第十九話
月が綺麗な夜だった。 いつも通り、爆とジバクくんは学園内を闊歩していた。 昨日の夜は、雹が布団に忍び込まないかと戦々恐々として眠れなかったのだが、それでもサラリーを貰う以上義務は果さなければならない。 「ここか……」 爆の足が鈍り始めたのは、世界樹の広場に繋がる森に差し掛かってからの事だった。 ツェルブワールドに繋がるゲートがあの世界樹の所にあるため、爆はあまり気が進まなかった。 どうしても、昨日の雹襲来を思い出してしまう。 「むう……」 森の奥の闇を見詰めて、爆は苦しげに呻いた。 その中に雹がいるような気がして、どうしても躊躇してしまう。 しかし、行かなければ仕事が果せない。 果せなければ給料が貰えない。 ヒモはごめんである。 「……仕方あるまい……」 万が一遭遇したら、問答無用で爆破しよう。 いやむしろ、気付かれる前に後ろから始末した方が良い。 そう決心して、精一杯の勇気を振り絞ると、爆は足を踏み出した。 ―――森の中を、一人の少女が駆け抜けていた。 「はっ……はっ……はっ……」 木の根に足を取られそうになりながらも、彼女は懸命に前に進んでいた。 夜、ふらりと散歩をしていたら、友達がいない事に気付いた。 探し回って、この森に来たら、友達では無い―――異形が現れた。 向けられる原始的な殺意に、交渉を放棄し、少女は逃げた。 しかし、それももう限界だった。 走るのはそれほど得意では無い。 「ッ!!」 とうとう木の根に足を引っ掛け、体が宙に投げ出され、すぐに地面を転がる。 「……ッ」 倒れた体を何とか両腕で持ち上げ、首を後方に向けると、自分を追ってきた異形が、目の前に立っていた。 全体的に丸みを帯びた、しかし頑健な印象を受ける巨体。 目は黄色く爛々と輝いて。 二本の角は鈍く光る。 『追いかけっこはもう終わりか?』 低い声で笑うと、鬼の口ががぱりと開かれる。 赤い、ぶよぶよとした腐ったゴムのような舌が蠢く。 『さて、久しぶりの人間だ』 鉄杭のような爪が、少女に迫る。 「……ッ!!」 その時。 『げぇ……』 突如、鬼が苦悶の呻き声を上げる。 動きがぴたりと止まる。 「……?」 問う必要も無く、答えは次の瞬間に与えられた。 鬼の体が二分割されて、ゆっくりと左右に倒れていく。 右―――動作無くぶら下がっていた右手のついた半身。 左―――爪の生え揃った五指を向けたまま硬直する半身。 中心―――月を背に、剣を握る青年。肩には、ピンク色の球体。 「娘、生きてるか?」 爆は不躾に、倒れたまま自分を凝視する少女に声を掛けた。 偶然森の中で駆け回る鬼を発見し、その後を追跡したのだが、まさか獲物を追いかけている最中とは思わなかった。 たしか、彼女の名は―――ザジ・レニーデイ。 どこか神秘めいた印象を受ける少女だ。 しかし、何故こんな真夜中の森に、少女がたった一人でいるのだろうか? 「おい、立てるか?」 問い掛けは無言無表情で返された。 無愛想というよりも、まるで感情が無いかのようだった。 「……」 ザジが、よろよろと立ち上がる。 だが、木の根に躓いて転倒した際に挫いたのか、地面に着けた瞬間足に激痛が走り、姿勢がぐらりと崩れる。 「!」 「おっと」 地面に伏し様とした所を間一髪、爆の差し出した腕が彼女を抱き止める。 「足を怪我しているのか?」 「……」 ザジが、やはり無言で頷いた。 爆は彼女を支えながら付近の逞しい木の根に座らせると、靴を脱がして露出した患部に手を当てる。 「聖華!」 放出されたのは『術』の光輝。 完全に治癒出来てはいないが、しばらく安静にしておけば完治する筈だ。 「これでよし……よっと」 爆は手を離すと、腕をザジの膝の裏と背中に回し、その小柄な体を持ち上げた。 「待って」 短いながら、ザジが出会って初めて意味のある声を紡ぐ。 「何?」 「友達を……」 そう、彼女は友達を探しにこの森に来たのだ。 まだ見つかってはいないのに、帰るわけにはいかない。 「友達? 友達を探しに来たのか?」 爆が問い質すと、ザジがこくりと頷く。 「分かった。そいつは俺が探すから、お前は一度もどって……」 しかし青年の提案は、横に振られた首に否定された。 どうやら、余程その友達が心配らしい。 爆はしばしその瞳を見詰めていたが、その意思が強固さを悟ると、面倒そうに深く溜め息をついて、 「だったら好きにしろ。俺は責任は持たんぞ」 そう言うやいなや、爆はザジを抱えたままほの暗い森の奥に踏み込んでいった。 「……」 彼女は、何か言いたそうにしていたが、結局口を開く事は無かった。 