Act4-18


【亜子】


――――その日、和泉亜子は男子中等部サッカー部のマネージャーの仕事で学園に来ていた。
 正午になって昼休みに入ったところで、昨日学園の自分の教室である3−A教室に忘れ物をしていたことを思い出す。
 特に急を要する程の忘れ物ではなかったが、忘れない内に取りに行こうと思い、駆け足で3−A教室へと向かっていた。

「ふんふん〜♪ っと……? 何やろ、何かおかしいよーな……?」

 3−A教室近くまで来て、何かがおかしいことに気付き、足を止める。
 その『何か』が何なのかはわからないが、とにかく亜子の中の第六感が何かがおかしいと警告してきたのだ。
 日曜日で授業も無いのだから誰もいないのは当然なのだが、しん、と静まり返った廊下が急に不気味に思えてきて、亜子は急いで教室に入って、自分の席からお気に入りのバンドエイドの入ったピンク色のケースを探す。
 カバンの中に入っていなかったから教室に忘れてきたものだと思っていたのだが、目当てのケースは見つからない。

「うーん……もしかすると、カバンの奥の方に隠れて見えへんかっただけかも知れへんな。無駄足やったかー」


 苦笑しながらそう呟き、教室から出ようとしたその時――――無音の、誰もいないはずの教室に、カタン、という音が響いた。


 ビクリ、と体が震え、心臓が跳ね上がる。
 恐る恐るゆっくりと振り返ってみれば、ピンク色のケースが自分の机の上に置かれていた。
 間違いなく亜子の探していたものだが、机の上にあったのならば教室に入ってきた時点で気づいているはず。
 つまり。
 このピンク色のケースは、自分が背を向けた後に誰かが置いたもの。

「あ……あは、あはは……別の机探してもうたんかなー?」

 そんな訳がない。
 確かに、間違いなく自分の机を探したはずだとわかっていたが、それを認めたくなくて無理矢理わからないフリをする。
 亜子はいつでも逃げられるような体勢をとりながら、机の上に置かれた自分のピンク色のケースにゆっくりと手を伸ばす。
 指先がケースに触れた瞬間、しっかりとケースを掴んで教室の扉に向かってダッシュする。
 とにかく早く、一刻も早く、一秒でも早く、この教室から外に出たかった。
 扉までの距離を長く感じながらも、何とか辿り着き扉の取っ手に指をかけて引っ張る。

「どうして?! 開いて! お願いやから開いてーっ!!」

 何度やっても、渾身の力を込めて引いても、扉は開かない。
 開かない扉に焦り、亜子は半狂乱状態に陥りながら叫ぶ。

 この3−A教室には一つの噂がある。
 麻帆良中学3階A組教室最前列窓際の席――――通称、『座らずの席』。
 相坂さよの席なのだが、座ると寒気のするその席には、以前から幽霊の噂が絶えず囁かれていた。
 麻帆良祭の少し前に幽霊騒ぎがあり、幽霊退治ということで夜の教室に泊まり込んだ時は、ポルターガイストや血文字といった現象が起きて、皆パニックに陥ったことがある。
 刹那と龍宮が出てきて何やらドタバタした結果、相坂さよは成仏したことになっていた。

「だ、誰か……た、たす……助けて……」


『トモ……ダチ……』


 怯える亜子の耳に、地獄の底から聞こえてくるかのような女の声が飛び込んできた。
 突然聞こえたその声に亜子はガタガタと震えながらも、その声の主を捜して扉を背に視線を巡らせる。


『トモ、ダチ……遊ビマショウ……』


「ひ……ひぃやあああああああああああああああーーーーーっっっ?!!」


 その目の前に突然、眼窩の窪んだ地獄の亡者の如き形相の、セーラー服を着た女の幽霊が人魂を従えて姿を現す。
 いよいよもって恐怖の極みに達した亜子は、あらん限りの声で悲鳴をあげ、唯一の逃避行動……すなわち、気絶したのだった。




〜朧月〜




【ネギ】


「くっ……」

「志貴さん!? その傷……!」

 白いレンさんが去った後、それまで無表情で立っていた志貴さんが顔を顰め、呻きを漏らしながら床に膝を着く。
 見れば、腕で隠されて見えていなかった部分――――脇腹の辺りが血で赤く染まり、出血していた。
 それにいち早く気付いたこのかさんが駆け寄り、志貴さんの脇腹を押さえていた手を退けて傷口を確認する。

