ネギ補佐生徒 第33話
「兄貴、もうすぐ見えてくるはずだぜ!」 カモの声に、ネギは無言で頷く。 女子寮へと続く桜通りは、結構な距離がある。魔法で強化した足で走るが、なかなか明日菜が見えてこない。 「なぁ、兄貴。さっきから思ってたんだがよ、なんか人が少ない……っていうか、人っ子一人いねぇよな」 言われてみればそうだ。一般人に見られることを懸念して杖には乗っていないのだが、何故か人が見当たらなかった。 いくら実家に帰っている生徒が多いとは言え、女子寮へと一直線に続いている桜通りに人が誰も歩いていないのはおかしい。 そんなことを思いながらも走り続けると、 「アスナさん!!」 ハマノツルギを構えている明日菜の姿が視界に飛び込んできた。思わず大声で彼女を呼んでしまう。 ――――よかった、無事だ。 だが、 「答えろって言ってるだろ!! 大体お前、何者なんだ!?」 黒い人影の胸座を掴んで激しく揺さぶる少年を見て、ネギの思考は止まってしまった。 澤村と明日菜が一緒にいることにも衝撃を受けたがそれよりも大きな衝撃があったのだ。 眉間寄る深い皺。 見開いた目。 恐怖する瞳。 引き攣る頬。 ガチガチと鳴る歯。 横に広がった口。 恐怖に狂う、人間の姿そのものだった。 なんで彼はそんな顔をしているのだろうか。 そして――――― ――――なんで自分は、少年……澤村翔騎を怖いと思ったのだろうか。 ネギ補佐生徒 第33話 黒い感情 澤村翔騎は、自分でも理解できないドス黒い感情に捕らわれていた。 これをなんと言って表現すればいいのかわからない。考えることすら出来なかった。 とにかく嫌な予感がしたのだ。 いつも感じるあの、嫌な予感が。 外れたことのない、嫌な予感が。 じっと自分を見る敵の目が憎たらしくて仕方がなかった。 この敵が自分の目の前にいることに焦りを感じずにはいられなかった。 昂ぶる感情に任せて、言葉をぶつける。 「答えろ……答えろよぉっ!!」 激しく揺さぶっても、敵は動こうとしない。 ただただ、自分を見るだけ。 「さわ……む、らさん?」 途切れ途切れの問いかけに、澤村は被りを振ってそれを見た。 ――――青ざめた顔で自分を見るネギがいる。 何故? 何故ここに? 何時の間に来たのだ? わからない。 わらかない、わからない。 ふいに現れた人物によって、何かが飛んだ。 胸座を掴んでいた手が無意識のうちに緩む。 それを待ってたと言わんばかりに、敵は澤村を突き飛ばして彼の下から抜け出した。 倒れ込む澤村をよそに、立ち上がる敵。 「澤村君!」 「澤村さん!」 ネギと明日菜が、澤村を庇うように敵と彼の間に立ちはばかった。 敵は構えない。 その場に立つだけで、こちらを見つめるのみ。 澤村は自分の喉が乾くのがわかった。 体は酷く寒い。 焦燥が、澤村を食らう。 先ほどとは違う焦りが、澤村を襲う。 だが立ち上がる余裕はなく、感情をぶつけることもできなかった。 「…………」 敵は無言。 聞こえるのはわずかな息遣い。 ネギと明日菜、澤村も敵も……皆無言。 空気がおかしかった。 その空気が、何かを始めさせようとしているようで、 その空気が、何かを終わらせようとしているようで、 その空気が、何かを肯定させようとしているようで、 その空気が、何かを否定させようとしているようで、 その空気が、澤村の首を締めつけているようで、 酷く。とても酷く、息苦しかった。 どのくらいの時が経ったのだろうか。 敵は、ゆっくりと一歩下がると―――――地へと体を沈めていった。 ネギと明日菜がそれを追うも、結局間に合わず。 桜通りに三人だけが残された。 「瞬間移動――――こりゃあ、また手強いのが現れたな……」 溜息混じりで言ったカモの言葉が桜通りに響く。 まるで図ったかのように、生徒達がちらほらと見え始めた。 「人払いの魔法も使っていたみたいですね……」 そう言いながらネギは構えていた杖を背中にくっつける。明日菜もそれにならってか、アーティファクトをカードへと戻していた。 ネギが澤村へと手を差し伸べる。 