「……ん?」 爆が腰まで届く程長い雑草の生い茂る獣道を進んでいると、腕の中のザジが自分の肩に視線を注いでる事に気付いた。 すなわち、ジバクくんにである。 「気になるのか?」 爆が首を僅かに傾けて訊ねると、彼女は一瞬びくりと身を震えて、そして静かに頷いた。 「こいつはジバクくん。手を広げると自爆する危険極まる丸物体だ」 そのあまりと言えばあまりな紹介に、ジバクくんが『ヂッ……』と目を剥く。 「友達?」 ザジは、今度は爆に視線を転じると、そう訊ねてきた。 途端に爆は額に眉を寄せ、難しい表情を形作る。 「ん……下僕だ」 あまり素直では無い爆だった。 話題を変えようと、今度は青年がザジに訊ねる。 「ところで、お前の友達とやらは、どんな―――ん?」 自らの言葉を遮って、爆は突然立ち止まった。 何処か遠方から、妖怪の咆哮が聞こえてきたからだ。 しかもそれは聞き慣れた、攻撃の号令。 「……!!」 爆の表情で気付いたのか、腕を振り解いたザジがその方向へと駆け出した。 焦燥からくるのか、つい先刻まで怪我をしていたというのが信じられない程の速さだ。 「待て! 危険だ!!」 爆が呼び止めた時には、彼女の後ろ姿はあっという間に暗闇の中に飲み込まれて行った。 ザジは、広くは無いが森の開けた場所で、狼型の妖怪が友達を取り囲んでいるのを目撃した。 長く裂けた口端から涎を垂れ流し、牙を光らせ、今にも襲い掛かりそうな、一触即発の様子である。 そんな獰猛な殺気の輪の只中にいる友達は、恐怖に怯え、気死せん程に震え上がっている。 「ッ!!」 もはや是非も無い。 ザジは猛然とその中に飛び込んだ。 『!?』 その際に生じた狼達の間隙を突いて友達を拾い上げ、そのまま包囲網からの脱出を試みる。 だが、それを許すほど狼達も間抜けでは無い。 不吉な唸り声を牙の隙間から漏らして、数匹の狼が壁となって走り出そうとした少女の前に立ちはだかった。 振り返れば、後方もまた同じく逃げ道を塞がれている。 『エサ、ダ』 唸り声ではない、地獄から這い出してきたかの様な声が、一匹の口腔から吐き出された。 それを合図に、狼達はじりじりと包囲の輪を縮めていった。 鬼火にも似た何対もの眼光が、ゆっくりゆっくりと、次第に接近して来る。 「う……」 身を貫く恐怖と、腕の中から伝わってくる震えに、ザジは喘いだ。 この狼達が先刻の鬼より何倍も素早いのは明らかだ。 例え足を負傷していなくとも、ほんの数秒で肉片に変えられてしまうだろう。 後退る事すら出来ず、少女は土が剥きだしになっている地面を足踏みするしかなかった。 『エサ!!』 咆哮を上げた一体が四肢を躍らせたのはその時だった。 最大限に広げられた口腔に並ぶ牙が、場違いに思える程に白く輝く。 「ッ!!」 咄嗟に目を固く閉じたザジは、目蓋裏で噛み砕かれる自分の頭を幻視した―――次の瞬間。 何か重い物が落下したかの様な音が、耳朶を叩いた。 少なくとも、噛み砕かれる音では無い。 「……?」 訝しんで、そっと目を開く。 襲い掛かってきた狼はいない。 行方を追えば、獣は足元で真っ二つに断ち切られ、血溜りを作り始めている。 視線を正面に戻すと、肩に大剣を乗せた青年が、口をへの字に結んでザジを見下ろしていた。 狼達は仲間が一瞬でやられたのを見て警戒しているのか、襲って来る気配は無い。 「この、馬鹿者」 開口一番、爆の声は呆れた様な響きを含んでいた。 「俺がいたからよかったものの、あと少し遅れていれば、お前はその友達ともども死んでいたんだぞ。まったく……」 「……」 つらつらと彼の口から出てくる小言は、実際に質量を備えているかの様にザジに圧し掛って来た。 侘びるかの様に、自然と俯いてしまう少女。 しかし。 「まあ、勇気くらいは認めてやってもいいがな」 「え……?」 ザジが弾かれたかの様に頭を上げた時には、青年は広い背中を向けていた。 「戦うのは、俺がやってやる。……やるか失せるか、さっさと決めるんだな」 矢の様に放たれた言葉は、当然背にする少女に向けられたものでは無い。 再び、唸り声が夜気を裂く。 残された狼―――計五匹が、子牛程はある体躯に殺気を纏わせた。 底知れぬ悪意を秘めた目が、赤く輝く。 それを認めて、翻した剣が月の銀光を受けて僅かに輝く。 「来い」 空いた方の手で手招きすれば、狼達はそれに引き寄せられたかの様に肢体を躍動させた。 三匹は高々と跳躍し、月を背に牙を剥く。 二匹はそれぞれ左右から円弧を描いて突進する。 「やるぞ、生物」 『ヂィッ』と威勢良く応じた肩のジバクくんを握る。 