第二十話
「修学旅行?」 聞き覚えの無い単語に、爆は訝しげに聞き返す。 机を挟んだ目の前に座る学園長が、長い髭を揺らして頷く。 「うむ。君も行くじゃろう?」 老人は当然の如くに問い返すが、対する爆は悩む様に額に眉を寄せた。 「木乃香が行くのなら、そういう事になるだろうが……修学旅行とは何だ?」 爆の口から吐き出された疑問に、学園長は僅かに不審気な表情をする。 「学校に行っていたのじゃろう?」 「そうだが……」 爆がまだ一の世界、ファスタの学校に通学していた頃。 当時はまだ針の塔も0の樹もあり、凶暴なトラブルモンスター存在していた。 たとえGCがいたとしても、大人数での移動など言語道断、あまりに危険過ぎる。 爆達の活躍により、全世界の悪素が浄化され、平和になってからはそういう制度も出来たかも知れないが、何にしろ爆には関係の無い話だった。 「そうか……ならパンフレットを渡しとくから、ちゃんと見ておくんじゃぞ」 学園長が机の引き出しから余っていた冊子を出して、爆に手渡す。 「分かった」 筒のように丸めて手荒にポケットに差し込むと、爆は身を返して退室しようとした。 が、しかし、それを学園長が思い出したかの様に呼び止める。 「……ちょっと待ってくれんか」 見れば、何やら真剣そうな面持ちである。 「ん?まだ何かあるのか?」 学園長は、長い沈黙の後、絞り出すように言った。 「…………木乃香とは、どこまで行ってるのかね?」 「? 何だそれは?」 爆は寝耳に水、といった表情で聞き返した。 しかし学園長は、それに何か安心したのか、ほう、と溜め息をついた。 「一体、何が言いたいんだ?」 「い、いや何にも無いんじゃったら良いんじゃ!!」 学園長は危惧していたのである。 何故ならば、近頃……というか『あの悪夢』を見てからというものの、木乃香が爆にべったりなのだ。 たしかに自分はお見合いを勧めていた。 ―――しかし。 『あの悪夢』のように、万が一、爆と木乃香が結婚するような事があれば。 いやもちろん、爆の責任感も心根も知っている。 きっと浮気とか、悲しませる様な事は一切しないだろう。 だが、果たして自分の胃が持つかどうか…… そんな考えに憑依され、どよっとしたオーラを出し始めた学園長。 爆は深い溜め息をつくと、やれやれと首を振り、無言で部屋から出た。 「(結局、何だったんだあのジジイは?)」 腕を組み、ううむなどと呻きながら爆は廊下を前進していた。 肩に乗るジバクくんが心配そうに見詰めてくるが、それに気付く事も無かった。 『…………木乃香とは、どこまで行ってるのかね?』 この台詞を心中で何度も反芻して見るが、どうしても理解が及ばなかった。 そしてその事実は爆にとって不快ですらある。 別に、理解出来ないものに対しての嫌悪感では無いが、あの老人が知ってて自分が知らないというのは、どうにも納得が出来ない。 「(あいつとどこかに出かけた事は無かった筈だが……)」 どこまで、という場所を示すと思われる言葉を念頭に置いてみたが―――もっと訳が分からなくなった。 ―――その時。 悩みの種である少女が翼の様に両腕を広げ、満面の笑みを咲かせて爆走してきた。 木乃香である。 「爆さ〜〜〜ん!!」 目前まで切迫してきた所で、少女の細腕が爆の首の辺りを抱きしめようとする。 しかし青年は無情にもその抱擁を受け入れようとせず、一歩後ろに下がって回避した。 「あーん、何で避けるん……」 鼻先を掠めた腕をそのままに木乃香は残念そうに呻くが、爆の返答は素っ気無いものだ。 「そういつもいつもチョークスリーパーを喰らってられるか」 腕を組んだその時、木乃香の突進してきた方から、栗色の髪の少年と赤い髪の少女が駆け寄ってきた。 ネギとアスナだ。 「あっ、爆さん。こんにちは」 十歳らしかぬ慇懃さで会釈したのはネギである。 その隣で、アスナが爆のポケットに刺さったパンフレットを見とがめた。 「あれ、爆さんも修学旅行いくの?」 「ああ、俺はこいつの護衛だからな。行かない訳にもいかんだろう」 木乃香の黒髪に手を置くと、少女の目が猫の様に細められた。 「そうなんですか、頼もしいですね!」 そう言って爆を見上げるネギだったが、実際に彼が戦った所を目撃した事がある訳ではない。 ―――情報源は楓である。 口を開けば、出てくるのは同居人のことばかり。 舌の回転度は通常の倍で、洗脳でもしたいのかと勘ぐってしまう程だ。 