「大丈夫ですか」 そう聞かれても澤村には答える余裕などない。無言のままで差し出された手を握り、立ち上がる。 体が多少痛むものの、特にこれといった外傷はない。きっと鍛錬のおかげだろう。 空気が戻ったおかげか、息苦しさはもうなかった。 今までのことはまるで嘘のように、いつもの自分に戻って行く自分に戸惑いを覚えないことに澤村は内心、少しだけ驚いていた。 ネギに礼を述べて潰れてしまった携帯の箱が入った袋を持ちげると、明日菜へと視線を向けた。 けれど、澤村に気が付いていないのか、彼女は堅い表情のまま敵が消えた場所をじっと見つめている。 それはなんとも彼女らしくない表情。 そんな表情を見たくなくて、澤村はニカリと笑って彼女に声をかけた。 「ナイス攻撃」 きっと顔を向ければ、ニカリと笑って言う澤村の顔が視界に入ったのだろう。 けれども明日菜は澤村を見ていなかった……見れなかった。 ネギのことを知っても、 刹那の本当の姿を知っても、 明日菜は驚きはすれど、思うことなどなかったのだ。 ――――怖い、と。 負い目を感じずにはいられなかった。 「……神楽坂さん?」 怪我したのか、と心配そうに聞いてくる澤村。ネギも彼の言葉を聞いてええ、と声をあげる。 「だ、大丈夫ですか、アスナさん!」 わたわた。 相変わらず両手を両脇で上下に振るのが好きな子供である。 澤村も澤村で、鋭い目に似合わず眉をハの字にしている。 あの歪んだ顔が嘘だったかのように。 そんな二人を見て、明日菜は破顔した。 大丈夫、と手をひらひらとさせて見せると、二人して同じような顔をして安堵してみせる。 明日菜は思わず声を出して笑いそうになったが、今はこんなのんびりしていられない。 「とりあえず帰りましょ。さっきの奴のことで話もあるし」 明日菜の言葉に二人は真剣な表情で頷き、それを確認すると、明日菜は歩き始めた。 これから、あの敵のことで話す必要があるのだから。 ―――――いいのかな。 そんな言葉が澤村の頭の中に浮かぶ。 自分の部屋とは違う、甘い匂いというかなんというか。 隣が自分の部屋だというのになんでこんなに違うのか。 男と女の違いってこういうところでも出るんだなぁ、なんてしみじみしてしまう。 「翔騎君、紅茶は何も入れへんでええかー?」 「あ、うん。いいよ」 少し大きめの声でそう答えると、はいなーという間延びした声がキッチンらしきところから聞こえてくる。 そうなのだ。 もう再確認せずともわかるのだが、ここは神楽坂明日菜と近衛木乃香+ネギ・スプリングフィールドの部屋なのである。 テーブルをはさんだ目の前には、明日菜。彼女の隣にはネギ。 本当はあぐらをかきたいところなのだが、なんとなく居慣れない部屋に威圧されて正座している。 「それで……そいつの顔を見れたんですかい?」 ――――そうそう、テーブルの上にいるカモも忘れちゃいけない。 テーブルの上にちょこんといるのにどっかりと腰を下ろしているように見えるオコジョ妖精は、澤村をちらりと一瞥してそう問い掛けてきた。ニヤリと笑っている。 なんとなくその仕草が癪だったので、右手の人差し指でぐりぐりと鼻を押してやった。修学旅行のぐいぐいより痛い筈だ。指で捻っているのだから、摩擦が加 わってさぞかし痛いであろう。大丈夫、ちゃんと力加減はしているから、苦痛はあっても怪我やら大きな害はない。それに相手は動物だ、そんないじめてはいけ ない。 「いでっいででで……」 「顔は、面をしてたから全くわからなかった」 一応答える。 たぶん使えないとか思われてそうだから、更にぐりぐりと鼻を押してやった。ざまぁみろ。 「鼻がっ……旦那、鼻が潰れちまう!」 「大丈夫、元から潰れているような鼻してるから」 なんて言いながらカモの抗議など無視する。こっちとら朝から災難づくしで機嫌が悪いんでい。 唯一優位な立場にいられるカモでこの鬱憤を晴らさなければ何処で晴らすと言うのだ。 ……そう思ったら少し悲しかった。 それにこう思っていないと、さっきの自分の感情を思い出してしまいそうで正気が保てそうにない。赦せ、カモ。 「神楽坂さんも見てないよな?」 