ。

有り得べからざる未来の一つを想像し、ネギは恐怖と戦慄に身を震わせる。



明日菜は小さく息を吐き、どうしたものかと天を仰いだ。

目を閉じ思考を走らせてみるが、良い案が浮かぶ気配は一向に無い。

仕方無く明日菜は視線を再び落としたが、



「あ、あれ……?」



その視界の中に、ネギの姿は何所にも無かった。



「ネギ?」



怪訝そうに周囲を見渡す明日菜の爪先が、床に転がる何かを蹴った。

軽い音と共に床を転がる棒状の「それ」は、ネギが常に持ち歩いている大きな杖。

伝説の魔法使いから貰ったと言う、ネギの宝物。

それが何故、持ち主の手を離れ此所に転がっているのか……?



その時、突如明日菜の心臓が大きく跳ねた

一人の少女の横顔が、明日菜の脳裏に浮かんで消える。

ある意味に於いて、今朝のエドワードを巻き込んだ大騒動の突端にして根源。

ネギが早急にパートナーを選ばざるを得なくなり、そしてエドワードを選んだそもそもの理由。

ーーネギの命を狙う、桜通りの吸血鬼。



「……まさか、ね?」



一瞬脳裏に浮かんだ一つの可能性を、明日菜は肩を竦めて一笑に伏した。

だがその表情からは余裕の色が消え、その顔色は些か青ざめている。

明日菜は徐に腰を屈め、足許に転がるネギの杖を拾い上げた。

逸る焦燥を無理矢理押さえ込み、ネギを探しに行くべく足を踏み出しかけたその時、不意に明日菜の脳裏に一つの疑問が浮かび上がった。



……どうして、自分はこんなにも一生懸命になろうとしているのだろう?