まあそれはともかく、当然話しの内容には爆の実力の程も含まれていた。 それに嘘が無いなら、少々のトラブルくらいは叩き潰してくれるだろう。 ネギがそんな事を思っていると、爆が不意に身を翻した。 「そろそろ、仕事の時間だ。行くぞ生物」 修学旅行は近いものの、いつも通り仕事はある。 別に文句がある訳ではないが、黙然として爆は夜の学園を警備していた。 しかし、一つ文句を言わせて貰うならば、 「何だこの空気は……?」 不快げに唸って、宙に手を這わした。 纏わりつく空気は、生温かくて気持ち悪い。 中途半端に、南国の空気を混ぜ合わしたかのような具合だ。 この学園に来てからかなり経つが、こんな空気はかつて無い。 ふと夜空を見上げれば、厚い雲が月すらも覆い隠していた。 得体の知れない不吉さを感じ、爆は眉を顰め―――立ち止まった。 「……そこにいるのは誰だ」 目前に広がる闇に、声を投げ掛ける。 それに応じて、その中からぼんやりとした輪郭が現れた。 そして次の瞬間、それは夜を切りとった様な闇色のコートを身に纏う紳士へと姿を変えた。 「ふむ、まさか気付かれるとは思わなかったよ」 被った帽子の鍔を指で押し上げ、男が穏やかな笑みを浮かべながら賛辞を述べた。 「ああ、失礼。申し遅れた、私はヴィルヘルムヨーゼフ・フォ……」 風貌に見合って、慇懃に自己紹介を始める。 しかし、対する爆は紳士でも何でも無かった。 「行け、ジバクくん」 一切の礼儀も慈悲も無く、男に向けてジバクくんを放り投げた。 「ヘルマン……え?」 飛来する謎のピンク色の丸物体に訝しがる暇も与えられず、ジバクくんの体が燐光を帯びた。 ちゅどーーーーんッッ! 夜気が切り裂かれ、爆風が巻き起こる。 紳士―――ヘルマンはロケットの如く打ち上げられ、一瞬の滞空を味わった後、今度は顔面を地面に打ち付けるという素敵な感触を味わう事になった。 しかし彼はタフな事に、立ち上がるやいなや肩を怒らせて爆に詰め寄った。 「な……何なんだね君は!? 自己紹介の途中で攻撃するなんて!! 親御さんにそう教育されたのか!!?」 「ふん、貴様の様な不審者を抹殺するのが俺の仕事だ」 全く反省の色を見せない青年に、ヘルマンは歯と歯を噛み鳴らすと、突き飛ばす様にして距離をとった。 「……まあいい。どうせ目撃者は残らず殺す手筈」 低い男性特有の声音が、途端に殺気を帯びた。 何時の間にか作られていたヘルマンの拳に、強大な魔力が集積される。 「デモニッシエア・シユラーク!!!」 裂帛の気合と共に撃ち出された光の拳は、まるで彗星の様だ。 圧倒的な暴力を備えた一撃は、正対する爆の頭蓋骨を打ち砕いた―――その筈だった。 上質な手袋に包まれた拳に、硬い物を砕く感触は伝わってこない。 鈍い音が、夜を騒がせる事も無かった。 「な……」 絶句した紳士の目が瞠られた。 渾身の一撃は、刹那の瞬間に割り込んできた爆の掌に受け止められていたのだ。 防御した手を包み込む気の光輝が、青年の顔を照らし出す。 「……俺を殺すには、少し貧弱すぎるな」 掌に込められた力は、常人ならば拳を握り潰されていただろう。 「ッ!!」 ヘルマンの喉が、ぐびりと鳴る。 力任せに戒めから逃れると、彼はその姿を変えた。 中年男性の物であった顔が、のっぺりとした仮面の様に変貌する。 後頭部からは禍々しく捻じれた角が生え出し、ぎざぎざの口は大地に走った亀裂の様だ。 一瞬膨れた背中からは、蝙蝠にも似た翼が排出される。 悪魔としての姿に戻ったヘルマンは両翼を羽ばたかせ、夜空に舞い上がった。 『来い!!』 大地に向けて張り上げた一声。 それに応答したのは、空間の歪みだ。 次の瞬間、地面から無数の異形の影が這い出してきた。 ヘルマンの眷属である、悪魔の軍勢。 次々と出現する闇に住まう者達は、主の命に従い爆を包囲していく。 『ふははははッッ!! どうだね、これだけの悪魔を、君に倒せるか?』 降って来たのは、紳士の姿を取っていた者の哄笑。 耳障りな声音に爆は顔を顰めたが、しかし次の瞬間には、それは微笑に変わっている。 「ふむ、ちょうど良い」 何か、面白い遊具を発見したかの様な、そんな口調だった。 『何?』 「最近、魔法とか、気とかを覚えたんだが、試せる奴がいないからな……ちょうど良い」 不敵に笑って、繰り返す。 それを挑発と受け取ったのだろうか。 先頭の牛を思わせる巨躯の悪魔が、青年に向けて豪腕を振り下ろした。 何かが弾ける様な音が冴え渡る。 『は……ははははッ! 