「……志貴さんって、ネギ達みたいに障壁とか使えないの?」

「障壁……? ……ああ、俺はそういった力や知識は持ってなくてね。知り合い……に、詳しい人はいるんだけど……」

「はー、そうなんかー。んー……これくらいの大きさならまだ大丈夫かな? それじゃ、ちょっとゴメンな、志貴さん。……プラクテ・ビギ・ナル 汝が為にトウイ・グラーティアー ユピテル王のヨウイス・グラーテイア恩寵あれシット――――治癒クーラ

 このかさんの治療を受けながら、志貴さんはアスナさんの問いに苦笑を浮かべて答える。
 確かに志貴さんはレンさんと契約して維持していることからかなりの魔力を持っていることが窺えるけれど、その魔力の大半は……何か別な方向へと消費されているように僕には見えた。
 さっきの戦いでは、白いレンさんの放った氷の刃を、眼鏡を外して短刀一本で弾き、消滅させて凌いでいる。
 眼鏡の着脱があったという点から考えれば、魔眼か何かだということは確かだとわかるけれど、氷の刃に対して何らかの効果があったようには見えなかった。
 だとすると……志貴さんの持つあの短刀に、何らかの魔力付与がなされているのかも知れない。
 魔法で作り出された鋭い氷の弾を消滅させていたその力は、まるでアスナさんのアーティファクトみたいだったけれど、志貴さんは『完全魔法無効化能力者』ではないと思う。
 白いレンさんの氷の刃で傷ついていることもあるが、どこか……アスナさんの力とは違う印象を受けたからだ。

「あの、志貴さん。聞きたいことがあるんですが」

「ん……どうかした、ネギく――――」



「ひぃやあああああああああああああああーーーーーっっっ?!!」



「っ?! この声……亜子さん!?」

「悪い、ネギ君。話は後にしてくれ」

 答えてもらえるとは思わないけど、志貴さんの『力』が何なのか聞いてみようと思ったその時、突然どこからか悲鳴が響き渡った。
 今の声は……少し距離が離れているが、確かに亜子さんの声で間違いない。
 声の方向からして恐らく――――3−A教室からだ!

 声の聞こえた方向から即座に判断したのか、僕達の誰よりも速く志貴さんが3−Aへ向けて走り出す。
 怪我の治療は既に終えていたらしく、その動きに問題は見られない。
 それに少し遅れて、このかさんを抱きかかえた刹那さんが走り出す。
 二人に遅れないように僕も走り出し、その後ろにアスナさんとのどかさんが続いている。

「志貴さんっ、その先の3−Aという札のかかった教室ですっ!!」

 先を行く志貴さんは僕の声に、無言で軽く右手を上げて応える。
 志貴さんは3−A教室の扉の前に張り付き、小さく扉を開けて中の様子を窺った後、何か見つけたのか急いで中へ入っていった。
 その後に続いてこのかさんを抱えた刹那さんが教室に入って――――僕の目の前でバタン! という大きな音を立てて扉が閉ざされる。

「しまった……! まさか、僕達を分断するつもりで……!?」

「刹那さんっ! このかっ! 志貴さんっ!」

 今の状況から考えれば、これもタタリが起こしているものだろう。
 教室の中からガシャンガシャンという金属のぶつかり合うような音が聞こえ、教室の廊下側の窓にバリケードのように机が積み上げられていくのが見えた。
 恐らく教室の扉の内側にも積み上げられているから、僕達が下手に押し入ろうとしたらこの積み上げられた机が崩れてしまう。
 そうだとすると、中にいる刹那さん達に机が崩れ……いや、刹那さんとこのかさんは『召喚』で呼び寄せられるからいいが、問題は志貴さんと亜子さんだ。
 二人とも僕のように障壁によって守られている訳ではないから、下手をすれば机の雪崩に押し潰されてしまうかも知れない。

「ネギ、退きなさい! せぇーのぉっ……!!」

「わあああぁぁぁっっっ?! ストップ! ストップです、アスナさんーーーっっっ!!!」

「な、中にいる人に机が落ちちゃいます!」

 僕の後ろで、大剣を振り上げたアスナさんが今にも教室の扉目がけて振り下ろさんとしていた。
 咄嗟にのどかさんと一緒にアスナさんを止めたが、下手をしたら死人が出ていたかもしれない。

「姐さん、何でも力で解決しようとするのはいただけねぇぜ?」

「う……じゃ、じゃあどうするのよっ! このままじゃ中に入れないじゃない!!」

 中からガシャンガシャンという音が聞こえてきていることから察するに、机や椅子が飛び交っているようだ。
 教室の廊下側の窓から中を覗き込んで見るが、机やら椅子やらが積み重ねられていてよく見えない。
 ふと積み重なった机と椅子の隙間から、中の様子を見ることができることに気付き、目を凝らす。
 その隙間からは、志貴さんが亜子さんを背中に庇っている姿だけが見えた。
 中の様子を更によく見ようと目を凝らした、次の瞬間――――


