第四十話


初出公開 04/22-00:31



ベンチから腰を浮かせた刹那と木乃香の目前に停まったのは、一台の馬車。
無論それだけならば特に問題は無い。

しかし刹那が瞠目したのは、手綱を引く闇色の装束を纏った黒子と、そして席に座る人物を目にしたからだった。

「お……お前は!?」

警戒心を露にする刹那の声に引かれるように、扇子で顔を隠した西洋の貴婦人が静かに馬車から降り、地に爪先を着ける。

「どうもー神鳴流です〜」

口元までずらされた扇子の向こうから聞こえて来た間延びした声音に、刹那の全身を戦慄が駆ける。
続いて、眼鏡の向こうに何処か作り物めいた微笑を貼り付けた少女―――月詠はすぐさま己の台詞を訂正した。

「じゃなかったです……そこの東の洋館のお金持ちの貴婦人にございます〜。今日こそ借金のカタにお姫様を貰い受けに来ましたえ〜」

「!!」

刹那の両腕は、まるで別の生き物であるかの如く鮮やかに動いた。

左腕は、疑問符を浮かべる木乃香を後ろに追い遣る。
右腕は、腰に刺した野太刀《夕凪》の鯉口を切る。

瞬く間に防衛体制を整えた刹那の隣に、新撰組の衣装を身に纏い、肩に聖霊を具した青年が駆けつけて来た。
馬車の前に悠然と佇む貴婦人に視線を飛ばすや、状況を悟った爆は背負った大剣の柄に手を掛ける。

「貴様はたしか……月詠だったな」

何時でも抜刀が可能な状態の爆に対し、月詠が取った行動は、慇懃な御辞儀だった。

「あ、この前は眼鏡をどうもー」

青年の横顔に一瞬戸惑いの色が走ったが、すぐに言葉を返す。
刹那の脳裏を過ぎったのは、先日ちび刹那を通して見守った月詠との戦闘。

「何だ貴様、気付いていたのか」

「眼鏡が外れても、全く見えない訳では無いので〜」

口元を扇子で隠したままの少女が朗らかに笑う。
刹那には、その様子が非常に癇に障った。

「……」

無意識に、歯が薄桃色の下唇をきつく噛み締める。
軽く血が滲み、錆びた鉄の味が舌に広がる。
眉間には皺が寄せられ、形の良い眉が痛みを堪えているかのように歪められた。

気に入らない。

とても気に入らない。

あの月詠と名乗る少女にとって、爆は間違い無く敵である筈だ。
その敵を前にして、どんな思考回路を脳に搭載していればあのような和気藹々とした声が出せるのだろうか。

爆が女性を傷つけることを嫌うのを知っているからか?
それとも油断させておいて背中に刀を突き立てるという卑劣な心算か?

「(……それ以上爆さんと話すな! 目を合わせるな!! 穢れる!!!)」

胸の内で、縄張りを侵害された猛獣が如く咆哮した刹那の黒瞳が月詠の笑顔を一直線に串刺しにする。

彼女は今、初めて雹の気持ちを理解した。

爆が自分達と会話を交わしている時、彼は同じ感情に苛まれているのだろう。

刹那は思い知った。
嫉妬とは、こうまで殺意と憎悪が湧き出してくる感情なのか。

ここまでは良かった。

少女の頭の片隅にはまだ、観衆の中では下手な行動は慎むべきだという理性は辛うじて残されていたのだから。
だが、次に月詠の口唇が爆に向けて紡いだ言葉がいけなかった。

「ウチ、強いお人は好きどすえー♪」

刹那の視界が、まるで太陽が消滅してしまったかのように闇に染まった。
全身の血液が逆流する。

今、あの女は何と言ったのだ?

『スキドスエー』

『すきどすえー』

『好きどすえー』

脳内を延々と木霊する言葉。
刹那に残されていたほんの僅かの理性が、この時跡形も無く消滅した。
ふと、闇の奥底から甘く囁き掛けて来る声。

―――殺りましょう。

刹那は笑顔だった。
触れれば一瞬にして瓦解してしまいそうな、渇ききった笑顔。
「雹三号」が誕生した瞬間だった。

水平に伸ばされていた左腕が野太刀の柄を握り、引き抜いた。
白銀に輝く肌が露になる。

更に右手を加え《夕凪》を両手で持ち、正眼の構え。

「せ、せっちゃん?」

背中に誰かの狼狽した声が掛かるが、もはや止める事は神にも出来ない。
刹那の双眸には、燃え盛る地獄の業火。
全身からは、陽炎のような揺らめきが立ち昇っていた。

《夕凪》が、ゆっくりと頭上に掲げられ―――

「神鳴流奥義! 斬空閃ッ!!」

烈風を捲いて振り下ろされた。

もしかすれば、自分はこの瞬間のために技を、剣を練磨してきたのかも知れない。
そう思わせる程、月詠を狙って放たれた気の刃は今までに無い強大さを有していた。

しかしながら憎悪に任せた一撃は威力こそ在れ、狙いは使い手同様に狂っていた。
殺意の牙は目標である筈の月詠の真横を通り過ぎてそのまま直進、背後にあった物を轟音を上げて粉砕する。