カモの鼻を押したまま澤村は問う。 日頃の行いが悪いのだろう、カモのことは完全にスルーで話が進められる。 「あいつ、声すら出していないから男か女かも微妙よね……」 「え、男の人じゃないんですか……って、澤村さん、カモ君をいじめないで下さいっ」 怒られてしまった。そりゃ、友達をいじめてたら怒るか。いじめているわけではないけれど。しかし確かにやりすぎたかもしれない。 前を乗り出して言ったネギの言葉に従い、澤村はすっぱりとカモの鼻を押すのをやめる。 因みに今あがっている疑問の答えは澤村が持っているので、素直に口を開いた。 「たぶん男だと思う。――――……胸、なかったし」 最後の一言が小声となってしまったのがいけなかったのだろうか。 それを澤村の言葉を聞いた明日菜の視線がとてもとても冷たくなる。 そして、 「ふーん……触ったの?」 きついお言葉を貰いました。 だが澤村も伊達に女子中等部3−Aをやっていない。ここでうろたえてはいけないのだ。 大丈夫。女性の体をはっきり見たわけではない。 ……正確に言うと、修学旅行でちらりと見てしまったが。それも3回ほど。 いや。 いやいや。 いやいやいや。 とりあえずフォローしなくては。これは仕方がない。そう、仕方がないことだ。それにそんな覚えてないし。 「触っていないけど……見た目で判断した。というか、体付きが男みたいだったしさ」 ほれ見たことか。 明日菜は納得してくれた。冷静バンザイ。 彼女だから納得してくれたのやも知れないが。もしくは、話が話だからかもしれない。 とりあえず誤解が解けたのだからよしとしよう。 「目的はなんだったんでしょう」 鼻の痛みが治まったのか、兄貴ー! と自分の胸に泣き付くカモを撫でながらもネギが言う。 改めて考えてみると、澤村は何故自分が狙われていることにあんなに同様したのかようやく不思議に思うようになった。 よく考えれば、明日菜と自分どちらが狙いやすいかなんてすぐにわかることではないか。 自分の方が明らかに弱い。 それを見抜けるほどの力量は、たぶんあの敵は持っている。 ――――じゃあ、なんで自分を狙っていると思ったんだ? あの時だけじゃなくて、今後も狙ってくるように思えた。 目的が自分だと思った。 ……何故? 三人で首を傾げる。 しばらくの間の後、ネギが、 「とりあえず、学園長先生に報告しときま……」 「お待たせー。クッキーも焼いたから皆、食べてなー」 ……言いきる前に木乃香に遮られる。 そういえば香ばしい匂いがしていたかもしれない、と目の前に出されたクッキーを見て、澤村はそんなことを思う。 紅茶とクッキーの甘い香りが鼻をくすぐった。 「あ、おいしそう」 思わず口にすると、木乃香がおおきにと笑って澤村の横に腰を下ろした。彼女の長い髪がさらりと澤村の頬を撫でたが、彼女が澤村の隣にいることは結構多いほうなので、特に気に留めることはなかった。 というか、刹那と鍛錬を始めてから彼女はそれをよく見学しにくるのだが、休憩時によく澤村の隣に座って話しかけてくるのだ。なんとなくだが、気になっていたことの一つだが、それは今後に回そう。 ネギが遮られた言葉を言いなおすことはなかった。 修学旅行の一件があるとは言え、敵が彼女を狙っている可能性は低い。 帰り道に澤村がネギに指摘したが、ネギは木乃香を一人置いて明日菜の元へ来たらしい。 これが木乃香をさらうための罠だったら完璧アウト。彼女がここにいることはなかっただろう。 明日菜もそれに気がつき、澤村と二人で怒ったらネギが泣きそうになったので説教は中止となった。 ……ほんと、子供は泣きに逃げるから卑怯である。感情が昂ぶるとすぐに泣いてしまうのは子供の特徴なのかもしれないが、そう思わずにはいられなかった。 話が逸れたので戻すが、木乃香に危険が及ばない以上、彼女に敵が現れたことを言いたくなかったのだろう。 木乃香の気持ちになれば、言って欲しいのだろうけどネギ達が言わない以上、澤村が口を割るわけにもいかないので黙っておく。 一行は世間話に花を咲かす。 