 眼鏡を外した志貴さんの眼が、蒼く、冷たい輝きを宿す。


 その直後に机が飛んできたらしく、その隙間からは見えなくなってしまったが、ほんの一瞬だけ見えた志貴さんのあの蒼い瞳には、背筋を凍りつかせるかのような怖ろしさがあった。

「アニキ、向こう側の窓から入ろうぜ! こっち側にある机と椅子の量からして、向こう側はすっからかんのはず……って、アニキ?」

「……ネギ? どうかしたの?」

「ネギ先生……?」

「……アスナさんとのどかさんはここで待っててください。カモ君、行こう!」

 杖を手にして、カモ君と一緒に隣の教室へと向かう。
 けれど、心の中では3−A教室の中で起きているタタリは、もうじき解決するような気がした。
 自分自身でも何の確証も無いのに何故と思ったが、何となくそれが正しい気がする。
 隣の教室の窓から外へ出ようとしたところで、丁度教室を覆っていた魔力が消えていくのがわかった。

「刹那の姉さんが解決してくれたみてぇだな、アニキ」

「いや……ううん、そうだね、カモ君」


 僕は陽気に話しかけてくるカモ君に曖昧に答えながら、頭の中ではタタリを倒したのは刹那さんじゃないと思っていた。
 タタリを倒したのは、きっと――――――――





□今日のNG■


「だ、誰か……た、たす……助けて……」

 和泉亜子は追い詰められていた。
 3−A教室の扉は開かず、教室の中には何かの気配がある。
 それは、良くないモノ。
 決して関わってはならないモノだと、彼女の直感が告げていた。
 そして怯える亜子の耳に聞こえてきたのは――――何か、めっさやたら陽気な声。


「いよーう、アコネコナース。今日も元気にネコミミってるかー? いい意味でー」


「いやああああああああああ?! ネコミミ着けた変なぬいぐるみが喋っとるー!!!」

 一度何かに恐怖すると、何もかもが怖くなる。
 今の彼女には、この恐怖の欠片もクソも無いナマモノであっても、喋っているという一点だけで怖ろしいのだろう。
 普段気にならない日本人形も、夜になりゃ怖くなるのだ。
 ネコアルクもまた、怖いと思えば怖い……のかもしれない。

「にゃにゃ、変なぬいぐるみとは心外な。びゅーてぃーころしあむをして、『出る必要ない』とまで言わしめたあちしの美貌の前に誰もが皆跪き、猫缶とマタタビを献上する……そんな未来を夢見るワタシ」

「……猫?」

「いかにも。偉大なるネコアルク様であーる。敬ってにくきゅーぷにぷにしたまへ」

 少しは落ち着いてきたのか、体の震えも止まった亜子はネコアルクに訝しげな視線を向ける。
 喋ったことには驚いたが、特に害も無さそうなので、ネコアルクの差し出してきた肉球にそっと手を伸ばそうとして――――肉球を顔に押し付けられた。

「な、何するん?! 今、肉球ぷにぷにしろって……」

「甘い! バレンタインデー前日に『チョコを貰えるかもー』とか思って下駄箱とか整理してる男子生徒並に甘い!! この極上の肉球、ぷにぷにしたくば猫缶寄越せぇぇぇ!!!」

「ひゃあああー?! 逆ギレキャットー?!!」

 突然体を回転させながら突進してきたネコアルクに、亜子は咄嗟に頭を抱えて地面に伏せる。
 すると――――ネコアルクは亜子が背にしていた教室の扉をぶち抜き、その勢いのまま更に廊下の壁すらぶち抜いてしまった。


「のぉぉーうっ?! ぬかったわ、ブレーキが効かぬ! だーがしかし、駄菓子菓子!! このネコアルク、退かぬ媚びぬ省みぃぃぃ……――――うわらばっっっ?!!」


 猫といえど重力には逆らえず、何か喚きながら校庭へと落ちていくネコアルク。
 ズン、という音が聞こえ、亜子は恐る恐る廊下に開いた穴から校庭を覗き見ると――――某犬○家の一族風に地面に頭を突っ込んだまま動かぬナマモノの姿があった。
 短い足がピクピクしているところを見ると、どうやら命に別状は無いらしい。……残念なことに。

「落ちてもーた。……ま、生きてるみたいやし、ええか」


 亜子はちょっぴり罪悪感を感じながらも、これ以上関わりたくないという気持ちから助けに行かないことにしたのだった。


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