その次の瞬間に投擲されたピンク色の球体は、燐光を引き摺りながら上方の三匹の獣に向けて飛来した。 直後、凄まじい爆炎が夜空を蹂躙する。 『グアッ!!』 短い悲鳴も、瀑布となった独特の爆音に紛れて掻き消されてしまう。 しかし爆は気を緩めない。 風を裂き旋回させた大剣で、左右から襲った二匹の狼の爪を弾き返した。 中間で炸裂した火花にも構わず、青年は空中を泳ぐ狼の長い胴を薙ぎ払う。 残り一体―――その時、爆の瞳は虚空を彷徨った。 狼の姿が消えている。 「どこだッ!?」 放った一声の答えは、それとほぼ同時に与えられた。 「あっ……」 背後から上がった少女の悲鳴はか細かったが、それでも爆を振り返らせるには充分だった。 へたり込んだザジの頭を噛み砕かんとする獣の口腔に、青年の目が瞠られた。 「ちぃッ!!」 剣での撃墜は間に合わない。 判断は一瞬、牙の先端とザジの顔の間に掌を滑り込ませた。 「くっ……」 皮膚を食い破る鋭い牙に、爆は僅かに苦悶の声を漏らす。 しかし、狼の顎はそれ以上閉じる事はなかった。 「シンハ!!」 喉奥に向けて撃ち出された念力球は一つだけだったが、妖怪の頭部を破壊するには充分過ぎる威力を持っていた。 頭を完全に消失した狼が力なく崩れ落ちると同時に、爆は身を翻した。 「立てるか?」 見上げてくるザジに、彼はそっと手を差し伸べた。 しかし、少女は掴む手の代わりに、悲しげな声を青年に向けた。 「……手」 「手?」 何かついているのだろうか? 訝しんで差し伸べた手を反したが、特に異常を見当たらない。 「痛そう……」 再び紡がれた言葉に、爆はああともう一方の手を自らの胸の前に寄せた。 先刻ザジを庇った際の咬傷が、未だ痛々しく血を流し続けている。 「なに、これくらい慣れた事だ」 言いながら爆は、己の事ながら忘却していた傷を『聖華』の術で治癒する。 しかし傷は消えても、少女の悲しげな表情は消えなかった。 しょげ返るザジの柔らかな髪に、大きな手が乗せられたのはその時だ。 「そう気に病むことは無い。人を守るのは、GCの……いや、俺の仕事だからな。それよりも、無事だったことを喜べ」 「……」 見上げたザジの瞳に映る青年は、穏やかだが、彼女を元気付けるかの様に勇ましい表情をしていた。 「さて、帰るぞ」 爆は再び手を差し伸べた。 「……お前の友達って言うのは、そいつか?」 隣で黙々と歩くザジの腕の中を覗き込んで、爆は唸る様に呟いた。 彼女の腕に抱かれているのは、無論人間でも、犬でも猫でも無い。 黒い、ぷにぷにとした丸っこい体。 申し訳程度にくっついた小さい手。 顔に当たる部分は、白い丸に目と口があるだけのシンプルな物。 子供のラクガキの様なその生物は、明らかに妖怪の一種である。 妖怪の食物連鎖の中でも、力の弱い者は捕食の対象になるのだ。 『にー、にー』 爆に助けられた事を理解しているらしく、青年に向かって好意の鳴き声を上げる。 人語を話せるようになるまでは、もうしばらく時を積み重ねる必要があるだろう。 「む……妖怪に礼を言われたのは初めてだな」 相槌を打った爆は、おぼろげながら鳴き声の意味を理解している様子だった。 ジバクくんやチッキーと同じ要領だ。 「……」 妖怪との会話に気を取られる爆は、ザジの好奇の視線に気付く事は無かった。 程なくして、森の外に辿り着く。 「じゃあな。早く寝ろよ」 爆が会釈もそこそこ身を翻すと、ザジがシャツの裾を掴んで引き止めた。 「何だ?」 「お礼……」 一体、何処に隠し持っていたのか。 何処からかクラブを取り出し、その場でジャグリングを始める。 曲芸手品部に所属しているだけあり、その手並みは目を瞠る程に鮮やかだ。 「おお、すごいな」 爆が感嘆の声を上げる。 「そうだ、ちょっと待ってろ」 何か思いついたらしい。 広い背中をザジに向け、何かごそごそと手を動かす。 「……?」 爆が振り返った時、彼の右手にはジバクくんが握られていた。 「よし、見てろ」 自信有りげに言うと、スナップを利かせ、手首を縦に振る。 すると、ジバクくんにくっ付いていた吸盤からゴム紐がみょいーんと伸び、再び手の中に収まった。 「ヨーヨー」 爆は満足気だったが、吊るされたジバクくんはお気に召さなかったらしい。 不快感も露に、手の中で喚きながらジタバタと暴れる。 「こら、暴れるな生物!!」 ザジはそのやりとりを、しばし無表情で見学していた。 しかし―――。 「……くす……」 笑った。 控えめに、僅かながら、心の底から。 もっとも、ジバクくんと格闘する爆は気付かなかったが。 |