話題は移り変わり……最終的には、澤村の疑問が持ち出された。 「そういえば、ネギ先生は何故神楽坂さん達の部屋に居候しているんですか?」 他の生徒とか先生のところにクラスとか……そう零した澤村に、木乃香がにこにこして答える。 「ウチのおじーちゃんがな、しばらくネギ君をここに泊めてもらえんか言われて、それからずっと住んどるんよ」 なー? とネギに首を傾げて見せる木乃香。ネギはこくこくと頷いた。 けれどおかしい。 木乃香の言葉を聞く限り、おかしい点がある。 「しばらくって……いつから住んでるんだ? 結構経ってるんじゃ……」 「そうねぇ。ネギがこっちに来てからだから……2月くらいからかな」 待て。 待て待て。 待て待て待て。 ――――― 待 て ぃ っ ! ! 長い、長すぎる。学園長のしばらくは一体何ヶ月なんだ。それとも今が何月なのかわかっていないというのか。 明日菜がさらっと言った言葉が信じられなかった。 「長くないか? っていうか、隣……俺が今住んでるところだけど、ネギ先生が来たときも空いてただろ?」 しかもこの話題になる前の会話では、今こそ別のベッドで寝るようになったけれど以前は、明日菜の布団に潜り込んでいたと言うではないか。 ……やはりこの子供教師、ただのませたエロガキなのでは? じろり、とネギを見ると彼はびくりと体を震わせた。 確かに修学旅行の時もとんでもない目に合わせ―――――ちょっと待て。仮契約以外にもキスをしたんじゃないのか、こやつは。彼の寝相の被害が明日菜や木乃香に及んでいたら……それは大変だ。多いに。いろいろ。 だがどうする。それを明日菜に問うていいのか? いや、まずいだろ。ある意味セクハラだ。 澤村の思考はトリップ状態だった。いろんなところに跳んでは戻り、跳んでは戻りを繰り返している。 とりあえず落ち着こうと紅茶を飲む。うん……実においしい。 「言われてみれば……それに私達に頼んだとき、住むところがまだ決まってないからとか学園長言ってたわよね?」 木乃香を見て同意を求める明日菜。彼女はそやったっけーとのんびりと答えるのみ。 駄目だ、木乃香はぽややんだから覚えていないんだ。学園長もきっとそうなのだろう。近衛家はきっとそう言う家柄なのだ。 等と澤村は、失礼なことを思いながらも紅茶をもう一口飲む。いやはや……実においしい。 明日菜はジロリとネギを睨むと言う。 「……あんたいつまでいんのよ」 「あうっ、僕に言われても……」 はいはい其処、涙目にならなーい。 心の中でそう言いながら澤村はネギを見た。それもジト目で。 なんとなくこう、イライラしている。敵を見たときとは別のイライラだ。 この子供教師を明日菜達の部屋に住ませているのがどうも癪でしょうがない。羨ましいわけではないのだが、どうしてもそう思わずにはいられなかったのだ。 「まぁまぁ。俺っちは、兄貴はここに住んでいた方がいいと思いやすぜ」 ネギの胸で泣いていたカモが余計なことを言う。 丁度テーブルの上に飛び乗ってきてクッキーを食べようとしていたので、また鼻を押してやった。 「い、いででっ! だから鼻潰れますって、旦那!!」 無視。 鼻を押されたくないなら、其処の子供をどうにかしろと言いたいところだった。 涙目になるネギを見て、澤村は大きな溜息をつく。仕方がない。背に腹はかえられん。いや、何が背で何が腹かはよくわかっていないけど。言葉の意味自体、あまりよくわかっていない。 そして、 「……なんなら、俺と一緒に住みます?」 と言ってみた。 「――――えぇぇえーーーー!!」 ネギが情けない大声を上げた。三人と一匹はびっくりである。 そんな彼は、わたわたしながらも言う。 「だ、ダメです!!」 何が? 皆してネギを見る。 あうっと声を漏らすネギ。反射的に声を出したのかもしれない。 言葉に詰まるネギに澤村は、追い討ちをかける。ダメですの意味というか理由がわかったからだ。 「生徒と一緒に暮らすのってまずくないんですか? テストの事とかありますし……教師は生徒に対して平等でなくてはいけないでしょ」 あうっ。 