子供嫌いを自称していた筈の自分が子供一人の為に奔走しようとしている矛盾。

そして其れを当たり前のように受け止めている自分。

己の認識している「自分」から逸脱しているようにも感じられる自身の行動と衝動に、明日菜の内にジレンマにも似た感情が沸き上がる。

戸惑いと共に明日菜はその場に立ち竦み、時間だけが緩やかに流れていく。

そして逡巡と葛藤と迷想の果てに、明日菜は一つの答えを見出した。



「……ま、後で考えれば良いか。」



今この場で悶々としていても仕方が無い、今は取り敢えずネギを探そう。

問題を先送りにする形で思考を打ち切り、明日菜はネギの杖を握り駆け出した。

些か過保護とも言える自身の「らしくもない」行動に苦笑を漏らしながら、明日菜はネギを探して校舎を奔り往く。





   □■□■□





同時刻、部活生でない生徒達が続々と下校していく様子を見送りながら、エドワードはフェンスに寄りかかり煙草を一服していた。

然程煙草好きという訳では無いが、吸いでもしなければやってられない。

参校時目以降、3ーA以外の学級でのエドワードの授業は、中々上手くいったと自画自賛出来る程のものであった。

教室の戸を開けた瞬間教室内に引き摺り込まれるという事も無ければ、問答無用で縛り上げられるという事も無い。

非ぬ性癖を疑われるような事も無ければ、何の脈絡も無く性別を完全否定されるような事も無い。

無論、問答無用で脱がされる事など在り得る筈も無い。

極めて普通であり、極めて平和な授業であった。



だが斯くにも拘らず、エドワードの肚の内には鉛のように重い何かが沈殿していた。

3ーAでの「アレ」は例外というか論外としても、この教師という職業は存外ストレスが溜まるものである。

付き合う生徒達は精神的に不安定な思春期、しかも全員異性ときている。

些細な事でも神経は摩り減り、一時なりとも緊張を解く事は出来ない。

このような状況で毎日を平然と過ごしているネギや高畑に、エドワードは畏敬の念すらも抱きかけていた。



エドワードは口に銜えた煙草を右手で無造作に掴み取り、口の中の紫煙を二、三度短く吐き出した。

吐息の度に灰色の煙の環が虚空に浮かび、ゆっくりと宙を昇りながら溶けていく。



「新任早々こんな所でサボりとは、大した身分だな小僧?」



不意に背後から掛けられた挑発的な言葉に、エドワードは口の中に残った紫煙を一気に吐き出し、後方へと振り返った。

その視線の先には、長い金の髪を揺らす仏蘭西人形にも似た童女と、その背後に従者然と佇む機械仕掛けの少女。



「お前にだけは言われたくねーよ、万年サボリ魔不良娘。」

「フン……。」



揶揄にも似たエドワードの反論に小さく鼻を鳴らし、エヴァンジェリンは悪戯っぽく目を細める。



「授業に出ていなかった事は、今は些か後悔しているよ。おかげで折角の娯楽を見逃してしまった。」



そう言って嘲笑するように口元を歪めるエヴァンジェリンに、エドワードの眉がピクリと動く。

何を嗤っているのかは、聞くまでもない事であった。

エヴァンジェリンを見下ろす金の瞳が、剣呑な光を帯びる。



「……喧嘩売ってやがるのか?」

「もしだとしたら買ってくれるか?」



剣呑に見下ろすエドワードと、挑発的に見上げるエヴァンジェリン。

それは喩えるならば狗と猿、ハブとマングース、某怪獣王と金ピカ三つ首の宇宙怪獣。

ぶつかり合う二つの視線の狭間で烈しく飛び散る火花を、エヴァンジェリンの背後に控える茶々丸は視た。



そして永遠に続くかのような長い睨み合いは、エヴァンジェリンが小さな笑みと共に視線を逸らした事で終結した。



「安心しろ、少なくとも次の満月までは事を構えるつもりは無い。」



そう言って肩を竦めるエヴァンジェリンに、エドワードは僅かに眼を細める。



「……ネギの親父の呪いって奴か。」



質問というよりも確認に近いエドワードの問いに、エヴァンジェリンは敢えて明確な返答は返さない。



「次の満月が近づくまでは、今の私はただの人間と変わらん。負けるつもりは毛頭無いが、流石に貴様と正面から殺り合うには些か面倒だ。」



一瞬、エヴァンジェリンの顔に自嘲的な笑みが浮かんだ。

だがそれは刹那の内に消え失せ、次の瞬間には再び挑発的な光がエヴァンジェリンの双眸に煌めく。



「だが未熟なぼーや独り程度なら、この細腕一本でも如何にでも出来る。ぼーやが強力なパートナーを見つけられれば話は別だが、まぁ魔法と戦闘の知識に長けた助言者・賢者でも現れない限り無理だろうなぁ?」



くつくつと意地の悪い笑みを零し、エヴァンジェリンは前髪を掻き揚げた。

未だ肌寒さの残る四月の風が桜の花びらを運び、細やかな金糸がふわりと揺れる。



「それはどうかな?」



不意に呟かれたエドワードの一言に、エヴァンジェリンは怪訝な眼差しで口を開いた。



「どういう意味だ?」

「別に。ただお前は少しネギを見誤っているらしい。」



不機嫌そうに投げ掛けられたエヴァンジェリンの問いをそうはぐらかし、エドワードは徐にフェンスから身体を起こした。



「上手く言葉には出来ないけど、あいつは多分お前の想像とは違うものを見据えている。それが何かは俺にも分からないけど、俺にはそう思えてならない。」



エヴァンジェリンは一瞬虚を衝かれたように目を瞬かせ、口の端をゆっくりと吊り上げた。



「……そうか、それは益々愉しみだな。」



期待の言葉と共にエヴァンジェリンの浮かべた笑みは、贈り物の包みを開ける子供のそれにも似ていた。



エドワードは右手に掴んだままの煙草を擦り潰し、徐に息を吹き付けた。

虚空に吹き出された灰や屑が風に乗り、桜の花びらと共に遠く高く舞い上がる。



「環境破壊だぞ。」

「バレなきゃ良いんだよ。」



他愛のない言葉のやりとりを運び去るように、三人の足許を烏の影が駆け抜けて行く。

何時の間にか、空は茜色に染まっていた。





ちなみにその頃、ネギは謎の覆面忍者と水泳少女によって女子寮大浴場に輸送され、3ーA有志一同による『ネギ先生をノーマルに戻しちゃう会』という名目の逆セクハラに遇っていたりいなかったりするのだが、それはまた別の話である

鋼の錬金先生 第10話:見つからない答え、見つかった答え

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