偉そうな口の割りには……!!?』 ヘルマンの哄笑は、自らの驚愕に遮られた。 弾ける音―――その発信源は爆では無い。 それは、砕けて肉片と化している、悪魔の腕だったのだ。 「―――まずは素手だ」 爆は、握り締めた拳に気を集積させた。 そして、目前で咆えながら苦悶を訴える悪魔に、それを容赦なく叩き付ける。 『ガ……』 三メートルを超える巨体は、紙細工の様にあっけなく四散した。 「ふんッッ!!」 続けざまに放たれた後ろ回し蹴りは、背後の壁を大きく削り取る。 『グォオ!!』 横合いから突き出された悪魔の巨拳は、片手で受け止められる。 それをそのまま掴むと、爆は体ごと回転させて悪魔を振り回した。 その巨躯と体重は強力な武器となり、寄ってくる悪魔を次々と撃破した。 不意に手を離す。 遠心力のまま、解放された悪魔は仲間の中に頭から突っ込んで、包囲網に大きな道を作った。 「次は、こっちだ」 素早く背中に回した手は大剣の柄を握り、力強くホルダーから引き抜いた。 それを正眼に構えると、爆は刀身に魔力を這わせた。 「氷迅ッッ!!」 咆哮と共に、青年は剣を振り下ろす。 打ち放たれた魔力は中空で姿を変え、全てを凍結させる吹雪となって闇の眷属達に突進する。 『ウォオオオオオオ!!』 白い劫火をその身に受けた悪魔達は軒並み氷像と化し、次々と砕けては夜闇に散っていった。 爆の攻撃はそれに止まらない。 身を螺旋描くように回転させ、横殴りに大剣を振り抜く。 「雷月ッッ!!」 三日月状の電撃が撃ち出される。 進行する雷光の刃は悪魔を悉く薙ぎ払い、最後には稲妻と化して天を焦がした。 『……ナメルナッ!!』 既に残り少なくなった悪魔達が、最後の抵抗とばかりに爆に殺到する。 だが、振り上げられた腕は、心臓を狙った爪は、頭を噛み砕こうとした牙がその目的を果す事は無かった。 突如巻き起こった旋風が、その所有者ごと、原型を留めぬ程に、一瞬にして斬り刻まれたからだ。 「……嵐牙」 旋風の正体。 それは気の過剰供給によって強化した片手による、亜音速の斬撃だった。 『……何の冗談だ、これは?』 ヘルマンは、知らず知らずの内に呻いていた。 百を優に超える部下達は、今や圧倒的な力を持って叩き潰された。 先刻まで大地を埋め尽くしていた異形は、悉く闇の世界に還っていった。 ―――これは。これでは、同じでは無いか。 昔、イギリスの村を襲った、あの時と。 しかし、思いに耽る暇は、彼には与えられていなかった。 「おい、残ってるのはお前だけだぞ」 突如視界を満たした爆の拳は、彼の思考を現実に引き戻すと同時に、地面へと叩きつけた。 『ぐあっ!!』 一体何が起こったのか。 自分が飛んでいたのは上空十メートル。 気や魔力で強化されていても、そう簡単に届く高さでは無い。 その理由を知っているのは、今この場においては、爆ただ一人だった。 彼の体表から五臓六腑まで、余す所無く、気と魔力が混合された力が覆っている。 ―――咸卦法。 習得した初期は発動まで多少時間を要したが、今ではほぼ一瞬で全身に浸透させる事が出来る。 背中に地面をつけた姿勢のままのヘルマンに、降り立った爆は悠然と歩み寄った。 「こいつは、やっぱりすごいな。あんま力入れてないのに」 全身を駆け巡る力の奔流に高揚したかの様に、拳を顔の前に掲げる。 『く……!!』 立ち上がる事も忘れて、ヘルマンはそれに見入っていた。 薄く光る瞳の無い目に、僅かに焦燥の色が走る。 『かぁッッ!!』 刹那、悪魔のぎざぎざの口から閃光が迸った。 「!!」 爆は至近距離で撃ち出された魔力の光弾を、振り抜いた裏拳で反らしたが――― 「む……」 生じた僅かな隙の間に、ヘルマンの姿は煙の様に消失していた。 空を見上げるが、異形の姿は何処にも見当たらなかった。 どうやら、空間移動の類で逃亡したものらしい。 「まあ、いいか」 学園内にいないのならば、追う必要も無いだろう。 そう判断して、爆は咸卦法を解いた。 「……それにしても、これは疲れるな」 全身から光輝が消えた瞬間、途轍もない倦怠感が青年の全身に圧し掛かる。 咸卦法はたしかに強大な力を与えてくれるが、肉体に掛かる負担もそれに相当した物だった。 加えて、悪魔の軍勢を叩き伏せた時の疲労もある。 「まあ、要は慣れだな」 そう独りごちると、爆は何事も無かったかの要に警備を開始した。 ―――爆とヘルマンが再び会合するのは、そう遠くない未来の事だった。 |