口癖なのか、またそんな声がネギの口から出てきた。 やばい、なんかイライラが頂点に達しそう。 純粋にムカツク、という感情があるのかもしれない。 今目の前にいる子供教師は、本当にただの子供で教師としてのやる気があるのかとか問い質したくなるほど情けない姿だったから。 思い返せば、言いたい事がたくさんある。 けれども、それだけじゃなかった。 何か、引っかかる。 すぐ泣くところ。 ムキになるところ。 現実を知っていると思っているところ。 けれど実際は現実を全く知らないところ。 感情に流されやすいところ。 そのまま突っ走ってしまうところ。 ―――――そして何より、無欲のようで貪欲なところ。 それが、澤村に何か思い出させようとしていた。 「いくら子供で、住むところが決まっていなくても、自分の生徒だからと断ることはしなかったんですか。……教師として」 澤村の異変に気が付いたのか、明日菜から感じる視線の変化が僅かながらだわかった。それは木乃香も同様で、彼の名を呼んで問いかけてくる。 カモも澤村に鼻が押さなくなったためか、じぃっと見つめているように思えた。 周囲の変化で自分の異変にようやく気が付く。 空気がおかしい。 いけない。切り換えなくては。今はネギを責め立てている場合ではない。というか、これは単なる八つ当たりではないか。 沈黙が訪れる。 何かが、崩れ始める。 「――――ぼ、くは……」 ネギの瞳が遠くを見ている。 まずい。 具体的に何がまずいのかはわからないが、触れてはいけないものに触れてしまったような気がした。 まだ全て崩れてはいない。修復しなければ駄目だ。 このままじゃきっと――――― ―――――共に崩れてしまう。 「ま、ネギ先生はまだ子供ですし……仕方がないかもしれませんね。俺も一人の方が好きですし、神楽坂さん達と一緒に暮らしていた方が栄養バランスのいい食事が摂れるし」 少しだけ早口でそう言う。 そうしなければ、お互い後戻りが効きそうになかった。 皆の視線を感じつつも、澤村はクッキーをひょいと口の中に入れた。 「あ、クッキーもおいしい」 「おおきに、翔騎君」 崩れそうだったものは、なんとか直せたらしい。 空気が元に戻っていく。 結局その後、澤村達は軽い談笑をかわしてから、ちょっとしたお茶会をお開きにしたのだが、ただ一人、ネギだけが最後までどこかぼうっとしていたままだった。 夜。 明日菜も木乃香もぐっすりと眠っているのか、寝息がネギの耳に届いてくる。 ネギは自分の布団できちんと横になっていた。明日菜のところにもぐり込んでいるということはない。 睡魔は襲ってきているのだが、それでもぎりぎりのところである言葉がネギを眠りへとつかせなかった。 ――――――いくら子供で、住むところが決まっていなくても、自分の生徒だからと断ることはしなかったんですか。……教師として。 甘えるな、と言われている気がした。 教師としてだけでなく、魔法使いとしても何かを咎められているような気がしてならない。 自分が歩んでいこうとしている道に高い塀を作られた気分だった。 超えられるものなら超えてみろ、と言ってる。 いつだってあの少年は、ネギに何かを与えてくる。 それは決していいものでない。 黒い感情を生み出す原料だった。 一度足りとも自分の生徒にそんな感情を抱いたことなどなかったのに。 ネギは大きな溜息を漏らす。 「――――どうしたんだ、兄貴」 布のこすれ合う音がネギの耳に届く。 視線を横にずらせば、珍しく木乃香が作った寝床で寝ていたカモがいた。しょぼしょぼした目を擦って、ネギを見ている。 「なんでもないよ、カモ君」 笑って答える。眠いせいなのか、なんだかあんまり顔の筋肉が動いていない気がする。 カモはネギの顔をしばらく見つめると、 「旦那が言った言葉が気になるんだろ」 その外見に似合わず、ニヒルに笑ってそう言った。 たぶん、目の前にいる頼り甲斐のあるオコジョ妖精は、自分より年上なのだろう。 こんな仕草を見るたびに、ネギはそんなことを思う。 だって、彼が言っていることは紛れもない真実だから。 