すなわち、馬車の運転席を。

土煙を引き摺り、馬車の破片を纏って、運転手を務めていた黒子が蒼穹の彼方へと消えてゆく。
縛めを解かれた馬が高らかな嘶きとともに逃走、その進行方向にいた人々が悲鳴を上げて散開する。

決して嬌声ではない物騒な喧騒に満たされた大通りの中、刹那がふと隣に視線を遣ると、そこには珍しく唖然とした爆の顔があった。

「せ……刹那?」

呻くような青年の呟き。
正気に戻った刹那は、この日何度目かの赤面を世に晒す事になった。
はしたないとか、そんな生易しいレベルでは無い。
自分の心の闇の部分を直視してしまった気がする。

「……えっと、えーい!」

只ならぬ剣幕に多少は動揺したらしく、一拍間を置いて月詠が当初のシナリオを再開した。
手を包んでいた手袋を、爆に投げつける。

「!」

しかし青年が受け取る寸前に、決闘を申し込む合図であるそれを横合いから斬り捨てた銀の円弧があった。
刹那の放った、《夕凪》の斬撃だ。
心の闇の部分が早くも復活したらしい。
双眸には消え去った筈の地獄の業火。

手袋を掴もうとした右手を当て所なく宙に泳がせたまま、爆は困惑しきった顔で問い掛ける。

「刹那……一体何を」

「ダメです爆さん。あんな物に触ったら毒で死にます」

恐ろしく平坦な声が返って来た。

刹那の絶対零度の表情は、木乃香を身勝手極まる理由で攫おうとし、あまつさえ爆にまでその薄汚い手を伸ばそうとしている不倶戴天の敵に向けられていた。
彼女の実際に質量すら感じられる殺意の波濤に、周囲のギャラリーは皆一様に口を閉ざしている。
場違いなまでに燦々と照る太陽の光を受けて、剣呑な銀光を長大な刀身に走らせる《夕凪》。
戦いに慣れていない一般人には、少々刺激が強すぎる。
何しろ百戦錬磨の爆でさえ動けないのだから。

もはや、シナリオも何もあった物では無かった。
それでも月詠の口唇は、健気にも用意してあったのだろう台詞を紡ぐ。

「このか様をかけて、決闘を申し込ませて頂きますー。三十分後、場所は正門横《日本橋》にて……逃げたらあきまへんえー」

そう言い残すと、月詠は去って行った。
馬車は原型を留めていないため徒歩で、とぼとぼと。
それを見送りながら、刹那は野太刀の柄を固く握り締めた。

「くっ……仕方ない、やるしかないか」

「おい、刹那」

「爆さ……お嬢様を渡す訳にはいかない」

「……」

怪訝そうに呼び掛けてくる爆からは故意的目を反らし、刹那は闘志に燃えていた。
木乃香の安全を考慮するならば、決闘など無視してすぐさま此処から立ち去るべきなのだろう。
だがそうなると、敵がどんな強行策に出るかも分からなかった。
ならば下手に放置してくよりも、ここで決着をつけた方が後の面倒も無い―――もっとも、その決心に私情が含まれていなかったといえば嘘になるが。

「うう……せっちゃん怖いよう……」

親友のあまりの恐ろしさに、木乃香は涙していた。



             ◇◆◇◆◇◆



同時刻、物陰で嫉妬したり困惑したり泣いたりと色々多忙な爆達三人を観察している者達がいた。

ハルナと夕映である。

塀を飛び越えて侵入した爆達と違って普通に入場した二人は頼まれていたチケットを渡すべく彼らを探していたのだが、まさかあんなシーンに居合わせる事になるとは予想だにしていなかった。

「……桜咲さんってあんな人だったんですか……?」

夕映がぽつりと呟いた。

教室で見る刹那は常に寡黙だった。
冷めていると言っても良く、とても色恋沙汰に関わり合いがあるとは想像すら出来ない。
そんな彼女が、見知らぬ少女の爆に対する「好きどすえ」宣言で大激怒。
一瞬、目医者に行って手術をするべきかと、真剣で悩んでしまった。

「んふふふふふ……」

隣のハルナが不気味な笑声を漏らす。
眼鏡の奥の瞳には、好奇心の光。

「これはすごいラブ臭……いやむしろ修羅場臭!?」

興奮気味の親友の言葉は、あまり理解したく無い。
もしもあそこに雹がいたのなら、まさしく修羅場が展開されていただろう。
激しい戦場と言う意味でだが。

「一人の男を巡る三角関係ッ! まさか現実世界で見られるなんて!!」

自らの身体を抱きしめ、ハルナが感極まったように絶叫。
実際の所爆の場合は三角など生易しい物では無く、超多角関係だ(男・オカマ含む)。

「(付き合ってられないです……)」

心中で嘆息する夕映は、ハルナは放っておいてその場から立ち去ろうとした―――緋色の髪の少女に行く手を遮られたが。


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