「兄貴も旦那も、まだまだ子供だからな……」 カモは、どっこらしょとオヤジ臭い言葉を発しながら寝床で腰を据え直す。 ネギも同じように上半身を起して座ろうかとしたのだが、カモに止められた。結局、そのまま顔を向けるだけとなる。 子供、と言われるとどうもムキになってしまうのだが、今回は何故かそういう風にはならなかった。 不思議とかそんなことを思う余裕もなく、カモの言葉が続く。 「わかってるつもりだったことが、実は全くわかってなかったってーことは、多いもんだぜ」 俺っちにもある、とカモが肩を竦めて言った。 それがおどけてなのか別の感情からきた動作なのか、ネギにはわからない。 ただ、目の前にいるカモの言葉に耳を傾けるのみ。 「兄貴だって、いつかはそういう事にぶつかるはずだぜ。もちろん、旦那もな」 いつものカモらしくない、口調。 ぽつぽつとゆっくり、子供に物語でも聞かせるような柔らかい声。 それが、眠りへとネギを引きこんでいく。 結局―――― 「きっと、兄貴と旦那は―――――酷く似ていて、酷く正反対な人間なんだよ」 ―――――カモの小さな小さな独り言を、朦朧とする意識で聞きながらネギは深い眠りへと落ちていくのだった。 酷く似ている自分とネギは、きっと反りが合わないのだろう。 そんなことを思いながら、澤村は本に目を通す。 相変わらずラテン語の翻訳に苦戦している上に、魔法が成功することもなかった。 ぐっと両手を上げて背筋を伸ばす。 ずっと机に向かっていたので、固まってしまっていた体がほぐれるのがわかった。 頭をぼりぼりと掻きながらも机に脇に置いておいた携帯に視線を落とす。 11時。 これはまずい。 早く寝ないとまた3時頃にあの色黒で銃を持った悪魔が現れるかもしれない。 さっさと寝てしまおう。 本を閉じて、携帯を充電器に乗せる。澤村は椅子から立ち上がると、ベッドへと歩みよろうとしたら――――― 「おっ……」 足に何かがぶつかった。 その何かは、聞きなれていた音を立てて転がる。 ――――網に入っている、サッカーボールだった。 唯一、自分が心底欲しいと思って、買った物の一つ。とはいっても、心底欲しいと思って買ったのは、サッカー用品ばかりだが。 そういえば、最近は全く触れていない。 「最近、やってないもんな」 何故だか苦笑が漏れた。 あんなに無我夢中で、サッカーボールに触れない日などなかったというのに。 澤村はボールを手に取ると、そのままベッドにまで持ちこんだ。腰を下ろす。 傷が見えるものの、汚れはない。使った後はきちんと綺麗にするからだ。修学旅行から帰ってきた時も、一度使ったからと拭いたものである。 我ながら、大事にしていると思う。網からボールを出し、掲げてみたり、弾ませてみたり……しばらく触れ続けた。 今でもこうやってサッカーボールを手にしていることに、心を弾ませる自分がなんだか嬉しくてしょうがなかったのだ。 麻帆良学園に来てから約6年。 そういえば、初めて学園長を見たときは、ちょっと驚いたな。なんて自然と笑みが漏れる。 あの頃の自分は、なんとなくしか覚えていないが、結構歪んだ性格をしていたと思う。 クラスの子にいちゃもんつけて喧嘩をしたり、 イライラすることが多かったり、 度の過ぎた悪戯をしたり、 かなり酷い人間だったやもしれない。 友達も少なかった。 けれど、時が経つにつれて刺々しさや荒々しさがなくなり、友達も増えてきた。 小学校の友達からは、随分変わったねと今でも言われることがある。 反抗期、だったのだろうか。 自分でも不思議に思ってしまうくらい、麻帆良に来た当初の自分は悪ガキだった。 ……だからこそ、今はこんな性格になったのかもしれない。 そう思った途端、欠伸が出る。 いけない、寝るつもりでいたのだった。 思い耽ってしまった自分に苦笑しつつも、澤村はボールを網へと戻す。 電気を消して、ベッドの中へ。 眠ろうと目蓋を閉じる前に、ふと澤村は思う。 ――――今日見た敵に抱いた時の自分と麻帆良に来た当初の自分は、少しだけ似ているかもしれない、と。 目蓋を閉じたと同時に、澤村は眠りについた。 |